好物日記

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はすかい眞『木漏れ日は揺りかご』(+「電柱望遠鏡」)を読みました

文学フリマ東京38で入手したはすかい眞さんの『木漏れ日は揺りかご』と、あわせてつけてくださった無料冊子の「電柱望遠鏡 ~犬の尿で電柱が伸びるので調べてみたら望遠鏡ができて、別の星の知的生命体と遭遇した~」を読了しました。

『木漏れ日は揺りかご』は生死すら政府に管理されたスペースコロニーで、社会の仕組み上存在するはずのない「捨て子」を拾った女性の話。文庫サイズで全58ページの短篇です。
「電柱望遠鏡」は副題の通りです。カクヨムで公開されてるようなので、リンクを貼っておきます。バカSFのタグがつけられていて、ええ、こういうの嫌いじゃないです!楽しく読みました。

kakuyomu.jp


『木漏れ日は揺りかご』は、ジャンルとしてはディストピアものでした。物語をどこでどんなふうに終わらせるかによってその作品の雰囲気がだいぶ変わるけれど、作者がこの終わり方を選んだということがそういうことを伝えたいのかと思って興味深く読みました。
あと購入時に表紙のきのこがかわいい!と思っていたのですが、今気づいたけどこれくらげですよね……!! どっちにしてもかわいいけれど、すみません!! ちなみにきのこもくらげも直接的にストーリーには登場しませんでした。


以下、『木漏れ日は揺りかご』のストーリーのラストに関わる話をするので隠します。未読の方はご注意ください。


有名どころでいけばやはり映画「マトリックス」だろう。幸せな夢を見て一生を過ごすだけで、はたして人生を生きたといえるのか。
とはいえそれは現代の生き方を知っているから言えることで、それしか知らない、他の選択肢の存在に思い至らない場合にはそれはディストピアとして成立しえない。
『木漏れ日は揺りかご』の世界はヒトの寿命が80年(キリよく100年か64年でもいいのでは、とも思う)に規定された世界で、別に不幸せでもないけれど違和感を感じている人たちは日常生活の中でささやかな抵抗をする。とはいえ本当にささやかな抵抗しかできず、大きな流れは顔のみえない「政府」によってコントロールされている。仕事はしてもしなくてもよくて、仕事をしないからといって衣食住に困ることもない。悪くない環境。それは手厚く保護された幸せなペットのよう。

手段が目的と混同されるとたいてい失敗に終わるというのは、例えば昨今はDXでよく言われることだ。「デジタルをつかって業務改善をする」はあくまでも手段であって、「何のためにそれが必要なのか」「どうしてデジタルを使った業務改善という手段を取る必要があるのか」が明確になっていないと、「AIを業務に取りいれる」ことが目的になってしまって何の効率化にもならなかったりする。
たぶん、このスペースコロニーはそういう失敗の末路なのだろう。コロニーを維持することは何らかの目的のための手段であったはずなのに、そしてそれはおそらくヒトの存続、なぜならあなたに生きていてほしいから、あなたに幸せな人生を生きてほしいから、という崇高な目的であったはずなのに、個々の人生はコロニー全体の安定運用に取り込まれ、すり替えられている。

それは実際のところ、このスペースコロニーに限ったことではなく、私たちが生きる社会においても昔からずっと起きていることだ。「出世は男の本懐」だとか「女の幸せは結婚して子供を産み育てること」だとか、既存の社会を滞りなく維持運用していくために社会が個人に強いることはいろいろある。個人から社会へのリターンがゼロになると社会が崩壊するというのは確かにそうなんだろうけど、それはすべての個体に同じように要求する必要があるのか? 本当に? ここはちょっと、おかしくない? というのを、長い歴史の中で見直し改善してきて今がある。それでもやっぱり揺り戻しなんかも発生して、なんか損してる気がする! という人もいたりして、なかなかスピーディに進むものでもないけれど、でも変えることはできた。そしてこれからも、そうしていこうとしている、はずだ。
そのためには、社会の常識としての幸せの定義の多様性を広げていくことが、個人の人生の幸福を広める手段のひとつとして必要なことなのだと思う。

現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン』の長谷川愛さんの寄稿「テクノロジーの進歩は止めるべきか?」で、下記のように書かれていたのを思い出す。

生きるための工夫として、私たちは未知の「ユートピア」を開拓しなければいけない。現在のユートピアの多様性は乏しすぎる。

そして私が『木漏れ日は揺りかご』を読んでいちばんぐっときたのが、下記でした。

五十八年の眠りに就く前の私は、生きがいを失うことなど想定しておらず、誰もと同じように決められたとおりに死ぬものだと思っていたのだ。自分の順番どおりに生きて死ぬことに微塵の疑念も抱いていなかった。そして、病に伏す子どもたちにも八十年の寿命を与えたいと思っていただけだった。(P.54)

今の常識で過去を断罪することは簡単だ。難しいのは、今このときに起きていることについて、何がおかしいのか、何かおかしいのか、あるいはそれは別におかしいわけではないのか、誰も見つけていないときにそれを見つけて判断することだ。そして、陰謀論などの思い込みに偏らないようにすることも必要。


「ふつう」の外に出ることはとても難しくて、大抵の場合ひとりではどうにもならないので、私には絶対にフィクションの力が必要です。SFは特にそういうものと相性がよい。ということを、読んでいて感じました。面白かったです。