好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

マルク=ウヴェ・クリング『クオリティランド』を読みました

クオリティランド

クオリティランド

ものすごいディストピア小説がドイツからやってきました。その名も『クオリティランド』。それは最上級の形容詞しか許されない新国家。AIとアルゴリズムがあなたを見守る超監視社会。あなたの欲しいものは、あなたのAIが知っている。あなたが望む前から既に!

書店で冒頭部分だけ立ち読みして、これは買うべき本だと判断して即、レジに持って行ったのですが、大正解でした。歴史に残るディストピア小説だ…ドイツでは2017年に出版されているのですが、こんなに早く翻訳してくれたのは非常に嬉しいことですね。時事ネタが含まれるので、なるべくリアルタイムに読んだ方が楽しめると思います。訳は森内薫さん、『帰ってきたヒトラー』も訳されている方です。なんとなく河出書房新社はドイツ文学に強いイメージだ。

舞台は近未来の白人中心の新しい国家クオリティランド。人々は耳の中にイヤーワームを装着し、各個人にカスタマイズされたAIのアドバイスに従って快適な生活を営むことができる。人々は行動や成績、資産によって細かくレベル分けされ、レベルに応じた最適なアドバイスを受けられる。支払いは唇認証によるタッチ・キスで行うのが主流で、最大手のオンラインショップからは注文せずとも必要な品がドローンによって届けられる。あなたは何も考えなくても、あなたのレベルにあった快適な生活をAIがすべて用意してくれる。そんな世界。
主な登場人物は底辺レベルの生活を送るペーター、次期大統領候補のアンドロイド・ジョン、与党の平議員マルティン、スランプに陥った電子詩人アンドロイド・カリオペ7.3などなど。ほかにもいますが、前情報は少ないほうが面白いので控えておきます。

ストーリーもさることながら、本の構成がとても面白いのも特徴のひとつです。日本版は「バージョン1.6」だけが刊行されていますが、本国ドイツには「ダーク版」と「ライト版」があって、邦訳されたのは「ダーク版」の方らしい。本書ではストーリーの合間合間にニュースサイトのトピックとそれに対するコメントが挟まれているのですが、その内容の辛辣さに差があるのだとか。まぁそれは確かに、読むなら「ダーク版」だろうな。辛辣なブラックジョークがちょいちょい出てくるんですけど、それが良い…特に企業広告がめちゃくちゃ面白い。それも本編ストーリーと上手くマッチした配置になっているのが上手い。『ゲーム・オブ・スローンズ』はドイツでも人気なんだな…

しかしやっぱり世界設定の現実世界との重なり具合が絶妙で、ストーリーをものすごく面白くしているのが最大のポイントだ。クオリティランドは各個人に対してAIが適切なお勧めをしてくれる世界なので、人々はお勧めされたものを自分の好きなものだと理解して受け取ります。

「つまりだな、人間はそれぞれ、異なるデジタル・ワールドを体験しているということだ。個別化されているのは、検索の結果や広告や報道や、映像や音楽だけではない。提供されるものや価格やネットのデザインや構造までもが、この不思議な鏡の国に誰が足を踏み入れたかによって、そしてその人物がどんな気持ちでいるかによって変化するのだ。(中略)あんたもきっと『人はみな、それぞれの世界に生きている』という言葉を、どこかで聞いたことがあるだろう?デジタル空間では、これは単なる言葉の綾ではない。文字通り、それが現実なのだ。あんたは、あんただけの世界に生きている。あんた仕様にカスタマイズされる世界に住んでいるのだよ」(P.225)

そしてAIのアルゴリズムに基づいた個が形成されていく。そうして定義されたそれは私なのか。しかし人の好みというのはAIのアルゴリズムに限らない外的環境に影響されるものだから、「私が選んだ」という根拠の薄弱さにおいてはどっちもどっちではないのか。そもそも自由意志なんて本当に存在すると思っているの?
…という感じで、私のように自由意志云々という話題に目がない方は読んでいて非常に盛り上がること間違いなしです。
しかしインターネットの特質にズバッと切り込みながら、インターネット自体を悪と見做さないところに著者の公平さが垣間見えて、作品への信頼度が高まる。冷静だなぁ、いいなぁこの距離感。

できればあまりストーリーの種について書きたくはないのですが(知らないで読むほうがきっと面白いから)、ひとつだけ。この小説ではシンギュラリティがテーマの一つになっています。あらゆることがアルゴリズムによって判断される社会で、そのアルゴリズムを誰も理解できなくなっていたら?あまりにも精緻な予測に慣れすぎて、理由を知ろうとせずに結果だけを無条件に受け入れ始めたら?
さすがにまだ技術が追い付いていないので今すぐにシンギュラリティが訪れるわけではないけれど、実際のところ懸念すべきことならもう始まっているよな、というのは認めざるを得ないところ。検索結果を鵜呑みにして、それが正しいかどうかの判断をそもそもしようとしなかったり。「教えられたことだけやっていれば安全だ、少なくともそれで自分が責められる謂れはなくなる」という思考が行き過ぎて、目の前の現実に対処しようとしないパターンとか。「なぜそうしたの?」「上司がそうしろと言ったから」という論理が、「なぜあなたはそれを選んだの?」「AIがお勧めしてきたから」になるまではあとちょっとだろう。
ちなみにこの小説では「ジャーマンコード」という単語が出てくるのですが、その使い方の上手さは神業ですよ…。

訳者あとがきでも触れられているのですが、この作品に出てくる各種のエピソードはそこまで荒唐無稽な話ではなくて、現実に起きつつあることがちょっと誇張されて書かれているにすぎません。『幸福な監視国家・中国』はやっぱり気持ちがホットなうちに読んでおこうかな。
版図の大きな国家において効果的に統治を行うためにシステムを活用することは必須だと思いますが、これからどうするつもりなのかは気になるところ。ソ連が崩壊したのってコンピューターの性能が不十分だったのもあるんじゃないかと思ってるんですが、スパコン駆使して改めて本気でやったらどうなるだろうか?スパコンでもまだ足りないかな?
とはいえ隣国よりも自国の心配をしたほうがいいんではないかという気もします。

「われわれはいま、独裁国家に暮らしているものの、その独裁の手法があまりに巧妙なので、独裁国家に暮らしていると気づいていないだけではないか?それからもうひとつ、次の質問も投げかけてみてほしい。独裁国家だと誰も気がつかない場合、それはほんとうに独裁国家なのか?もし誰も自由を奪われていると感じていなかったら?結局のところ、クオリティランドで自由は禁止されてなどいない。ただ、時々<現在は在庫切れ>になるだけだ」(P.233)

名だたるディストピア小説は数多くありますが、さらに最新のデータを注入して再計算しましたって感じのリアルタイムなディストピアでした。歴史に残る一作でしょう。著者はまだ30代なので、これからもいろいろ書いてくれることに期待。既刊の『カンガルー・クロニクル』も面白そうだから、訳されないかなぁ。