好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

藤野可織『来世の記憶』を読みました

来世の記憶

来世の記憶

藤野可織は私の推し作家です。彼女の作品は読むたびにくらくらする。
書店の日本人作家の単行本コーナーは広すぎていつもほとんど新刊チェックできていなくて、この本が出ていたこともしばらく経ってからようやく気付きました。2020年7月発売でしたが、今月になってから慌てて買った。

全部で20篇も入っていて、ひとつは書き下ろしです。大事に大事に読んでいたのですが、とうとう読み終わってしまった。さみしい。最後の一編を残したところでわざとしばらく寝かせたりもしたんだけど、やっぱり我慢できなくてついに読んでしまった。とてもさみしい。でも今回も最高でした。
ちなみに装丁も素敵で、カバーを外すと違う絵が現れるというのが凝ってていいなと思いました。私は外に持ち歩くときはカバーを外す派なので嬉しい。装丁は名久井直子さん、装画は濱愛子さんです。

どれも好きなんですが、特に好きだった作品についてこれからいくつか語りたい。
しかし、できれば前情報なしに楽しんでほしいという気持ちもあるので、ここから先は隠しておきます。まっさらな状態で読みたいという方は、今はご覧にならないことをおすすめします。できれば本当に、何も知らない状態でひとつひとつ読んでほしいんです。きっとそのほうが、ぐぐぐっと、くるので。


ということで、ここからは作品の内容に触れていきます。未読の方はご注意ください。


全編通じて、特に衝撃的だったのが『スパゲティ禍』でした。「美術手帖」2015年5月号掲載の作品です。

 スパゲティ禍と呼ばれる災厄が起こった日、その瞬間、日本は夕方だった。取り立てて美しいということもない、ただ空の色が白っぽく褪せていくだけの夕方だったという。
 その日、人類のおよそ十八%がいきなり茹で上がったスパゲティの束となって崩れ落ちた。これを皮切りとして、死のかたちが完全に変わってしまった。いや、統一されてしまった。スパゲティに。(P.116『スパゲティ禍』)

このビジュアル的なコミカルさと、事象としてのシリアスさと、それを淡々と語る「ぼく」との絶妙なバランスがとても良い。
スパゲティ禍以降、人類の大半はスパゲティが食べられなくなるけれど(なんせ人が死んだらスパゲティになるのだ)、一部の人々は淡々とスパゲティを食べ続ける。「ぼく」は食べ続ける人だ。「ぼく」は一見普通の人なんだけど、ちょっとずれているところがあるのが言葉の端々から感じられる。その匂わせ方のさりげなさが、藤野可織はとてもうまい。
「食べられる人」は毎日スパゲティばかり食べるようになり、マジョリティである「食べられない人」はマイノリティである「食べられる人」の人間性を非難する。そしてついに「食べられる人」たちは特別な区域に隔離されることになる。いわばゲットーだ。「食べられる人」の居住区域は有刺鉄線付きの金網によって囲われており、電気も不安定だが、スパゲティとスパゲティソースだけは大量にある。「食べられる人」はスパゲティが問題なく食べられるので、総じて満足している。
「食べられる人」が居住区域に押し込められるのは、マジョリティたちが人間性に欠けるマイノリティと一緒に住むのが耐えられないからとかじゃなくて、死んだあとの自分たちを「食べ物」と見做すやつらとは一緒に住めないということなんですよね。恥ずかしながらラストでようやく気が付きました。隔離政策が発表される前に「ぼく」は隣の席でスパゲティ化した元同僚を「少しばかり変」な様子で見つめていたというのに。だから隔離する側のマジョリティは完全防備で警戒しているのだ。「ぼく」のサイコな感じがすごく良い。
捕食者と被捕食者、身の危険を感じたマジョリティによるマイノリティの隔離政策。とはいえそれを「スパゲティ化」という現象と組み合わせるっていうのがなぁ、そう来るか、そうか……すごいなぁ。

あと、『ニュー・クリノリン・ジェネレーション』も好きでした。これはKCI(京都服飾文化研究財団)の広報誌『服をめぐる』の第一号(2015年)に掲載されたもの。クリノリンというのは19世紀半ばに西洋の女性たちがスカートを広げるために使用していた下着で、ペチコートよりも容易にスカートを広く見せることができたのだとか。そして「ニュー・クリノリン・ジェネレーション」というのは、そんなクリノリンを新たな器官として体に備えて生れてきた世代の子供たちのこと。

 今日、私たちのこのクリノリンは、他人の手がむりやりに折りたたんだり広げたりすることが困難なほどに頑健である。私たちはクリノリンを豊かに波打たせることによって感情をあらわすようになり、ほんとうに心から望むのでなければ折りたたんで脚を、さらには脚のあいだにあるものをあらわにすることもなくなった。つまりクリノリンによって、私たちは自分たちの脚のあいだにあるものを取り戻したのだ。(P.150『ニュー・クリノリン・ジェネレーション』)

他にもポストヒューマンものである『ピアノ・トランスフォーマー』も良かったし、眠っているうちにすべてが過ぎ去っていく『眠りの館』も不思議な魅力があった。一方で『眠るまで』は起きてるときの話だけど、これもめちゃくちゃ好きで、一日を振り返ってひとり反省会するところなんかはぞっとするほどよくわかる。静かな夜に、部屋で一人で、パソコンの画面の光を顔に受けてビールをちろりちろりと舐めながら無表情で死体の画像をクリックする「私」を、私は自分だと感じた。

 今日、私は失敗した、いつもみたいに。いや、しなかった。いつもみたいに。今日は、最高でも最悪でもない、ふつうの日だった。仕事はいやというほどでもなく、同僚や先輩や上司との無駄話は質・量ともに平均的で、どちらかといえば楽しかったなと思い、思い終わらないうちから、あんなことを言わなければよかった、とも思う。もっとほかの言い方をすればよかった、いっそ黙っていればよかった。私と会話した同僚たちや先輩は、私の失敗に気づいただろうか? 気を悪くしただろうか? 私のことを、底の浅い人間だと思っただろうか? 頭が悪いと思っただろうか? それとも、性格が悪いと思った?(P.166『眠るまで』)

藤野可織は私にとって、ビジュアルイメージの強い文章を書く人です。作品の見せ場で、しっかりとその情景を描き出すタイプの作家だと思う。そして私はそこに惹かれるのだ。『眠るまで』でパソコン画面を見つめる「私」とか、『誕生』で病院の2つ目の自動ドアを出た後に広がっていた風景と、それを目にする「私」とか、『時間ある?』で親友の家を訪れ、サンスベリアの中を進む「私」とか。ちょっと息を飲むような、声を立てたらすべて崩れそうな一瞬の描き方が、すごく好きです。

なんせ全20篇なのでほかにも好きな作品はあるのですが、キリがないのでこの辺で。とても満足の一冊でした。