好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

濱野ちひろ『聖なるズー』を読みました

聖なるズー

聖なるズー

面白いよ、と言われて貸してもらった本なのですが、思っていた以上に面白くて一気に読んでしまった。好みが把握されているのだろうか……

この本は、DV被害に遭った過去をもつ著者が大学院の研究課題に「動物性愛」を選び、研究を通して愛とは何かを考えていくという内容です。愛とはなにかとかいうと大仰な感じもしますが、でもだいたいそんな感じ。主にドイツの「ゼータ」という動物性愛者の団体について書かれています。

そもそも「動物性愛」って何? というところからなわけですが、ものすごく簡略化して言うと、恋人 / 妻 / 夫として、ヒトではなく動物を選ぶ性的志向のこと。恋愛対象として動物を愛すること。獣姦(Beastiality)との違いは、性的行為を行う対象の動物への愛情があるかどうか。精神医学的にはパラフィリアの一種にカテゴライズされているそうです。なおこの記事では本書に倣って、動物性愛者(zoophile)を以降、ズーと表記します。

動物に恋をすることも、その思いが加速して性行為に及ぶことも、まぁそういうこともあろうなぁと思う。私は動物を飼ったことがないけど、ずっと一緒に育った犬が家族や友達になりうるなら、恋人になるという可能性だってあるだろう。そんなに不思議なことではないように思う。
私が本書を面白いと感じたのは動物に性的な愛情を抱くこと自体ではなくて、世間的に極度に憚られる性的志向を持った人たちが自分の好みをどのように捉えて折り合いをつけているのかというところです。

今では地球はすっかり人間のナワバリになってしまったので、世間的にも法律的にも、あらゆる動物は人間より下の、庇護すべき存在と見做されている。なので人間が動物と性行為を行うと、一般的にそれは「動物虐待」と捉えられる。
だから本書で語られるゼータのメンバーは、パートナーとの性行為が動物虐待にならないよう非常に気を遣っている。彼らは、性行為のきっかけはいつも「動物からの誘い」であると言い、パートナーの動物と「対等」な関係であることをしきりに強調し、動物にとって負担になることは決してしないと言う。ゼータに属さないズーたちは、そんなゼータのメンバーを「聖なるズー」と呼び、聖人君子だと揶揄する。

 人間と正常位でセックスすることは犬の身体には不自然で、負担がかかるのではないか。さらに、ディルクが言うようにメスの犬を人間とのセックスに「半年かけて慣らしていく」ということが行われているのであれば、それは動物をセックスのためにトレーニングすることではないのか。(中略)
 こういった点は、実はズー同士でも議論になることがある。アクティブ・パートは常に疑問視される側で、パッシブ・パートが追及する側だ。アクティブ・パートは、自分のセックスが虐待的だと見なされるのではないかという恐怖にいつも怯えている。(P.156-157)

アクティブ・パートは性行為において挿入する側、パッシブ・パートは挿入される側のことです。

ゼータのズーたちはパートナーたる動物と常に対等であろうとする。彼らを虐待することのないよう非常に気を遣っている。それは当然、まったく悪いことではない。人間同士においても必要な配慮でもある。
ただ、どうしても気になってしまうのが、そもそも恋愛と倫理を両立させようなんて土台無理な話では? ということだ。恋愛における対等さって、目指すべきものではあるかもしれないけど、実現できるものではないだろう。掴んだと思ったらまたすぐに離れていくレベルのもの。感情のシーソーが常にどちらか一方にだけ傾いているのはどうかなぁと思うけど、シーソーが常に釣り合って一定であるというのは、それは私にとって恋とは言い難い。いやもちろん釣り合うこともあるんだけど、ずっと一定でいるなんて、そんな。
そもそも「対等」って言葉を恋愛に持ち出すのがなんか胡散臭い。フェアでありたいというならわかるけど、対等を守るのとは違うよな。翻訳の問題だろうか。私は恋愛的な意味で相手を好きになるというのは、相手に対して敗北することを自分に許すということだと思っている。お互いがお互いに相手に対して敗北するとき、そのシーソーはぐらんぐらん揺れるものではなかろうか。ゼータのズーたちは、パートナーの動物が自分に対して敗北することを許容できないんじゃないだろうか。多分それは言葉が通じないとかは全然関係なくて(人間だって言語が違うことはある)、世間体がそれを許さないからなんだろうけれど。
つまり、対等ではない時間、敗北する時間が存在することを許容せずに相手と付き合っていくなんてできるの? ということだ。私がズーだったとしても、多分ゼータのメンバーにはならないだろう。なんかちょっと、きれいすぎる。
ゼータのズーたちはしきりに対等性を強調するけど、何かのきっかけで対等性が崩れる瞬間というのは、実際のところ存在しうると思う。ただそれを公的に認めると、動物虐待と見做される恐れがある。リスクがありすぎる。著者自身も指摘していたけど、だからこそ彼らは対等性や愛を錦の御旗にして、彼ら自身の性的志向を肯定しているのだろう。
(……と思っているけど、もちろん私の方が間違っていて、世間にはそういう対等な愛が存在するという可能性もゼロではないということは認識しておくべきだと思うので、明記しておく。私はそうは思わないけど、私が間違っている可能性は当然あります。)


そして並行して気になるのは、対等性も愛もない性的志向は存在することすら悪なのか? ということだ。正当な理由がない、社会的に認められない、相手を傷つけることに直結するような性的志向を持っている場合。
そういうことをそもそも考えること自体あり得ない、意味わかんない、許せない、みたいな脊髄反射的な拒否反応が返ってくるような性的志向を持っていたとしたら、それはひどくつらいことだろう。病気と見做して治療をするというのが選択肢の一つと思われるけど、それってその志向自体を悪と見做すということなのかな。そこにはどうしても正常 / 異常の枠組みが発生する。
相手の合意のない行為というのは一つ残らず撲滅されるべきとは思うけれど、今ここで言いたいのはそこじゃなくて、動物としての生体反応的な快楽が社会的にアウトである場合ってのは常にありうるだろうなということです(自然界において、種としての生存戦略が他種の個体の犠牲を前提にすることさえ珍しくもないのだし)。セーフかアウトかの基準なんて時代によって変わってくるものではあるのだけれど。
動物としてのヒトの欲求と社会のなかの人間の規律(法律とか世間体とか)を完璧に両立させるのはやっぱ無理なんだろう。恋愛と倫理がうまく両立できないのと同じで、どこかで齟齬が出る。でも人間が集団で生きていく以上はどこかで線引きをする必要があるから、ノーマルの枠から零れ落ちるパターンというのはいつの時代も必ず出てしまうんだろうな。世界平和って難しいな。


だいぶ話が逸れましたが、他にもいろいろと面白いことが書かれていて、いろいろ考えながら読むことのできる本でした。とても楽しい読書でした。

パナソニック汐留美術館「分離派建築会100年展」に行ってきました

panasonic.co.jp

近代建築好きとして気になったので行ってきました。パナソニック留美術館は私好みの展覧会を開催することが多いので、よく行く美術館のひとつです。予約は不要ですが、混んでくると入場制限をするらしいので平日に行ったら、いい感じに空いていた。今回は結構マニア向け展示になってるので、そんなに混まないかもしれない。全体の印象としては、展示された資料集って感じでした。なんせ建築なので実物が展示されているわけではなく、設計図や模型がメインです。観る側にも想像力が求められる。

分離派建築会は、東京帝国大学の卒業生6人によって大正9(1920)年に発足された建築運動です。欧米の建築技術がどどっと日本に流れてきて、辰野金吾らが活躍したのが明治時代。そして主な手法を一通り学び終えて、日本らしさを模索しはじめたのが大正時代。当時は、建築は芸術ではない、構造が大事なんだという主張が声高にされていたらしいのですが、そんななか若い建築家たちが「建築は芸術である」として立ち上ったのがこの分離派建築会なのだとか。「我々は起つ」の宣言文が格好いい。
彼らは独自の展覧会を開催していましたが、時代の波に押され、昭和3(1928)年に開催された第七回展覧会を最後に散会したそうです。活動期間は10年足らずですが、今回の展示はその10年弱にスポットを当てたものになります。うーん、やっぱり若いときだからこそのエネルギーとかってあるのかな。世間にもまれるとだんだん丸くなるのか。でもメンバーのその後の活動を見ると、分離派建築会魂を完全に失ったわけではないようなので、彼らがそれぞれの道を歩いて行くために必要な場所だったんだろうなと思う。

分離派建築会初期メンバーの卒業設計の図面が公開されていたのですが、それぞれの筆跡の違いが面白かったです。石本喜久治の達筆ぶり! 彼の卒業設計「納骨堂」が美しくて好きでした。涙を流すモチーフがうまく使われていて、縦の線の伸びやかさが凄く良かった。卒業制作ではないけれど、山口文象の丘上の記念塔のデザインも良かったなぁ。
面白かったのが、分離派建築会メンバーそれぞれが違う個性を持っていて、無理に合わせようとしなかったところ。得意分野はそれぞれ違って、皆が同じようなデザインをするわけではないというのがすごく良い。

他に特に好みのデザインだったのが山田守で、現存しない東京中央電信局の写真が飾ってあったのがすごく美しかった。彼はパラボラ型アーチを多用したデザインが得意なんですが、ベルリンに滞在していたらしいし、ゴシック建築の影響なのかな。ちなみに山田守は京都タワーのデザインも手掛けているそうで、その反骨精神も実に良い。
彼らのデザインはそれまでの王道的西洋建築(○○様式と呼ばれるものたち)とは全然違う新しさを感じる。和洋折衷ともちがう、これが近代建築の始まりだったのかな。

建築は芸術か? という問いの答えは、当然「建築は芸術である」です。建築を芸術と見做すことは、べつに構造を置き去りにすることとは違う。美と機能は一心同体のものだ。構造がついていかない建築なんてただのガラクタで、存在できない時点で建築としてもうアウトである。構造第一、機能第一にしたときにおのずから美が生れてくるということもあるわけで、正直人の手で作られたもので芸術に属さないものなどありえないとさえ思っている。だって美しいほうがいいに決まってるもんね。
印象的だったのが、たしか石本喜久治だったと思うのですが、上司に何故この窓をこの形にしたのか? と聞かれてそのほうが光がよく入るからですと答えたら怒られたという話。なんでこのデザインが好みなんだと言わんのだ、と。いい上司だ。
次第に機能性や効率性に重きが置かれるようになって言って、遊びや余裕のあるものが受け入れられにくくなっていったのだろうか。でも一見無駄と思うようなことがすべてなくなると、結局いろいろ効率が悪くなってよろしくないということは、不要不急とやらでみんな実感したことでもある。遊びは大事なのだ。贅沢は素敵だ。

資料的な色の濃い展覧会ではありますが、分離派建築会ってこれまで全然知らなかったので、とても面白かったです。

ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』(高橋啓 訳)を読みました

この本の刊行予定が噂された半年ほど前からずっと待っていました。ローラン・ビネの新刊です。嬉しい! ありがとうございます!
前作『HHhH』を読んでからすっかりお気に入り作家となったローラン・ビネ。今回も期待を裏切らない面白さ、どころか期待をはるかに上回る面白さでした。2020年のマイベストだ。
カバー写真は仏語版で使われているのと同じものですが、カバーを外すとオレンジ一色の装丁になっていて、おしゃれで好き。と思ったら柳川貴代さん装丁だった。道理でシックなはずだ。

前作は歴史小説だったけれど、今回はサスペンスです。1980年2月25日にロラン・バルトが自動車事故に遭遇し、その後命を落とすという「史実」をもとに、ただの事故に見えたそれは実は大いなる陰謀によって仕組まれたことだったのだ! という最高のフィクション作品に昇華させました。
実在の人物(主にフランス思想界の重鎮たち、および政治家)が小説の登場人物としてわんさか出てくるのが面白いところ。バルト、フーコードゥルーズソレルスエーコミッテランなどなどなど。訳者あとがきにビネのインタビューの抜粋が書かれていて、名誉棄損で訴えられることなんて心配しなかった、だってバルトが殺されるなんて信じる根拠はまったくないからね、とけろりと語っています。まぁそうだろうさ。
小説の中では以下のように書いています。

 ロラン・バルトの不安げな態度を説明するために今挙げた理由はすべて〈史実〉として証明されているものばかりだが、僕が語りたいのは、本当は何が起こったのかということだ。(P.9)

そして「本当に起きたこと」という大風呂敷をビネは広げるわけですが……
探偵と助手、秘密結社、謎の集会、カーチェイス、怪しい男たち、怪しい女たち、闘技場での試合……ぜんぶぶち込みましたって感じの最高のエンタメ小説でした。いいなぁ、これぞ小説だ! まだ存命のソレルスクリステヴァにぜひ感想を聞きたいなぁ。彼らならきっと笑い飛ばすんだろうな。

なお主人公の探偵役とその助手役はビネの創作したキャラクターです。大学で記号学を教えている若い講師シモン・エルゾグ(でも専門は現代文学)と、パリの中年警視ジャック・バイヤール(助手役)。いいバディだった! 記号学シャーロック・ホームズ的探偵とここまで親和性が高いとは思いませんでしたが、よく考えたらそりゃそうだという気もする。
バルトもフーコーも知らないバイヤールは、記号学をキーワードに調査を進めるにあたって、その道に詳しいシモンに目を付けて捜査に駆り出す。二人が初めて会った場面で、記号学って何の役に立つんだ? と問うたバイヤールに対してシモンが記号学の実用性を証明するためにホームズぶりを発揮する場面を、ちょっとだけご覧ください。

「あなたはアルジェリア戦争を経験し、二度結婚し、別れた二番目の奥さんとのあいだにニ十歳未満の娘さんがいるけれども、関係がぎくしゃくしている。前回の大統領選では予備選と本線のどちらもジスカール・デスタンに投票し、来年の選挙でもそうしようとしている。職務遂行中に、おそらくはあなたのミスが原因で、相棒を亡くしており、そのことであなたは自分を責めているか、あるいはそのことに対して気まずい思いを抱いている。でも、上層部はあなたに責任はなかったと考えている。それから、あなたは最新作のジェームズ・ボンドを映画館に行って観ているが、どちらかというとテレビでメグレを観るか、リノ・ヴァンチュラの映画を観るほうが好きだ」(P.43)

これが記号学である!

別にフランスの近代思想家の著作を読んでいる必要はありません。名前を知らなくても大丈夫です。純粋なエンタメとして十分楽しめます。でも読んだことは無いけど興味がある、あるいは好きで読んでいる、という人には垂涎ものの小説だと思う(ちなみに私は読んだことは無いけど興味がある派)。
特に、あの、秘密結社集会に参加するシーンとかね、たまんないですよね……! カーチェイス場面も最高でした。映画化はいつですか。

以下、ネタバレを含むので隠しておきます。未読の方はご注意ください。

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映画『異端の鳥』を観てきました

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SFマガジン6月号で紹介されていたのを読んでからずっと公開を待っていた『異端の鳥』、ようやく公開されたので行ってきました。非常に良い映画だったので観て良かったけれど、万人受けする映画ではないのでなんともお勧めし難いところ。でもすごく良かった。

つい最近気がついたのですが、この『異端の鳥』、原作は小説『ペインティッド・バード』なのでした。そうだったのか!!実は読みたかったのにまだ読めてない本です。あれは忘れもしないX年前、神戸・三宮のジュンク堂で海外文学の棚の大きさに感動していたとき、この本が並んでいるのを確かにこの目で見たのでした。ただ、旅先だったので「帰ったら買おう」などと思った自分の甘さを呪う。売ってないんですよ……! しかもうちの近所の図書館にも置いていなかった。そのうち、そのうちと思っていたら今日になってしまった……。映画観て一層読みたくなったのですが、松籟社さん、在庫ありますでしょうか?

というわけで小説は読んでいない、映画鑑賞のみでの感想となります。3時間弱の長丁場、しかもその大半が暴力と悪意と死という気が滅入る映画ですが、観終わった後もずっといろいろ考え続けてしまう映画でもありました。
どんな話かというと、一人の少年が無慈悲な世界を彷徨い歩く話です。あらゆるところで暴力に遭い、あるいは目撃し、拳で、鞭で、言葉で殴られ、でも歩き続ける話です。人々は基本的に人工言語エスペラント語)を話し(ているらしい、聞き分けられなかったけれど)、3時間弱ずっとモノクロのまま、少年の黒い瞳がじっと世界を見つめている。
殴ったり殴られたり、動物が死んだりするのが苦手な人には残念ながらお勧めできない映画です。苦手な人はほんとにやめておいた方がいいです。笑い声などまず聞こえない、耳を打つのはすすり泣き、怒鳴り声、苦痛の叫び声が大半ですので。

それでもすごく良い映画だったので、大丈夫ならぜひおすすめしたい。神に見捨てられたかのような悲惨な世界の映像美が凄かったです。それに、異端の鳥っていい邦題だ。
全編モノクロなのは終末感を出すためだろうか。世界は色に溢れた鮮やかなものではないということか。とはいえ画面に赤が無くても、人々が流す鮮烈な血の色が見えるようだった。

ネタバレというほどのネタバレは特に無いようなストーリーなのですが、内容の細かいところまでがっつり触れているので、ここから下は隠しておきます。

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東京国立博物館「工藝2020 自然と美のかたち」に行ってきました

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ものっっすごく久々の東博に行ってきました。事前予約制になっていて、週末でもゆったり観られるのは嬉しい。到着時刻が読めなかったので直前に予約したのですが、割と枠が空いていました。現役で活動中の方々の作品が一堂に会すると聞いたので、これは行かねばならんと思っていたのですが、無事に観に行けてよかった。
ちなみに東博では特別展が二つ同時に開催されていて、一つは平成館の「桃山――天下人の百年」、そしてもう一つが表慶館の「工藝2020」です。ほんとは一度に両方観たかったんですが、チケットが別になっていたので日を改めることにしました。平常展も観たいもんね。

展示ジャンルは陶磁器、蒔絵、金工、漆工、竹工、染物、人形などなど。展示室は4つのゾーンに分かれていますが、作品分野ではなく、テーマカラー的な作品イメージで分けているようです。なのでどのゾーンも作品のバリエーションが多くて楽しい。
展示作品数は82件、制作年は2001年以降に絞り、出品者はだいたい見た感じ還暦過ぎの大御所揃いのようです。まぁ伝統工芸の世界で還暦なんてまだ若いほうですよね……。
なお普段の私の好みは陶磁器、漆工、螺鈿細工あたり。ただ好きな分野の展示はいそいそ出かけるけど、あまり馴染みのない分野はこういう機会でもないとなかなかお目にかかることがないので、良い機会でした。

どういうところに飾ると映えるかを考えながら観ていたのですが、いろいろ妄想してとても楽しかったです。やっぱり大きな作品には大きな空間が必要だ。温泉旅館、料亭、シティホテルのロビー、銀行の応接室。いやもっと開かれたところに置くべき? 市庁舎のロビー、百貨店のディスプレイ。でも茶碗はひっそりとした雰囲気で、少人数で回して鑑賞したい。
私は美術館博物館の類が好きだけど、展示される作品たちはもっとふさわしい居場所があるだろうなと思うことはしばしばあります。仏像仏具は寺へ、襖は城へ、茶器は茶室へ。ここに出品された作品の多くは個人蔵で、本来は展示ではなく、別の方法で愛されるものなんだろう。この展示室は作品たちにとっては仮の住まいなのだ。この展覧会が終わったら、それぞれ落ち着ける場所で本来の魅力を存分に発揮してほしい。そして願わくば私は、その本来の場所でこの作品たちを観てみたい……展示を観ているとき、どんなに直に触れたかったことか。
もっと、こう、生きた姿で鑑賞できたらな、と思う。その作品のためだけの空間をつくるくらいの贅沢さを、ちょっとやってみたいですよね。城の形式の美術館とか、あればいいなぁ。私に、彼らを連れて帰るだけの甲斐性が無くて残念だ。家も狭いしな。


さて、展示作品すべてについてここで語るのはちょっと厳しいのですが、いくつか気に入った作品について書いておきます。

まず最初の展示ゾーンで、月岡裕二の切金砂子彩箔「凛」に度肝を抜かれた。カラーの花を描いたもので、ジャンルとしては截金(きりかね)というらしい。花が浮き上がっていた。横から見てもそんなに凹凸がありそうに見えなかったんだけど、どうなっているんだろう。すごく触りたかったけど我慢しました。公式サイトをみると盛り上げ技法を使っていると書かれているので、やっぱり多少は凹凸があるのかな……とても美しかったです。

向こう側が見通せるような構成の作品は単純に面白くて、例えば宮田亮平の「生と静」(金工)や友定聖雄の「A Silent Voyage」(ガラス)など。後ろからも観られるように展示してあるので、ぐるっと回ってまじまじと見てました。どっちが前とか、一応あるんだろうけど、どちらから見ても面白い。横から見るのも面白い。

なお今回出品されててとても嬉しかったのが、14代今泉今右衛門の「色絵雪花薄墨墨はじき雪松文蓋付瓶」です。陶磁器の中でも豪奢でありながらエレガントな鍋島焼が特に好きで、14代今泉今右衛門の雪花墨はじきは初めて目にした時からずっと私の憧れです。光の加減で変わるニュアンスとか、ぼんやりと柔らかいトーンとか、たまらない。今回の作品も上品で素敵でした。ありがとう東博……ていうか14代目、もしかしてこの展覧会の出品者の中でかなりの若手なのでは。
名家といえば、樂吉左衛門は先代(15代目)の作品が出ていました。襲名したばかりだからかも。出品作品は「焼貫黒樂茶碗」、これも良かったなぁ。銘が格好いいんだよな。今度京都に行ったときには美術館にお邪魔しよう。

展示作品は茶碗より花器のほうが充実していて、特に西由三の「鋳朧銀花挿」はストイックな美しさに惚れ惚れしました。観てた時は石かと思っていたけど、金工だったんですね。朧銀(ろうぎん)という言葉を初めて知った。金工はノーチェックだったけど、これからは気にしていこう。好みの作品がいろいろあったので。

漆工では並木恒延の「月出ずる」が非常に印象的でした。スーパームーンを描いた作品で、魔性っぽさがとても好きです。あと村田好謙の「風と光と水と」もいろいろと想像を掻き立てるファンタジックな作品だった。どうも私は凹凸のある作品が好きらしいです。動きに惹かれるのかな。
そして竹細工の本間秀昭の「流紋―2018」が繊細で見事でした。どうなってんのと思って、思わずまじまじと見てしまった。一分の隙も無い感じ。竹っていいですよね。なんか清廉な感じがする。

ほかにもたくさんの作品が展示されていますが、とりあえずこの辺で。「紡ぐプロジェクト」というホームページにて出品作品の写真と作者コメントが楽しめるので、気になる方はぜひご覧ください。でも実物の圧倒的オーラは格別ですよ。

tsumugu.yomiuri.co.jp

東博での展示は2020/11/15まで。
国には、こういう現役作家の作品展を、特に若手に対する後ろ盾としてどんどんやってほしいなと思います。

梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』を読みました

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

幸福な監視国家・中国 (NHK出版新書)

2019年8月に刊行された新書です。某所のビブリオバトルで紹介されて知り、ずっと読みたかったのですがいろいろあってこんな時期になってしまった。コロナ禍前の世界について書かれたものですが、今でも違和感なく読めます。時事ネタは時事ネタなのですが、個々の事象にフォーカスしているわけではなくて、長いスパンでの話をしているので、息の長い本だと思います。いろいろ考えながらゆっくり読んでいましたが、とても面白かった。

対コロナでは各国がそれぞれ対策を打ち出して、お互いに褒めたり貶したりしているわけですが、中国の封じ込め作戦における諸々はやはり監視国家のイメージを強くしたと思う。世界のスタンダードからはちょっと外れた国体ではあるし、多くの情報が政府に集まる仕組みになっていることも事実なのだけれど、実際に生活している人々のなかには安全な社会に対して肯定的にとらえている人も多く、メディアが喧伝するようなディストピアな一面だけでは語りきれないところがある。中国の監視社会についての報道には、偏見や無理解による誤解も混じっているんじゃないか? というのを、コロナ禍の前に提唱したのが本書です。

 つまるところ、現実世界でもインターネット上でもすべてが政府に筒抜けなのですが、驚くべきは中国人のほとんどがそれに不満を抱いていないどころか現状を肯定的に見ているということです。それは中国人がプライバシーに無頓着だから、専制政治によって洗脳されているから……という単純な理由からではありません。
 本書は、この「幸福な監視社会」の謎を解き明かすことを課題としています。この謎が解き明かされたとき、驚くべき中国の監視社会はどこか別世界の現象ではなく、日本が今後直面する問題だと明らかになるはずです。(P.4)

面白かったポイントが多すぎてちょっと書ききれないですね。
たとえば、快適さのために情報をどれくらい差し出せるか。読みながら、自分だったらどうかなーというのをいろいろ考えて楽しんでいました。便利さは欲しいけど、すべて提供するのには抵抗がある。でもそれってそれまで自分がそこまで情報提供しない世界にいたから違和感があるだけだろうとも思う。今だって実際、私は現金をたくさん持ち歩かなくていいという利便性のために、履歴の残るクレジットカードや決済アプリを平然と使っている。一度味を占めた便利さは、今後手放せなくなるだろう。そうしたら利便性のために情報を提供するという行為に対する自分の中のハードルなんて、無いようなものだ。
こういうのって、商品の価格設定するときの「どこから高いと思うか?」の境界を絞り込んでいくやり方に似ているようだ。

あと、信用スコアのペナルティのつけ方が実によくできていて唸った。

 ここでポイントとなるのが、あくまでもその罰が「緩やかな処罰」であるということです。前述の徐の場合、高速鉄道には乗れませんが、我慢して普通列車で移動することは可能です。移動禁止のような「厳しい処罰」ではなく、移動はできるが時間がかかるし大変だという形で「緩やかな処罰」が加えられているのです。(P.86)

この仕組み、すごくないですか……。よく考えてあるなぁ。そういえば『クオリティランド』読んだときにそんな話が出ていたな。在庫切れになる自由か。

本書では、このような形で人々の行動を「促す」ことにより、中国都市部はだんだんと「お行儀がよくて予測可能な社会(P.170)」になっていると言います。そして話は功利主義へ続く。人畜無害な日々を送る国民にとって、監視社会は自分の日々を守ってくれるという意味で肯定的な存在になりうるんじゃないか、と。
正しく生きていれば罰されない社会で、ペナルティを受けるのはルールを逸脱する輩のみ。それなら問題ないじゃん? という思想に、確かに、なるよなぁ。わかるわ。もともと法治国家ってそういう性質を持つものだと思うし。
例えばクレジットカードの使用履歴が常に公権力から閲覧可能な状態になるとしても、平凡な一国民の購入履歴を毎日ピンポイントで確認するほど暇じゃないだろう。その公権力が自分を抹殺する可能性があるなら用心するだろうけどけども……でも日本でも犯罪捜査のためなら電話の傍受をしていいことになってるし、カードの使用履歴確認なんて可能か不可能かでいったら理論的には可能なんだから、大っぴらにそういうことする場合がありますって公言してるだけ正直なのか?? 映画とか観てると、CIAやFBIあたりは法律なくても黙ってやってそうじゃん(偏見です)。

話が逸れました。社会が予測可能な方に変化していくのは喜ばしいことかもしれないけど、そうなるとお行儀のいい人たちだけでどれだけその社会を維持できるのかっていうのが疑問だ。羊は羊飼いにはなれないだろうし、支配者層と被支配者層が分断するのかな。こういう社会システムを維持する場合、支配者層はいい子ちゃんではいられないだろう。結構精神的にキツそうだけど、果たして継続できる仕組みなんだろうか。中国の今の体制はまだそんなに長くないから予測しかできないな。

そして読みながらずっと考えていたのが、今の世界のスタンダードな国体が正解というわけではないよなということでした。どんな時代も、社会は不完全なものだ。
これまでの人類の歴史においていろんな政治体制が現れては消え、現れては消えしていった末に、今現在は民主主義がベストだろうってことになってますが、正直あんまり信じていない。最大多数の人間がそれなりに妥協できる体制として「まぁこの辺で手を打っておくか」というものではあるのかもしれないけれど、有能な絶対君主による政治のほうが幸せな国でありうるかもしれないし。ただ絶対君主に権力を集めると、彼が無能だった場合に悲惨なことになるわけで……まぁこの辺りはよくある話。
民主主義でも共産主義でも陰で泣いている人は必ずいるので、どれが正しいというものでもない。それでもなるべくより良い方向に進みたいってみんな思ってる(はずだ)から、手探りで失敗しながら進むしかないのだろう。もしかするとこれから、今の社会システムにちょっと手を加えた新しいシステムが生まれて、将来はその新システムが世界の主流になるかもしれない。そしてその始まりの時というのはもしかしたら今かもしれないし、場所は中国かもしれない。

私たちが中国のスピーディーな変化について行けず、監視社会と呼んで恐怖しているのは、いずれ自分を飲み込むであろう脅威の種に対する本能的な警戒心なのかもしれない。私たちはそれなりに慣れ親しんだ場所に閉じこもって、古き良き思い出に浸って、どうしようもなく迫ってくる綻びを見て見ぬふりをしつづけているのかもしれない。だって、今のやり方はガタがきているって、みんなもう気づいているよね。

もちろん、中国は全然始まりの場所なんかじゃないという可能性もある。あらゆる情報を収集し、世論を統制し、条件付きの幸福を提供する政府は将来行き詰って崩壊するかもしれない。人間は理屈だけではどうにもならないものだし。でも失敗したソ連の時とは違って、今はより新しいIT技術がある。うまく使いこなしたら、どうなるかわからないのでは。

新しく来るものが正しいものかどうかを判断するのは、正直私の手に余る。ただ、それが自分にとって受け入れられるものなのかどうかは自分で決めなくちゃいけないし、その結果には責任を持たなくちゃいけないとは思う。だからなるべく気を配って、ちゃんと見ておこう。

非常に面白い本でした。

映画『TENET テネット』を観てきました

wwws.warnerbros.co.jp

公開前からずっと気になっていたクリストファー・ノーラン監督の『TENET』をやっと観てきました。これは! 映画館で! 観る映画です!!

とはいえノーラン監督作品は実はほとんど観ていなくて、前作『ダンケルク』が初鑑賞でした。『ダンケルク』の画面の映し方とかが好みだったので今回も映画館に観に行ったのですが、奮発してIMAXにしてよかった。
ちなみにコロナ禍後初の映画館だったのですが、私の行ったところでは座席を間引いて食べ物禁止になってました。平日朝一の回だったせいか空いていたのもあって快適だったし、やっぱり映画館はいいなぁ。

ストーリーや設定がいろいろ細かいので観ながらよく分らなくなるところもありましたが、途中で考え込むと話に置いていかれるので映画が終わってから一人で復習したりしました。映画自体が150分くらいあって、予約するときに「長っ!」っとか思ったりもしたけれど、実際に観始めるとあっという間だった。観終わってからも復習するという楽しみもあるし、なんかすごくお得な感じだ。

観ながら感じたよくわからなかったポイントは後述しますが、結果的に観終わってから落ち着いて考えてもやっぱりわからないままの部分というのもあった。でもそんなこととは関係なく映画作品として非常に面白かったし、映像が凄かったし音響も良かったです! なんというか、創作ってそういうものだよな。あれ? の部分が鑑賞者にとってどうしても気になっちゃう部分だと話に入れなくてダメなんだけど、それは人に依る。むしろ一分の隙も無いものって、精巧で良く出来てるかもしれないけど勢いに欠けてしまったりもするように思う。お行儀のいいストーリーというだけでは面白くない。「でもあの場面さーっ!」と文句が言える隙があるというのは魅力的な作品にはつきものなのかも。


というわけで、以下は映画のストーリーに触れます。ネタバレありますので鑑賞後の閲覧を強くお勧めいたします。

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