好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

J・シュペルヴィエル『ノアの方舟』(堀口大學 訳)を読みました

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シュペルヴィエルノアの方舟堀口大學訳、青銅社、1977年

古本屋でシュペルヴィエルの本を見つけたので、買って読みました。普段はAmazonのリンクを記事冒頭に載せるのですが、ISBNがついていない本だったので、代わりにセルフ書影を掲げておきます。
青銅社の函入りで、函から出した表紙の鮮やかな青も美しい。マリアブルーっぽい。実は扉にサインが入っているやつでして、サインの宛名は小林ドンゲ! なのに普通にお安くて、いいのか……と思いながら素知らぬ顔でお会計してもらいました。加えて飯島耕一の栞(リーフレット)も挟まれていて、お得感が凄い。嬉しい。

とはいえ買った理由はサインではなく、堀口大學訳のシュペルヴィエルを読みたかったからです。シュペルヴィエルのことは『世界文学アンソロジー』で「沖合の少女」を読んで以来気になっていたのですが、他の作品を読めていませんでした。古本屋で見つけて、これは買わねばと思った。

全7編の短編集で、内容は以下の通り。

ノアの方舟
「エジプトへの逃亡」
「砂漠のアントワーヌ」
「少女」
「牛乳の椀」
「蠟人形」
「また見る妻」

堀口大學訳の本書は第一書房から1939年に出たのが初版らしく、この青銅社版は再再版になる模様。私にとっては、どれも初読でした。「砂漠のアントワーヌ」までは直接的にキリスト教の聖書にでてくるエピソードをもとにした話です。
シュペルヴィエル、全体的に飄々とした雰囲気で、好みでした。足元からすすすっと忍び寄ってきて何事かを囁くような感じ。神話世界のように、動物も普通に喋ったりするのですが、ごくごく自然にそれをこなすのでなんの違和感もない、でもファンタジーでもない。こういうのを寓話的と言うんだろうか。でも寓話的小説にしては説教臭くないのが良い。
ノアの方舟」はもうモチーフからして大好物なのですが(石川宗生の「恥辱」も良かった)、ほかにも「牛乳の椀」「蠟人形」が特に好みでした。

ノアの方舟」は、飯島耕一が栞にも書いている通り、出だしがとにかく抜群に良い。

 宿題が出来上って乾かそうとした途端、大洪水以前の一人の小娘は気がつくのだった、自分の吸取紙がぐしょぐしょに濡れてしまっていることに。この紙、ふだんはいつも喉を渇ききらしている性分のこの紙が、水を吐くとはいったいどうしたというのだ! クラスでも成績きわめて優秀なこの小娘は、自分に言って聞かせるのだった、ともするとこの吸取紙は何か素敵な病気に罹っているのかも知れないと。吸取紙をもう一枚買うには、あまりにも貧しすぎる彼女だったので、その桃色の紙を日向へ出して干すことにした。ところが吸取紙にはどうしてもその悲しい湿り気を払いのけることが出来ないのだった。一方また、宿題のインキも、いっかな乾こうとはしないのだ!(P.8、「ノアの方舟」)

タイトルが「ノアの方舟」である時点で、この小説で大洪水が起きることを読者は予測できるわけですが、大洪水の予兆が渇かない吸取紙から始めるところに痺れる。そしてこの後「脳や腹部に水の溜る病気」で人々が死ぬようになり、ついには「砂漠の砂の粒までが」水を吐き出すに至る。そして読者の誰もが最初から知っている通り、ノアは方舟を作り、それに乗り込むことができた動物のつがいは生き延びることに成功する。
ノアの方舟というモチーフの面白いところは、選ばれるものと選ばれないものが歴然と区別されることです。聖書的には、人々があまりにも堕落したために全部水に流してもう一度やり直すことにしたというのが大義名分だけれど、運よく方舟に乗れた「つがい」以外の動植物に対する慈悲は皆無である。人間はまぁいいとしても、堕落した人類に巻き込まれる動植物はたまったものではなかろう。
この小説でも、方舟に乗れなかった動物たちは「大洪水以前の動物」として滅びの運命を甘受するしかないことになっているのですが、そういう不条理を軽やかに笑いながらチクリと示してくるところが良い。「ノアの方舟」に限らず、ユーモアに包んで毒を差し出すところがシュペルヴィエルの面白いところでした。

 大洪水以前の動物の一団が会合し、転覆させようとして果さなかったノアの舟に対して、邪魔をしようと計画した。彼らは鯨に参加するようにと慫慂したが、もともと正統派ではあり、また自分が生き残ると確信している鯨は、子鯨どもを引き連れて、「後ろを向いてはいけないよ、やつらはみんな無政府主義者どもだから」と言いながら、さっさと行ってしまうのであった。(P.14、「ノアの方舟」)


「牛乳の椀」はたった3ページの短編なのですが、これがまたかなり印象的な作品で、非常に好きです。お椀になみなみと注いだ一杯の牛乳を、母親のために毎朝歩いて運ぶ青年の話。ただそれだけです。飯島耕一の栞に、フランス語の教科書に載っていたとの記載があったけれど、これを題材にした授業は面白そうだ。

 諸君が往来ですれ違う男たち、彼らが必ずしも市内の一点から他の点へと、あのように歩いているにふさわしい理由を常に持っていると、諸君は思うだろうか?(P.80、「牛乳の椀」)


いやしかし極めつけは「蠟人形」ですよ! この作品もまた、出だしが素晴らしい。

 その劇場の支配人は、たいそう親切な人物だった。そのため、彼が作者の目の前で、原稿の片隅を引き裂いて、小さな団子を作ったりしても、それがいかにも楽しそうなので、作者はこの身振りの中に、むしろ他ならぬ心づくし、わが脚本に対する多少とも異常な関心を見るにすぎないのだった。(P.82、「蠟人形」)

もう明らかに曲者の気配漂う支配人の描写! こういう描き方で支配人の人となりを言い表すところ、巧いなぁ。
そして、そんな慇懃無礼を極めたような支配人の劇場には、客の入りが悪い時に観客席に配置される蠟人形がいる。

それで支配人は、彼のために、説明しなければならなかった、近頃、諸方の劇場で、前売りが少なすぎる時には、倉庫から、観客の補充を引っぱり出すのだと。彼らは完全に似せて作ってあった。いかにも人間らしい見事な仕上げで、亜麻いろの頭髪だとか栗いろの頭髪だとか、肥っているとか痩せているとかいう、単純な差別では満足しなかった。(中略)
 幕あきの一時間前に、これらの人形は配置されるのだった。彼らは待つのは平気だった。また彼らの中の或る者は、適当な折に拍手することも心得ていた。巧みに装置された電線が、彼らの拍手の時機を教えるのだった。(P.88-89、「蠟人形」)

客の入りの少ない劇を書いた作者自身は、この人ならざる観客が気に食わない。一番の理解者みたいな顔をした支配人に言いくるめられてしまうけれど、どうしても納得できない。
話の結末をここで書くことはしませんが、この結びも、出だしに劣らず印象的ですごく良かった。事実を述べるだけで、背後にあるだろうあれやこれやを浮きかび上がらせる。けど明言はしないので想像の余地が果てしなく広がる。


シュペルヴィエルは詩人でもあるそうなので、詩のほうも読んでみたいです。その前に、もう一つの短編集『沖の小娘』も読みたいなぁ。青銅社、もう存在しない版元らしいので、古本屋でうまいこと見つけたらすかさず買わなくては。