好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

セレン・チャリントン=ホリンズ『世界の奇食の歴史 人はなぜそれを食べずにはいられなかったのか』(阿部将大 訳)を読みました

ちょっと変わったジャンルの歴史本が好きなので、この本は発売当初からチェックしていました。書店に並んだのを買いに行ったらカバーの紙質がとても好みでうれしかった。いい紙使ってますね。

とはいえ副題の「人はなぜそれを食べずにはいられなかったのか」はほぼ掘り下げられておらず、それを目当てに読むと期待外れになるでしょう。ビジネス書タイトルの「〇〇はなぜ××なのか」命名ルールに則って日本独自でつけられたもののようです。原題は"REVOLTING RECIPES FROM HISTORY"なので、革命的な食という意味で遠からずではある。原題を確認してから読むと、タイトルに沿った内容だなと納得できます。

1章の「缶の中の死」は、缶詰の普及が食の歴史を大きく変えたことについての話。
冷蔵庫がない時代、食料保存は主婦の重大な責務の一つだったし、船で遠くの大陸まで移動できるようになっても、祖国に持ち帰ることができるのは「腐らないもの」に限られていた。それが19世紀になって、一人のフランス人が瓶詰の食料保存法を開発したことで、歴史が大きく動き出す。

 アペールの保存方法は海軍にとってたいへん有益であり、健康によい安全な食料を乗組員に提供してくれたが、それは世界貿易にも甚大な影響を与えることになった。やがて、どの食品が輸入可能なのか、食品がどのように保存、販売されるのか、また、どの食品が家庭の食料貯蔵室や戦場の最前線で保存可能なのかといったことが、すべてアペールの保存方法によって決まることになったのだ。[......] アペールが申し分なく傑出していたのは、その保存方法を工場生産できる規模に拡大し、正確できめ細かい、信頼性のある方法へと発展させる能力だった。この点において、アペールは缶詰食品の先駆者とみなされるのだ。(P.25)

そんな瓶詰から始まった新しい食料保存の歴史は、食中毒が多発したり、悪徳業者が古い缶詰のラベルを貼りなおして売ったりと、苦難の連続だったようですが、結果として便利な時代になったのはありがたい限り。地産地消もいいけれど、お取り寄せできる楽しみがあるのはうれしいものです。


ほかにあまり馴染みのない食材を扱っていて興味を引いたのが、4章の「妖精の腿のごちそう」。1908年にエドワード皇太子に振舞われたカエルの脚の料理のタイトルが「夜明けの妖精の腿」で、非常においしく大流行したのだとか。名前なんて、付けたもの勝ちだ。
著者がウェールズ在住のためイギリスでは……という言い回しがよくあるのですが、イギリスでは今はカエルはほとんど食べないが、昔はそうでもなかったらしい。(なお「昔は食べていたけど今は食べないもの」として、2章「臓物の真実」でトライプも取り上げられている)
面白かったのはカエルの料理方法よりも、新大陸アメリカでカエル養殖場が一攫千金事業として流行していたということ。

 アメリカ・カエル缶詰会社の創設者、アルバート・ブロエルは、養殖ガエルの肉を通して経済的安定を得る夢を売った。[......] 人々はこのチャンスにとびつき、何千という人々がカエル養殖のハンドブックを求めてブロエルのもとを訪れた。カエル養殖講座に金を払い、自分の養殖場を始めるための養殖ガエルを注文したのである。(P.166)

うまいビジネスモデルだ。しかしアメリカ中のカエルは狩りつくされる勢いで減少し、ブロエルもそのしっぺ返しを食らうことになる。

同じように人々が殺到して狩りつくされた生き物については、7章「絶滅するまで食べられて」でも語られている。リョコウバト、ドードーオオウミガラスなどなど。いずれウナギもここに名前を連ねるだろうか? 文化を盾にされると文句言いにくいところはあるけれど、主食じゃないのだし、絶滅させてまで食べるものでもないというのはごもっともだ。現代人は店舗でしか食材を入手しないから、クジラみたいに「そういえば最近見ないよね」くらいまで流通を減らせばなんとかなるのだろうか。鰻屋というのが専門店としてジャンルを築いているのがまた難しいのだろうけど。

奇食といったらゲテモノ食いでしょ! とお思いの方向けの章もあります。6章「酒池肉林」は暴飲暴食で有名なローマ皇帝カリギュラの話題で始まり、悪趣味な宴会や癖の強い発酵食品について書かれている。孵化直前のアヒルの半熟卵なんかは「食べてみたい」だけで食すには勇気が必要な見た目だったので、ちょっとぎょっとした。
とはいえ実際のところ、餓死の心配がない環境で奇食を追い求めるのは単純に娯楽でしかないから、そこでは倫理なんて屁でもないのかもしれない、とは思う。宗教では食べてはいけないものが決められていることがあるけれど、あれはもしかしたら歯止めの利かない欲望のストッパーになるものなのかも。そうでないと、物理的にはヒトがヒトを食べることも可能なのだし。ただそれがまかり通ると社会が成立しないので「食べたいと思わない」が望ましい状態であるだけだ。
厳しい環境を生き抜くためにあらゆるものをエネルギーとして摂取する必要があるとき、なんとかして毒を抜いて柔らかくして消化できるようにしようとするのは自然なことだ。しかし安心安全な環境で特にやることもないのであれば、食事はただの快楽になる。そうなれば「食べたことがないから」という理由だけで、なんでも食べてみるようになるのだろう。ローマ皇帝のように。そして多分、私にもそういう傾向はあるのだ。それを未知への挑戦として取るのもアリだけど、欲望を適切に制御できない愚者として取るのも、わかる。できるからってなんでもするなよ、ということだろう。飽食の時代に敢えて節制することの快感も、あまり私の好みではないけど、あるんだろうなと思う。食事が生きるためだけの行為でなく、文化とかいう正体不明のものを担うようになったときからの宿題なのかもしれない。

ちなみに5章「虫を召し上がれ」は昆虫食よりも食物に混入する虫がどこまで許容されるかという衛生上の話題がメインなので、昆虫食目当ての方はご注意ください。これはこれで面白いんですが、虫が写った写真も一枚含まれているので、苦手な人は章ごと飛ばしてもいいかも。


読む前に想像していたのとはちょっと違う内容ではあったけど、面白く読みました。2章「臓物の真実」には子牛の頭部のパイとかペニス・シチューとか、臓物メニューのレシピが載っているのが面白かったけど、材料を手に入れるのと、下ごしらえが難しそうでした。私はヴィクトリア朝時代の主婦じゃなくて本当に良かった。
この100年でかなり食事が変わったけれど、100年後の食卓はどうなっているだろうか? 100年前の人が今の食卓見たらどう思うんだろうかと考えるのも楽しい。
ヒトが食べられるものはもう全部食べつくしてきた気がするので、あとはどこまで食べる範囲を狭められるかなのかもしれない。しかしそれは、食材の範囲広げるよりもはるかに難しいのだろう。