好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ラヴィ・ティドハー『金星は花に満ちて』を読みました

www.hal-con.net

日本のSF界には、はるこんという行事があります。春に行われるコンベンションだから、はるこん。ゲスト・オブ・オナーとして海外作家を招いたり、ディーラーズルームで即売会をしたりというお祭り……なのですが、実は行ったことがありません。なんだか毎回都合が悪くて行きそびれている。
はるこんでは毎年ゲスト・オブ・オナーの未邦訳作品を短編集の形にまとめ、「ハルコン・SF・シリーズ」として配本してくれているのですが、はるこんに参加したことのない私は当然買ったことがありませんでした。
しかし! 今年の文学フリマに行ったときにはるこんがブースを出していて、2019年版の配本を販売していたのです! ラヴィ・ティドハーは気になってたので、つい買ってしまいました。手に入って嬉しい。ありがとうございます!

本書には表題作含む5つの短編と、橋本輝幸さんの解説、著者あとがきが含まれています。ラヴィ・ティドハー自身が選んだという短編の内訳は以下の通り。

『金星は花に満ちて』(崎田和香子 訳)
『地球の出』(大串京子 訳)
『世界の果てで仮想人格(ゴースト)と話す』(木村侑加・大串京子 訳)
『ネオム』(山本さをり 訳)
『ターミナル』(兵頭浩佑 訳)

表題作は英語版も入っていて嬉しい。ラヴィ・ティドハーはイスラエルキブツ育ちですが、小説は英語で書く作家なんですよね。『シオンズ・フィクション』に掲載された短編しか読んだことがなかったのですが、作品のところどころで中東の香りが感じられるのが楽しい。私にとって馴染みのない文化のひとつなので、エキゾチックな印象を受けるのです。

橋本輝幸さんの解説によれば、5つの短編のうち冒頭の3つは同じ《コンティニュイティ》シリーズに属するとのこと。同じ単語を使っていたのでシリーズなのだろうと思って読んでいたけど、むしろ5つ全部同じ世界観なのかとも思っていた。後ろの2つは違うらしい。でもいずれも人類が宇宙空間に進出した後の世界を描いている点では共通しています。そして地球ではない場所で、「生きる」ではなく「暮らす」を志向しているところが好き。

しかし《コンティニュイティ》シリーズ、これめっちゃいいですね……。シリーズ作品の短編集だという"Central Station"の邦訳、してくれないかなぁ。冒頭の『金星は花に満ちて』は死んだ祖父を悼む話なのですが、祖父を喪って悲しむ女性にそっと寄り添うロボット、R・ブラザー・メケムがすごく良い。彼(と敢えて呼ぼう)、ロボットでありながら聖職者でもあるという、その設定だけでもうたまらない。

(前略)生き残るために人々は恐ろしいことを行なった。そして、R・メケムのようなロボットは、彼らを真似るのに十分なほど人間的だったのだ。R・メケムは、自らが死に直面した多くの場面でそのまま死ぬことも可能だった。しかしメケムはその可能性を選択しなかった。
 自由な選択は、ロボットにとって可能だったのだろうか? 人間にとっては可能だったのだろうか? 人生は選択肢で出来ている。
 選択することで生き、生きていることで選択する。(P.13、『金星は花に満ちて』)


それと、砂漠の都市でパートタイムの掃除人として働くマリアムの話である『ネオム』も、暮らしに密着した近未来SFで、とても好きな文章でした。サウード王朝のムハンマド王子が建設した近未来都市・ネオム。ものすごく裕福な人と、それなりに裕福な人と、裕福ではない人がいる。マリアムは裕福ではない人の部類で、彼女の雇い主はそれなりに裕福な人の部類に入る。そしてそれ以外に、前述の三種類のどこにも含まれないロボットがいる。
マリアムが黙々と掃除をし、介護施設の母親を見舞い、帰宅して煙草をふかす様子がすごく切なくって良い。この淡々とした語り口がマリアムの感情を際立たせているんだろう。このロボットの立場は、この作品ではロボットという存在として書かれているけど、本当はロボットではない人がその役を担っているということが現実にあるよね、って思うとしんどい。でもこの作品のロボットのような扱いを受けている、ロボットではない人は存在するのだ。彼はかなり自覚的に書いているだろうと思いました。マリアムを語り手に持ってくるところが上手い。


しかし何といっても一番好きなのは『ターミナル』です。遠目には小さな昆虫のように見えるオンボロ船の群れが、地球を捨てて新天地・火星へ向かって旅をする話。

これまで人類は何度同じようなことを繰り返してきたことだろう。船を出して海を渡って、あるいは山を、砂漠を越えて。ここではない新しい土地を自らの故郷とするための旅。必然的に、片道切符だ。
この作品では、その行き先として火星が選ばれている。もう帰ってこれないだろうほどに遠い場所。

「ここにサインをお願いします。ここはイニシャルで結構です。あと、こことここと、ここにも。それとあと――」
 このような事務的な作業で生み出される、決して珍しくもない宇宙飛行士にとって、自分が宇宙飛行士になるというのは、そしてゆくゆくは火星人にさえなるというのは、一体どのような気分なのだろう。(P.72、『ターミナル』)

それぞれ何らかの理由でターミナル行きを決意し、一人用のオンボロ船に命を託した面々は、船同士の音声チャットで会話をすることができる。未知への不安に駆られたハジークという男の「ターミナルってどんなところなんだ?」という必死の叫びに、メイという少女が答えを返す。

「想像してみて。初めてあの赤い砂漠の上に立ってみた時の光景を」
 彼女はハジークに語り掛ける。彼女の声はあのイスラム教徒のように、何かを歌っているように聞こえた。
「赤い砂漠への第一歩。今、美しい砂の上にあなたの足跡が付いた。でもその足跡はいつか消える、分かるでしょう。ここは月の上じゃないから、いつかは火星の風があなたの足跡を消し去ってしまう。それを見た時、あなたは命の儚さを思い出す」(P.81、『ターミナル』)

「空にも月とはまったく別の果物がぶら下がっている。そしてあなたは宇宙服を纏い、船外への一歩を踏み出そうとする。その時、重力があなたの体を打った。あまりの苦しさと痛みに、あなたは体を引きずるようにして船から出る。重力がこんなにも強い力だったとは」(P.81-82、『ターミナル』)

この、メイの語りが実に良いんですよ……訳の言葉もいいんだろうなぁ。ラストまでの流れも素晴らしい。
本当に、これまで人類は何度も未知への領域に飛び出して行って、しっぺ返しくらっては再挑戦して、その影にはたくさんの犠牲もあって、でも進むことをやめなかったんだな、ということが、この短編にぎっしりと詰まっている。そこには理性的な判断などはあまりなくて、虫が光の方向へ進んでしまうように、ハーメルンの笛に呼ばれたように、直感的に「行かなきゃ」って思うものなのかもしれない。それが理論的にはリスキーでも、辛く厳しいものでも。いいか悪いかじゃなくて。
あぁしかしラスト最高でした。素晴らしかった。

ラヴィ・ティドハーすごく良かったです。収録作品を彼自身が選んだというだけあって良い作品ばかりだけど、彼は日本をどんな風に見ているのかな。文化も歴史も彼の出身地とは全く異なる国を。
"Central Station" も読みたいので、どこかの出版社でぜひ出してください、お願いします。