好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

大森望・編『ベストSF 2020』を読みました

べストSF2020 (竹書房文庫)

べストSF2020 (竹書房文庫)

  • 発売日: 2020/07/30
  • メディア: 文庫

創元SF文庫から毎年刊行されていた『年刊日本SF傑作選』が2019年、全12巻で幕を閉じました。
そして本書が、その後継となるシリーズの第一巻です。ベストSFとして収められているのは日本SFの短編たち、全11作。タイトルは2020とついていますが、収録されているのは2019年に発表された作品群です。
そしてそう、竹書房! ここ数年、良質な翻訳SFを多数出し、SF界で注目を集めている竹書房からの刊行なのです。麻雀だけではないのだ!『シオンズ・フィクション』、買いますね。

『年刊日本SF傑作選』は日下三蔵大森望の共編でしたが、ベスト日本SFの編纂は大森望一人です。

 創元版は、編者が二人ということでバラエティに富んだ内容になった反面、巻を追うごとに、年間ベスト短編を集めるという当初のコンセプトからは少しずつずれていった感は否めない。そこで、新たにスタートする竹書房文庫《ベスト日本SF》に関しては、初心に戻って、”一年間のベスト短編を十本前後選ぶ”という基本方針を立てた。作品の長さや個人短編集収録の有無などの事情は斟酌せず、とにかく大森がベストだと思うものを候補に挙げ、最終的に、各版元および著者から許諾が得られた十一編をこの『ベストSF2020』に収録している。(P.7-8、序)

私はSFマガジン読んでない人なので(連載小説が苦手)、名前は知ってるけど読んだことない作家というのが結構います。なので一冊でいろいろ読めるアンソロジーは非常にありがたい。ぜひ続けていただきたいです!
そして何がベストかというのは人によって違うので、大森望的ベストはこれなのか!私ならこっちを入れるね!などと張り合って楽しむという方法もあります。もっとも、大森望的ベストのひとつはここには収録されていないようですが…

十一編の内訳は以下の通りです。

円城塔    『歌束』
岸本佐知子  『年金生活
オキシタケヒコ『平林君と魚の裔』
草上仁    『トビンメの木陰』
高山羽根子  『あざらしが丘』
片瀬二郎   『ミサイルマン
石川宗生   『恥辱』
空木春宵   『地獄を縫い取る』
草野原々   『断φ圧縮』
陸秋槎    『色のない緑』 稲村文吾・訳
飛浩隆    『鎭子』

ちなみにこの中で私が初めて読んだ作家さんはオキシタケヒコ高山羽根子、片瀬二郎、石川宗生、空木春宵です。『年金生活』『トビンメの木陰』『色のない緑』は一度読んだことがありましたが、もう一度読み返して楽しみました。
なお『色のない緑』は中国語で書かれたものの翻訳ですが、日本の百合SFアンソロジー『アステリズムに花束を』のために書き下ろされた作品という経緯があるため日本SFに入れたとのこと。そりゃまぁ、そうだな。しかもこれ、めっちゃ良いですもんね。
面白いのは、SF媒体ではないところに発表された作品がいくつか収録されていること。岸本佐知子の『年金生活』は短文アンソロジー『特別ではない一日』のために書き下ろされたものだし、円城塔の『歌束』は雑誌『新潮』、飛浩隆の『鎭子』は雑誌『文藝』が初出です。やっぱりSFというのは文学ジャンルではなくストーリー要素なんだな。

どれも面白かったんですが、円城塔びいきの私はやはり『歌束』については少し語っておきたい。いやぁ、とっても円城塔でした。ニヤニヤしながら読んでいた。歌に湯を通す雅な遊びにうつつを抜かす人たちの話です。『プロローグ』も読み返したいなぁ。

 歌を溶かして、また拾う。基本はただそれだけである。たとえば、

  からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ

 の歌を水に浸けて観察すると、「からころも」「きつつなれにし」「つましあれば」「はるばるきぬる」「たびをしぞおもふ」と分解していく様子が見えてくる。引き続き「からころも」を眺めていれば、これは「か」「ら」「こ」「ろ」「も」へと細かに分かれ、さらに「か」は「か」「か」「か」というように幾葉にもはがれ漂い、雲母のようにきらめきながら水底へ沈んでいくこととなる。これらを集めて整理すると、「あおかきこしぞたつなにぬはばびふまもらるれろを」といった二十三成分が得られることになるわけである。これを様々加工して、ひとまとまりに固めるのだが、遊戯であるから、生のまま饗してもよし、数年の熟成を経るのも自由である。(P.12、『歌束』)

そんな話です。
円城塔のどこかマッドサイエンティスト的なところがたまらなく好きです。言葉や文字に対して、研究対象に向けるような愛を感じる。冷静にしれっととんでもないこと語り出すし。最高だ……。

あと初めて読んだオキシタケヒコの『平林君と魚の裔』も好みでした。これぞSF! って感じ。《汎銀河通商網》や、金がモノ言う世界での戦争という世界設定もワクワクするし、異なる形態の異星生物のデザインと理論が非常に良かった。あの戦争の感じも、川上稔のノリを思い出してテンション上がりました。ラストもうまくまとめてくるなぁ。うまいなぁ。

石川宗生の『恥辱』も好きだったな。『ホテル・アルカディア』、買いますね。ちなみに作品ごとに作品紹介と著者紹介が書かれているのですが、石川宗生の他の作品も非常に面白そうで、これはお気に入り作家になりそうな予感。達筆な雰囲気の文体も好きなので、要チェックですね。

あと草野原々『断φ圧縮』もすごく面白かった。原々は短編をいくつかしか読んだことないのですが、いつも真面目な理論をベースにして突き抜けたこと書いてくるところが好きです。

 これは描写である。この文章により、あなたは何が起こっているのかをあますことなく知ることができる。
 二人の人間がいる。一方は医師であり、完全に正気である。一方はあなたひとりであり、完全に狂っている。
 なぜ狂っているのかを、ベイズ主義的に説明しよう。(後略)(P.280、『断φ圧縮』)

この語り口が好きだ。「あなたひとり」「あなたたくさん」というのがツボでした。繰り出してくるギミックがとってもSFなのも良い。

他の作品も面白かったのですが、長くなってしまったのでこの辺で…
いやしかし、楽しい読書時間でした。2019年は特に豊作だったから、選ぶのも大変だったことでしょう。来年以降もぜひお願いしますね。ちゃんと買いますから。

グカ・ハン『砂漠が街に入りこんだ日』(原正人 訳)を読みました

砂漠が街に入りこんだ日

砂漠が街に入りこんだ日

『82年生まれ、キム・ジヨン』のヒット後、日本でも現代韓国作家の本が次々と刊行されるようになりました。が、なんとなく読むタイミングを逸し続けていて、読まずにここまで来てしまった……。なので本書が私にとっては初めての、現代に生きる韓国人作家の本ということになります。
しかしこれは韓国語を母語に持つ著者が、後から学んだ言語であるフランス語を使って書いた小説なのでした。ジュンパ・ラヒリもイタリア語の本を出しているし、リービ英雄も日本語は母語でないし、多和田葉子という巨星もいるけれど、こういう人たちのことはなんというか単純に、凄いなと思う。うん、凄いな…
原書は2020年1月にフランスで刊行されて話題になったらしいのですが(経緯は「訳者あとがき」に詳しい)、その年の内に日本語版を刊行するとは、素晴らしいスピード感ですね。フランス語以外の言語に訳されるのはこれが初めてだとか。ちょうど日本で韓国文学ブームが来ているので刊行しやすかったというのはあるかもしれませんが、こういう面白い本を素早く出してくれるのは非常にありがたい。版元はリトルモアという出版社で、映画なども手掛けているようです。
グカ・ハンがなぜ韓国語ではなくフランス語を使って小説を書くのかという点については、「あとがき」で著者自身「いまだにうまく答えることができずにいる(P.151)」と書いています。でも続けて以下のようにも書いています。

 私に限っては、慣れ親しんだ母国語は執筆するのに十分な条件ではなく、むしろ障害である。ある意味、この韓国語という言語のせいで、私の想像力は阻害され、息が詰まってしまう。外国語で執筆することでようやく、私は物語を個人的な体験から切り離して構築することができる。(P.151「作者あとがき」)

そういうものなのかー。異なる言語世界で生きていくのって、人魚が陸で歩くようなものではないかと思う。なのでコンビニとかで海外から来たらしき人が働いているのを見ると、尊敬の念しかない。凄いな…

言語の話が長くなってしまいましたが、内容も非常に好みでした。全8編の短編集なのですが、ちょっと幻想的でどことなく不安定で。話は連続しているようでしていない、でも使われるモチーフがつながっているところがあります。この連続性は、前に読んだデボラ・フォーゲルの『アカシアは花咲く』を思い出しました。作品間のゆるやかな連携。「砂」「目が覚める」「雪」「メトロ」など、印象的なモチーフがいくつかあるので、それらの意味を考えるのも楽しい。なんだか詩を読んでいるみたいでした。
「訳者あとがき」に書かれていた「ことによると、本書は、複数の語り手ではなく、ひとりの語り手がその都度年齢や性別を変えながら語る長編と考えることすらできるのかもしれない(P.156)」というのは、納得の指摘だ。そうかもしれない。

タイトルはフランス語の原題からそのまま訳された『砂漠が街に入りこんだ日』なんですが、これは冒頭の『ルオエス』という作品の冒頭につながっています。

 砂漠がどうやって街に入りこんだのか誰も知らない。とにかく、以前その街は砂漠ではなかった。(P.8『ルオエス』)

ルオエスというのは、冒頭の作品で語られる街の名前です。
本のタイトルページと、カバーを外した表紙にはフランス語で「ルオエスへようこそ」と書かれている。短編集として作品が分かれてはいるものの、この本のどのページも、ある意味ではすべてルオエス<LUOES>なんだろう。

作品全体に漂う息苦しさ、どこにも行けない感じ、重たい鎖を引きずって生きてく感じは、もしかしたら読んでて苦しい人もいるかもしれない。私はそういう雰囲気がむしろ好きなんだけど、ちょっと見てられないような気持にもなる場面もあるので。
多分著者自身のしんどい時期の気持ちが作品群に色濃く反映されているんだと思う。そういうのって下手したら鬱陶しい自分語りみたいになりがちなところがあるけど、この本にはそういう独りよがりな印象は無かったです。ちゃんと読む人のことを想定した作品になっている。著者自身の冷静さもあるんだろうけど、もしかするとこれが、母語ではない言語を使って書くということの効用なのかもしれない。

ちなみに一応8編の作品の中でどれが好きかって話をしておくと、正直言ってどれもいいです。前述のとおり各作品にゆるやかなつながりがあるので、個々に取り出してそれだけ語るのももったいないような気もする。でもどれか一つを選ぶなら、冒頭から引き込まれた『ルオエス』かも。
ダイレクトに「あなた」が見た夢の話が語られる『真珠』という話もあるのですが、私が見るのはたいてい建物の中を彷徨う夢。どこかへ行きたいんだけど、そこに行くまでの道がわからなかったり、わかってるのにいろんな障害物があってなかなか辿りつけなかったりする。だから『ルオエス』で語られる状況の方が、自分にとってはよりに身近に感じたのかもしれない。

 次第に息苦しさが増していく。もう何時間も新鮮な空気を吸い込んでいなかった。でも、出口はどこなのだろう? テレビが吐き出す音の洪水をやり過ごし、乗客やベンチ、広告看板や温かい飲み物の自動販売機を避けながら、コンコースの端から端まで歩いてみるが、メトロの駅やショッピングセンター、会社のオフィスへと通じる通路しか見当たらない。そもそもこうしたもの全部から抜け出すための出口は存在するのだろうか?(P.14『ルオエス』)

夢の中だろうが現実だろうが、きっと行くべき場所が明確にわかっていれば半分着いたようなものなんだよな。あるいはどこに行くべきかわからないけどとりあえず進むっていうのもひとつの手だ。8つの作品に出てくる彼らはみんな、迷いながらも進んでいく。そして越境するのだ。その先がなんであろうと。

ちなみに表紙にコラージュ(フォトモンタージュ?)作品を置いているのがめちゃくちゃ内容にあっていて痺れました。これ以外にないだろって感じのストライクぶりだ…ぐっとくる。装丁は川名潤さんです。背表紙デザインもシックで好みでした。

コンパクトなサイズながら、満足度の高い本でした。とても良かった。

柴崎友香『百年と一日』を読みました

百年と一日 (単行本)

百年と一日 (単行本)


10代の頃、「いまここ」で考えていることがすべて流れ去って消えていってしまうのがとても恐ろしかったのを覚えている。根が貧乏性なので、少しでも何か残しておきたくて色々書き残したりもしたけれど、別に見返すこともないまま多くがゴミセンターの煙となった。
実は未だにそういうことを考えたりする。信号が青になるのを待ちながら通り過ぎる車や空に浮ぶ雲を眺めている時、あるいは電車の窓から雑居ビルの非常階段でタバコを吸う見知らぬ人を一瞬だけ目にした時なんかに、「今ここで自分が目にしているもののほとんどを1時間後には思い出せないだろうし、10分後にだって忘れているだろうし、明日にはこんなことを思ったことすら忘れているだろう」とふっと思う。そして実際、そういうことをいつ考えたのかを、今の自分はすっかり忘れている。ただ「いずれ忘れてしまうだろう」という感覚だけを覚えているのだ。多分それは、いろんな時と場所でその感覚を何度も反復したから覚えてしまったのだろう。

なんというか、この『百年と一日』というのは、そんな感じの本でした。たまにふっと顔を出す「いずれ忘れてしまうだろう」の感覚が、この本を読んだとき、久々にはっきりと浮かび上がってきました。とっても良かった。
内容は雑誌『ちくま』に連載されていたものをまとめたものらしいのですが、短編集、というわけでもない。連作でもない。しかし帯に「物語集」とあるのは、さすがしっくりくる。そうだ、これは物語集だ。

目次に並んだそれぞれの物語のタイトルが良くて、これだけでも堪能できてしまう。たとえば一番最初の話のタイトルは次の通り。

「一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」

で、どんな話なの? というと、まさにタイトル通りの話でした。
時折挟まれる「ファミリーツリー」「娘の話」というタイトルの話だけは1~3まで番号が振られていて、ちょっと毛色が違う。でもそれらも含めて、すべては『百年と一日』という本のタイトルに収束されていく。
文字によって語られる数分があり、語られない数分、数時間、数十年がある。語られない数十年という時間も確実に存在していて、数十年後のその人や、数十年前のその場所のことが再び文字で語られる。柴崎友香ってそういう作家ですよね。好きだ。

今のところヒトは主に骨と肉とで構成された身体に自我が閉じ込められているので、「その時、その場所」にしか存在できないようです。そしてヒトが最もメジャーに使用している情報伝達ツールである言葉は、種類の違いこそあれど、すべて時間が経過することを前提として機能するものなので、何か伝えようとするときには必ずいくばくかの時間の経過が必要となります。(これは文字であっても同じことで、文字を認識するために経過する時間というのが絶対に必要にります)
……なんてことはわざわざ書くまでもないことなんだけど、そういう諸々を改めて思い出すような本でした。今この時のこの場所というのは世界中で無数にある点(前述の理論でいくと厳密には点ではないということになるけれど、まぁ便宜上点としておく。気になるなら円と言い換えてもいい)の一つでしかなくて、任意の点から前後左右上下、どころかあらゆる方向に時空間の座標が無限に伸びているのだというのを、思い出させる本だった。そしてそういう「今ここ」の点というのはあらゆる時と場所に偏在していて、道を歩く一人一人が、あるいはどこかで座っている一人一人が、さらにはゴミ捨て場を漁るカラスさえもが、全方位に延びる座標の原点になりうるのだということを思い出させる本だった。怖い。

でも柴崎友香のこざっぱりした文章がその怖さを緩和しています。彼女はいつもさらっと軽やかに時と場所を越境する印象だ。淡々とした文章が、そこにあるべき完璧なタイミングでそこにあるって感じがすごく良い。
「角のたばこ屋は藤に覆われていて毎年見事な花が咲いたが、よく見るとそれは二本の藤が絡まり合っていて、一つはある日家の前に置かれていたということを、今は誰も知らない」のラストが非常に好きでした。

ちなみにカバーの紙袋のイラスト(どこかで見たような気がすると思ったら、長谷川潾二郎の絵だった)もすごく良いのですが、カバー外したチョコレート色もシックで好みです。各作品のタイトルの入れ方もいい感じだと思ったら、装丁とともに名久井直子さんのデザインでした。この間読んだばかりの藤野可織の『来世の記憶』も彼女のデザインで、続くとなんだか嬉しい。世界観にあっていて素敵な装丁でした。

藤野可織『来世の記憶』を読みました

来世の記憶

来世の記憶

藤野可織は私の推し作家です。彼女の作品は読むたびにくらくらする。
書店の日本人作家の単行本コーナーは広すぎていつもほとんど新刊チェックできていなくて、この本が出ていたこともしばらく経ってからようやく気付きました。2020年7月発売でしたが、今月になってから慌てて買った。

全部で20篇も入っていて、ひとつは書き下ろしです。大事に大事に読んでいたのですが、とうとう読み終わってしまった。さみしい。最後の一編を残したところでわざとしばらく寝かせたりもしたんだけど、やっぱり我慢できなくてついに読んでしまった。とてもさみしい。でも今回も最高でした。
ちなみに装丁も素敵で、カバーを外すと違う絵が現れるというのが凝ってていいなと思いました。私は外に持ち歩くときはカバーを外す派なので嬉しい。装丁は名久井直子さん、装画は濱愛子さんです。

どれも好きなんですが、特に好きだった作品についてこれからいくつか語りたい。
しかし、できれば前情報なしに楽しんでほしいという気持ちもあるので、ここから先は隠しておきます。まっさらな状態で読みたいという方は、今はご覧にならないことをおすすめします。できれば本当に、何も知らない状態でひとつひとつ読んでほしいんです。きっとそのほうが、ぐぐぐっと、くるので。

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ディディエ・エリボン『ランスへの帰郷』を読みました

ランスへの帰郷

ランスへの帰郷

初めにこの本を知ったのは日経新聞朝刊の書評欄でした。誰が書いていた書評だったかは覚えてないんですが、気になってスマホの読みたい本リストにメモしておいた。
そしてその後書店に行って実物を見て、いいお値段だなーと思いながらレジに持って行ってしまった。みすず書房は他の出版社よりもちょっとお値段高めなんですが、その分絶対良書だっていう確信があるから……あと、表紙に惹かれたというのもある。図書館で借りるという選択肢も頭をよぎったのですが、これは買ったほうがいいやつだと思った。時間の縛りなく、任意のタイミングで読み始めて、自分のペースで読み進めたかったので。そして多分手元に置いておいて良いやつだと思った。実際のところ、自分のペースでじっくりゆっくり読めたので、買って正解でした。

翻訳は塚原史さんですが、表紙には解説の三島憲一さんの名前も併記されています。というのもこの本、ドイツ語訳を読んで感銘を受けた三島さんの働きかけで和訳が出版されることになったのだとか。経緯については三島さんの解説に記載されているのですが、複数の出版社がしり込みするなか、みすず書房が出版してくれて本当によかった。自伝という形式をとってはいるものの、実際には学術書っぽい本なので、採算考えると厳しそうだ。2016年に出たドイツ訳は2009年にフランスで出版されたとき以上に話題になってブレークしたと解説に書かれていたけど(P.250)、なぜドイツでそこまでウケたのかも気になりました。ドイツ文化は全然知らないなぁ。

本を買った時も読み始めた時も、エリボンのことは名前すら知りませんでした。『ミシェル・フーコー伝』で有名なフランスの思想家だそうです。この本では、1953年にフランスの北東にあるランスで労働者家庭の次男として生まれてから大学教授になるまでの半生が語られています。そして人の一生というのは社会背景と切り離せないものなので、本書は当時(20世紀後半)のフランス社会の振り返りでもある。
エリボンはフランスでゲイとして生きるため、そして「知的文化人」として生きるため、労働者家庭である親族から意識的に遠ざかりました。中でも偏狭な父親のことを特に嫌っていて、口もきかなかったといいます。そして本書はその父親の訃報に接する場面から始まる。

 その少し前、父が死んでランスへの帰郷を果たした頃から、ひとつの疑問が私につきまとった。(中略)「私は社会的場面での恥、つまりパリに移住して、自分とはまったく異質な社会層出身の人びとと知り合うようになってから、私自身が生まれ育った環境を恥じる気持ちをあれほど実感したのに(自分の階級的出自について、私は彼らによくちょっとした嘘をついたし、彼らの前で出自を告白することに深い困惑を感じたものだ)、なぜ著書や論文の中でこの問題を取り上げなかったのだろうか?」はっきり言ってしまおう。私には社会的恥より〔ゲイであることの〕性的恥について書く方が容易だったのだ。劣等感を抱かされた主体の形成過程と、それと共通してはいるが、自己について沈黙することと自己について「告白」することの間の複雑な関係を考察することが、性行動に関しては現代政治の枠組みの中で価値を与えられ、価値を求められ、要請されてさえいるのに対して、貧民層という自己の社会的出自に関して同じように考察することはきわめて困難であり、公共の言説の場からほとんど支援を受けられないとまで言えるような状況なのである。だから、私はこうした「なぜ?」について理解したいと思った。(P.14)

そして当時のフランスの労働者家庭というのがいかなるものか、エリボンの両親がどのように育ち、出会い、結婚したか、どのような仕事をしてどのような結婚生活を送ったか、などなど、エリボン家の事例をもとに貧困階級の暮らしが語られます。そしてそんな環境からエリボンがいかにして脱出したのか、ということも。

階級構造や差別構造を含まない社会は多分今のところ存在してないし、おそらく今後も存在しないだろうと思う。だから現代日本においても、どの国のどんな時代においても、この本を読んで共鳴する部分というのはあるだろう。他人事とも思えないのでずーんと暗くなりながら読んでいましたが、特に印象的だったのが、教育システムがすでに差別構造を内包しているという部分。それから労働者階級が右翼化し、レイシズムが公然と広まって行ったという部分。

正直なところ、私自身は比較的恵まれた家庭で育ってきたので、エリボンの苦労の半分もわからない。勉強は得意な方だったし、私立の高校に通っていて周りは当然のように大学進学する子ばかりだった。それに日本だと立身出世は褒められる風潮があるから、そんなに隠すことでもないじゃん?とも思ってしまう。
ただ、出自に対する恥の感情というのは、心当たりがあります。つまり、自分が恵まれた環境で育ってきたことについての引け目のようなもの。
エリボンは労働者家庭から文化人になったので、文化人世界で労働者世界の話をすることに抵抗を感じていたわけだけど、「あちら側」の話はしにくいっていうのは、どっちから見た時も同じだと思うのだ。たとえば上流家庭の人が何らかの理由で労働者になったとしても、その人は自分の出自について言葉を濁すだろう。今自分がいる場所にそぐわない背景は、隠しておいた方が角が立たなくてよいから。
エリボンは文化人になるために出自を棄てた、裏切ったという罪悪感を持ち続けていたようだけど、それはなんというか、そういうものだろうと思う。たぶん両方に足を付けて立ち続けるのはすごく難しい。稀にごく自然にやっちゃう人もいるけど、大方の人には無理だろう。あっちを選ぶならこっちにはいられないし、こっちに留まるならあっちには行けない。
とはいえそれが「階級」というやつだから問題なんだけども。そもそも「あっち」「こっち」という階級が存在していること自体、社会制度として間違っているというのが21世紀のスタンダードであるはずだから。生まれた家庭の懐事情によって機会の不平等が発生し、特定の未来へ流されやすくなっている教育システムというのは間違いなく改善すべきだ。

しかし、すべてを平らにならすことなど無理だっていうことを認識しておいてもいいと思うのは、裏切りだろうか? 実際みんな気づいてないわけないから、認識はしているけど言わないだけなんだろう。テンション下がるからか。ただ、あまりにもクリーンな未来ばかり口にするのも現実的ではないように思ってしまうのだ。それって、完璧でひとつのバグもないシステムの実現を追い求めてるみたいでちょっと恐い。間違っちゃいけないことがこの世に存在すのは事実だけど、それでも間違いは無くならないのも事実だ。
しかしやっぱりこんな風に考えてしまうのは裏切りだろうか。この諦めは錆になるのだろうか。私が間違っていればいいなと思ってはいるんだけど。

何というか、非常にざらざらした読後感の本でした。でも読んでよかった、買って読んでよかったと思う。和訳を出してくれてありがとうございました。

そごう美術館「ショーン・タンの世界展 どこでもないどこかへ」に行ってきました

www.artkarte.art

2019年5月のいわさきちひろ美術館を皮切りに各地を巡回していたショーン・タンの展覧会がついに横浜のそごう美術館にも来ました。開幕当初から盛り上がっていたのは知っていたのですが、いろいろあって行きそびれていたので、いそいそと観に行ってきました。横浜に来てくれてありがたかった。行ってよかった。とても良かった!

もともとショーン・タンについてはイラストをちらっと見たことがあるくらいの知識しかなく、ポスターに描かれている不思議生物からブリューゲルとかボスとか、そういう系の人かと思っていたけど、それとはまた違う印象でした。ショーン・タンはショーン・タンだった。見事に撃ち抜かれて、帰るときにはしっかりと彼の本を持っていました。『遠い町から来た話』、まだ読んでないけど会場で見た絵がすごく好きだったので。『記憶喪失装置』と『葬送』が特に目当ての作品でした。あの絵を手元に置いておきたかった。
画家には画風というものがあると思っていたのですが、ショーン・タンは作品によって絵のタッチを変えているところがすごい。なんていうか、単純に、絵が上手いんだろうな。絵が上手いという事実のうえに、個性が乗っかってるかんじ。これは最強だ。

ちなみにまだ観に行っていないひとにこれだけは先に言っておきたいのですが、そごう美術館では毎日14時・15時・16時のタイミングで『ロスト・シング』のアニメーション上映会(約16分)があるので、ぜひご覧ください。会場に入る手前に予約受付テーブルがあるので、そこで忘れずチケットを入手してください。定員になったら受付終了です。平日16時の回は満席でしたが、席が埋まったのは公演直前だったようなので、早めに会場入りして中で絵を観て待っていれば問題ないです。
この『ロスト・シング』は不思議な迷子の生き物(?)との出会いの話なのですが、「迷子」の造形がめちゃくちゃ好みで、もう少しでDVDを買うところだった。個人的な好みで「小さくてかわいい」よりも「大きくてかわいい」ものの方がきゅんきゅんするので、「迷子」は非常にツボでした。後ろからひょこひょこついてくるのたまらない。無機物系生物好きやスチームパンク系が好きな人、ムジカ・ピッコリーノとか好きな人には刺さると思います。絵本は追って入手するつもりだけど(結構サイズが大きくて、当日は持って帰れず断念した)、やっぱりDVDも欲しいかも……。彼らが立てる音が良かったよなぁ。

移民の物語である『アライバル』についても、噂は聞いていたけどよく知りませんでした。しかし実物を前にするとこれか!と大いに納得。これは名作だろうなぁ。写真のアルバムを模した写実的なタッチなんですが、幻想的な街の風景と違和感なく混じり合っていた。食卓のシーンと街のランドスケープと、巨人の夜がすごく好きだった。「言葉の通じない見知らぬ土地にきた移民には、移住先の世界がすべて不可思議なものにみえる」というようなキャプションが書かれていたけど、確かにそうなんだろうなぁ。旅行に行くのとは違う、そこで生活していく不安と決意と好奇心、細かいストレスを無視する強さとちょっと諦めとか。絵の端まで油断のない構成と、丁寧な筆致が好き。

他にも既刊の著作のイラストとか、作品になる前のスケッチとか、旅先の油絵とか、インタビュー動画とか、盛り沢山で満足でした。アニメーション鑑賞含め、2時間くらい会場で過ごしていた。きっとこれから私の本棚に、ショーン・タンの本が増えていくことでしょう。

横浜では2020/10/18まで開催されています。まだ観ていない方も、すでに観たかたも、ぜひ。

文楽「鑓の権三重帷子」を観てきました

www.ntj.jac.go.jp

久々の文楽公演に行ってきました。再開してくれてよかった!
コロナ対応で1席ずつ空けての座席設定となっていて、舞台が見やすくてありがたかった。そして以前なら一日に二部か三部でやるものを四部にわけて、一部ごとの公演時間が短くなりました。休憩も無し。その分以前よりも一回分のお値段は安くなりましたが、公演時間と対比すると実質的な値上げになります。とはいえこの間引き具合では致し方あるまいと思うので、文句はないです。しばらくお休みだったし、厳しいだろうな……今後もなるべく観に行こう。


今回鑑賞したのは第二部の「鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)」です。目当ては咲太夫さん&燕三さんコンビの切場。咲太夫さんは微熱の症状があったとのことで、大事を取って公演前半はお休みされていたのですが、14日から無事に復帰されていたため無事に聴くことができました。大事なくて良かった。しゃんと背筋を伸ばして語ってらっしゃいました。

「鑓の権三~」は初めて見る演目だったのですが、ラストがものすごく良くて、後で調べたら近松門左衛門の作品だった。ほんともう、近松は凄いんだよな……。本作は近松三姦通物のひとつとして有名らしく、映画化もしているのだとか。
今回の公演では「浜の宮馬場の段」「浅香市之進留守宅の段」「数寄屋の段」「伏見京橋妻敵討の段」が続けて上演されましたが、本来は数寄屋の段の後に「岩木忠太兵衛屋敷の段」というのが入るらしい。

ざっとあらすじをいうと、美男で鳴らす武士の権三と茶の湯の師匠おさゐが不義密通の濡れ衣を着せられる話です。
権三というのが器量良しで武芸にも秀で、可愛い恋人までいて上司の覚えもよいという男なのですが、結構アレなんですよね……。現代の感覚を江戸時代の作品に持ち込むのはフェアじゃないんですけど、この権三、枕を交わした良家の娘さんに「話さえ通ればいつでも結婚するさ」とか言っておきながら、出世のチャンスが転がり込んだらその日のうちに別の縁談を受けてますからね!これは時代関係なく有罪でしょう。茶の湯のもてなしを務める役目を自分のものにできたら出世のチャンスという話があって、茶の湯の師匠おさゐ(年上の美人の奥さん)に秘伝の巻物を見せてほしいって頼みに行くんですけど、「でもこの巻物、一子相伝なのよね。うちの娘と結婚してくれたら私の息子になるし、一子相伝も守れるし、どう?」とか言われて、権三、頷いちゃってますからね。ちょっと、さっきお雪ちゃんと結婚の話してたじゃん!あっちの縁談どうすんの!
そして夜中に人目を忍んでこっそりとおさゐの元を訪れた権三は離れの数寄屋で秘伝の巻物を見せてもらうのですが、そこへちょうどやって来るのはこの話の悪役・伴之丞。彼はこれまでもおさゐに不義を迫って冷たくあしらわれている男であり、権三とは仕事上のライバルであり、権三の恋人である良家の娘さんの兄にあたります。伴之丞も茶の湯のお役目を狙っていて、秘伝の巻物を見せてもらおうとこっそり忍び込んできたのですが……まぁね、権三が上司の娘との結婚を取ったのもわからなくもない。恋人と結婚したらもれなくこの兄と親族になるのかと思うと……。いやしかし最初からこの兄がついてくることは分かってるんだから、ほんとにそれが嫌なら手など出さなければいいのだ。それなのに権三は将来の姑であるおさゐの元を訪れる時に、昼間に結婚の約束をした恋人・お雪から「末永くお腰元で一緒にいさせてね」とプレゼントされた家紋入りの帯を締めていて、よりによってそれを今してるの??と言わざるを得ない。もうその娘とは別れるんだったらせめて違う帯締めておいでよ…。だからおさゐに目ざとく見つけられて「その帯は誰に貰ったの!?」とか詰め寄られて庭に捨てられ、「私の帯を締めなさいよ、蛇のように腰に巻きついて離れないんだから!」とか言われちゃうんだよ。
しかしこの帯のセリフがいいですよね、さすが近松。おさゐはちょうど権三より干支一回り年上で、昼間のお雪の初心な感じとは全然違う、女の年季を感じます。娘婿といいながら器量の良いイケメンだったらちょっとぐらっと来ちゃうよね、そんなもんだよ。でも彼女はやっぱり夫と子供が大事だから不義を犯すことは無いんだけど、庭に投げ捨てられた権三とおさゐの帯を伴之丞に拾われて「不義密通の証拠だ!」と言われてしまってもうどうしようもなくなってしまう。
権三の武士人生はもう終わり、おさゐにとっても姦通は死罪。あとから疑いが晴れる可能性はあるけど、そうなると今家を留守にしているおさゐの夫・市之進の恥となる(らしい、当時の理屈では)。市之進が今後後ろ指差されずに済むには嘘でも二人が不義の汚名を被って、市之進に討たれるしかないということになるんですが、この辺の理屈は当時の理屈なのであまり深く考えないことにする。「そなたは女房」「お前は夫」「ええ忌々しい」の流れがとても良い。
そして不義の夫婦のふりをして道行をつづけた二人はとうとう伏見・京橋で二人を追ってきた市之進に見つかり、無事に討ち果たされるのでした。

「数寄屋の段」が咲太夫さんの語りだったのですが、良かったなぁ。そしてその前の「浅香市之進留守宅の段」の織太夫さんもよかった。いつもいい声してらっしゃる。
そしてぞっとするほど良かったのが最後の「伏見京橋妻敵討の段」です。通常は語りの太夫と三味線が一人ずつなんですが、太夫と三味線が大勢ずらっと並んで盆踊りの大合唱。盆踊りってもともと魂を送り出すものだけど、江戸時代ではいわゆる出会いの場になっていて、歌われているのも恋の歌です。「朝の名残りが辛ろござる」とか歌いながら男女が団扇片手に踊ったその後で、権三とおさゐという仮初の不義密通の夫婦が討たれるんですよ。これだから近松は……!!楽しげな恋に浮かれた盆踊りからの落差、お互い本意ではない道行で義務として討たれるところが、容赦ないよな近松は。だからいい。
裏切られたと信じ込んで二人を討つ市之進は、そりゃあ苦しい胸の内だろうけど、結局彼にとって一番ましな未来を二人が選んでくれたんだっていうのを最後まで知らずにいるのだ。最後まで市之進に知らせずに恥辱と汚名を引き受けて死んでいったというのが、当時も人々の心を打ったんだろうなぁ。しかしこの「どうしようもなさ」に明るくポップな盆踊りを入れてくるのが衝撃すぎて……すごかった。

2時間弱の公演でしたが、とても良かったです。公演復活してくれたのも嬉しかった。次は冬かな。また観に行こう。