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安部ヨリミ『スフィンクスは笑う』を読みました

スフィンクスは笑う (講談社文芸文庫)

スフィンクスは笑う (講談社文芸文庫)

安部公房の『砂の女』について調べていた時に、安部公房の母親が小説を書いていたことを知り、軽い気持ちで読んで打ちのめされました。夢中でページを繰ってしまうようなものすごい小説だ。恋愛小説なんだけど社会派で、全身全霊で書いた小説という迫力がある。素晴らしかった。
安部ヨリミは、東京女子高等師範学校社会主義団体のビラを貼って退学になったという、なかなかに自立心の強そうな女性です。安部公房の本では、ちょっと神経質そうなエピソードも語られていたので、感受性の強さは小説家向きなのかも。本書は公房が生まれた1924年の刊行なのですが、これが唯一の著作であることが惜しまれてなりません。


小説は「道子から安子へ」と書かれた手紙から始まります。手紙には恋の勝利者となって兼輔と結婚した自分は間違いなく幸福であること、しかし繰り返される単調な毎日が恐ろしく感じることなどが書かれています。読者は読み進めるうちに、兼輔は安子の姉である澄子と親しかったが、澄子が婿養子を迎えることになったために道子と結婚して東京に出てきたこと、故郷である北海道にいる道子の兄・一郎はどうやら安子のことが好きなようだが、安子には結婚する気が無さそうであることなどを知ります。そしてある日押し入れの中身の虫干しをしていた道子が古いトランクの中から差出人に澄子と書かれた封筒を見つけ、その封筒の中身を見た時、読者は道子とともに真実を知って息をのむのです。

ふと気が附いて見ると、驚いた事には、封筒の署名は澄子となっていて、手紙の中の署名は安子となっていた。狼狽を感じて彼の女は急いで凡ての手紙を披いてみた。皆そうなっていた。(P.28)

そして読者と道子は、兼輔と一郎がともに安子に恋をしていたこと、兼輔が勝利者となって安子と肉体関係を持つが、長年の友人であった一郎が失恋に打ちのめされる様を目の当たりにして安子を一郎に譲る決心をしたことを知ります。

ここで上記のような秘密をばらしてしまったのは、これがクライマックスではないからです。これがクライマックスではないからこそ、この小説はすごいのです。すべてが明らかになり、彼らの懊悩が始まってからが本番です。ただの女学生あがりのロマン主義的な恋愛小説ではない!ここには実際的な生活がある。
だいたい譲るってなんだ譲るって、という感じではあるのですが、時代も時代だし、そこは一旦目を瞑りましょう。それに唯々諾々と譲られるだけの安子ではありません。

この小説を読んでいて感じたのは、著者のヨリミは当時から見てもかなり先進的な女性だと思われること、しかもフェアな視点を持っていただろうということです。
「友人に譲る」という意味のわからん理由で恋人に捨てられた安子はおとなしく譲られた先の友人である一郎に嫁ぐことはなく、半ば自暴自棄になって荒れた生活を送ります。そしていろんな経験を経てようやく落ち着こうかという矢先に、手を伸ばせば届くところにある「女の幸せ」が、他ならぬ安子自身の意思によって投げ捨てられるのです。男たちによって人生を狂わされた弱く哀れな女という描かれ方は、決してしていない。それはたぶん、ヨリミの矜持だと思います。この安子というキャラクタの造形はこの小説最大の魅力ですね。

また男たちについても、血の通った等身大の存在として描いているように思います。たとえばすでに他人と関係を持ったことのある女性を妻に迎えることについて(当時としては珍しく)「それでも愛することができる!」と力強く言い切る一郎に、以下のように言わせているのです。

「(略)露骨に私の心を云うと、私は、あの女の不幸を祈っている。安子さんを人間として愛しているのではなくて、恋人として愛しているのだから、恋を裏切られた私の心には、実は憎みが一杯にある。あの女が不幸になって、私の前に泣きながら現れて来たら、私はあの女を救わずにはいられない。しかし、あの女が幸福に輝かされるような事があったら、あの女を憎まずにはいられないだろう。」(P.99)

これですよ!ヨリミさん、わかってらっしゃる…。
小説の中にはロシア文学や日本文学、当時の思想や社会問題などがちらほら顔を出していて、著者が学のある女性であることが垣間見えるのですが、理に陥らずに情を理解し、それを組み込みながら小説として完成させているところに力量を感じました。

また貞操問題が作品全体を通して随所で論じられているのは上記のあらすじからも察せられるかと思います。当時どういう状態だったのかあまり詳しくないのですが、彼女が所属する婦人団体の課題の一つだったのかもしれません。面白いのは貞操観念について男性である兼輔と一郎のふたりに議論させているところで、「若し、女の貞操が生命程大切だとすれば男の貞操も亦しかあるべき筈だ。(P.70)」というセリフを一郎に語らせ、兼輔に同意させているのが上手い。

また安子がつらい思いをしているときに、父親が安子に送った手紙が名文だったのでご紹介します。

余り絶望するな。世の中の如何なる喜びもそう大したものではないのだ。同時に悲しみもそう永久的に続くものではない。苦しみの中に安心を見出して呉れ。毀れ去った希望や歓楽に対して余り心を苦しめて呉れるな。凡てのものは過ぎて行くのだ!(P.110)

いったい当時ヨリミに何があったのかと邪推したくなりますが、先進的で学のある女性はいろいろと生き辛かったのかもしれません。東京に出てきてやっと息ができるようになったのかもしれない。その後満州に行くことになるわけだけれど。

そして162ページから始まる安子の独白で小説の雰囲気はがらりと変わり、その語りの結末がまた衝撃的で素晴らしい。北の大地で育った著者のリアリズムが導いた結末かもしれません。

スフィンクスは笑う』というタイトルがまた秀逸ですね。実はスフィンクスという単語は小説中に一度も出てこないのです。いったい笑っているのは誰なのか。何を笑っているのか。


びっくりするほどいい小説でした。講談社文芸文庫から出してくれたおかげで読むことができた。ありがとうございます。
今回は図書館で借りて読んだのですが、後日改めて買います。めちゃくちゃよかったです。