好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

濱野ちひろ『聖なるズー』を読みました

聖なるズー

聖なるズー

面白いよ、と言われて貸してもらった本なのですが、思っていた以上に面白くて一気に読んでしまった。好みが把握されているのだろうか……

この本は、DV被害に遭った過去をもつ著者が大学院の研究課題に「動物性愛」を選び、研究を通して愛とは何かを考えていくという内容です。愛とはなにかとかいうと大仰な感じもしますが、でもだいたいそんな感じ。主にドイツの「ゼータ」という動物性愛者の団体について書かれています。

そもそも「動物性愛」って何? というところからなわけですが、ものすごく簡略化して言うと、恋人 / 妻 / 夫として、ヒトではなく動物を選ぶ性的志向のこと。恋愛対象として動物を愛すること。獣姦(Beastiality)との違いは、性的行為を行う対象の動物への愛情があるかどうか。精神医学的にはパラフィリアの一種にカテゴライズされているそうです。なおこの記事では本書に倣って、動物性愛者(zoophile)を以降、ズーと表記します。

動物に恋をすることも、その思いが加速して性行為に及ぶことも、まぁそういうこともあろうなぁと思う。私は動物を飼ったことがないけど、ずっと一緒に育った犬が家族や友達になりうるなら、恋人になるという可能性だってあるだろう。そんなに不思議なことではないように思う。
私が本書を面白いと感じたのは動物に性的な愛情を抱くこと自体ではなくて、世間的に極度に憚られる性的志向を持った人たちが自分の好みをどのように捉えて折り合いをつけているのかというところです。

今では地球はすっかり人間のナワバリになってしまったので、世間的にも法律的にも、あらゆる動物は人間より下の、庇護すべき存在と見做されている。なので人間が動物と性行為を行うと、一般的にそれは「動物虐待」と捉えられる。
だから本書で語られるゼータのメンバーは、パートナーとの性行為が動物虐待にならないよう非常に気を遣っている。彼らは、性行為のきっかけはいつも「動物からの誘い」であると言い、パートナーの動物と「対等」な関係であることをしきりに強調し、動物にとって負担になることは決してしないと言う。ゼータに属さないズーたちは、そんなゼータのメンバーを「聖なるズー」と呼び、聖人君子だと揶揄する。

 人間と正常位でセックスすることは犬の身体には不自然で、負担がかかるのではないか。さらに、ディルクが言うようにメスの犬を人間とのセックスに「半年かけて慣らしていく」ということが行われているのであれば、それは動物をセックスのためにトレーニングすることではないのか。(中略)
 こういった点は、実はズー同士でも議論になることがある。アクティブ・パートは常に疑問視される側で、パッシブ・パートが追及する側だ。アクティブ・パートは、自分のセックスが虐待的だと見なされるのではないかという恐怖にいつも怯えている。(P.156-157)

アクティブ・パートは性行為において挿入する側、パッシブ・パートは挿入される側のことです。

ゼータのズーたちはパートナーたる動物と常に対等であろうとする。彼らを虐待することのないよう非常に気を遣っている。それは当然、まったく悪いことではない。人間同士においても必要な配慮でもある。
ただ、どうしても気になってしまうのが、そもそも恋愛と倫理を両立させようなんて土台無理な話では? ということだ。恋愛における対等さって、目指すべきものではあるかもしれないけど、実現できるものではないだろう。掴んだと思ったらまたすぐに離れていくレベルのもの。感情のシーソーが常にどちらか一方にだけ傾いているのはどうかなぁと思うけど、シーソーが常に釣り合って一定であるというのは、それは私にとって恋とは言い難い。いやもちろん釣り合うこともあるんだけど、ずっと一定でいるなんて、そんな。
そもそも「対等」って言葉を恋愛に持ち出すのがなんか胡散臭い。フェアでありたいというならわかるけど、対等を守るのとは違うよな。翻訳の問題だろうか。私は恋愛的な意味で相手を好きになるというのは、相手に対して敗北することを自分に許すということだと思っている。お互いがお互いに相手に対して敗北するとき、そのシーソーはぐらんぐらん揺れるものではなかろうか。ゼータのズーたちは、パートナーの動物が自分に対して敗北することを許容できないんじゃないだろうか。多分それは言葉が通じないとかは全然関係なくて(人間だって言語が違うことはある)、世間体がそれを許さないからなんだろうけれど。
つまり、対等ではない時間、敗北する時間が存在することを許容せずに相手と付き合っていくなんてできるの? ということだ。私がズーだったとしても、多分ゼータのメンバーにはならないだろう。なんかちょっと、きれいすぎる。
ゼータのズーたちはしきりに対等性を強調するけど、何かのきっかけで対等性が崩れる瞬間というのは、実際のところ存在しうると思う。ただそれを公的に認めると、動物虐待と見做される恐れがある。リスクがありすぎる。著者自身も指摘していたけど、だからこそ彼らは対等性や愛を錦の御旗にして、彼ら自身の性的志向を肯定しているのだろう。
(……と思っているけど、もちろん私の方が間違っていて、世間にはそういう対等な愛が存在するという可能性もゼロではないということは認識しておくべきだと思うので、明記しておく。私はそうは思わないけど、私が間違っている可能性は当然あります。)


そして並行して気になるのは、対等性も愛もない性的志向は存在することすら悪なのか? ということだ。正当な理由がない、社会的に認められない、相手を傷つけることに直結するような性的志向を持っている場合。
そういうことをそもそも考えること自体あり得ない、意味わかんない、許せない、みたいな脊髄反射的な拒否反応が返ってくるような性的志向を持っていたとしたら、それはひどくつらいことだろう。病気と見做して治療をするというのが選択肢の一つと思われるけど、それってその志向自体を悪と見做すということなのかな。そこにはどうしても正常 / 異常の枠組みが発生する。
相手の合意のない行為というのは一つ残らず撲滅されるべきとは思うけれど、今ここで言いたいのはそこじゃなくて、動物としての生体反応的な快楽が社会的にアウトである場合ってのは常にありうるだろうなということです(自然界において、種としての生存戦略が他種の個体の犠牲を前提にすることさえ珍しくもないのだし)。セーフかアウトかの基準なんて時代によって変わってくるものではあるのだけれど。
動物としてのヒトの欲求と社会のなかの人間の規律(法律とか世間体とか)を完璧に両立させるのはやっぱ無理なんだろう。恋愛と倫理がうまく両立できないのと同じで、どこかで齟齬が出る。でも人間が集団で生きていく以上はどこかで線引きをする必要があるから、ノーマルの枠から零れ落ちるパターンというのはいつの時代も必ず出てしまうんだろうな。世界平和って難しいな。


だいぶ話が逸れましたが、他にもいろいろと面白いことが書かれていて、いろいろ考えながら読むことのできる本でした。とても楽しい読書でした。