好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

レティシア・コロンバニ『三つ編み』を読みました

三つ編み

三つ編み

『82年生まれ、キム・ジヨン』に続き、フェミニズム文学のひとつとして最近話題の一冊。フランスの映画監督が書いた本ということで、図書館で借りて読んでみました。
四六判のソフトカバーで、そんなに長くもないし文章も読みやすいです。そして、思ったほどガチガチのフェミニズム文学ではなかったです。

インドのスミタ、イタリアのジュリア、カナダのサラという三人の女性の話が順番に語られていき、三つ編みのように一つの物語となっていく、というスタイル。ちょくちょく著者の独白が入るところがナレーション好きのフランス映画っぽい。
訳者あとがきと高崎順子さんの解説が非常に充実していて読みごたえがありました。特に解説には「ジェンダーギャップ指数で読み解くベストセラー」という小見出しがついていて、さながら小論文ようです。

インド女性の話はあまりにも状況が過酷すぎて「共感する」レベルではなかったのですが、弁護士事務所でバリバリ働くカナダ女性と、男を立てる社会に暮らすイタリア女性の暮らしはあるある!というところがいくつもあってイメージしやすい。弁護士事務所で働くサラには子供がいるのですが、彼女が子を生んだときの記述が印象的です。

アンナが生まれたときから、生後五日の赤ん坊をベビーシッターにあずけ、当時の勤務先事務所の緊急の用事を片づけに行ったあの散々な日以来、罪悪感にさいなまれている。(中略)同時に、夫の軽さを羨んだ。不思議なことに、こんな感情とは無縁に見える男たちのあの驚くべき身軽さはどうだろう。憎らしいほど気楽に家を出ていく。毎朝、彼らが書類だけ持って家を出るのにひきかえ、彼女にはどこへ行くにも罪悪感が亀の甲羅のようについてまわる。(P.32)

罪悪感というのは、すごく重要なワードだと思う。自分で制御できないレベルで精神を蝕む。
私は子供を産んだことはないけど、子供を置いて仕事にいくとなると、きっと罪悪感を感じると思います。父親が家にいて子供をみているとしても、預けている感覚になってしまうだろう。自分だけの子ではないのにね。母になるということと父になるということは、仕事に対する影響が天と地ほども違うように思われる。なぜだろうか?本能レベルの話だろうか。おなかの中で十月十日付き合うと、やはりそういう気分になるのだろうか。なら体外受精ならそうはならないのか?でも母乳があるから、やはり本能なのだろうなぁ。ホモ・サピエンスは生物的にそういう戦略を長く採用してきたから、分担を変えるとそわそわして落ち着かないのかもしれない。生活の仕方が変わったからと言って、100年や200年で動物的な行動基準が変わるものではないだろう。罪悪感を「感じてはならない感情」として無理に無視しようとすると、きっとどこかで破綻する。とはいえ、だからあきらめろ、ではなくて、生物的な特性を活かしたうまい妥協点を見つけたいところではあります。

またイタリアのジュリアの立ち位置も非常に微妙で、彼女は母親や姉に「女性性」の役割を無言のうちに強制されて育っている。
先日、「結婚したら料理は基本的には自分がやりたい。夫のほうが料理が上手いのはプライドが傷つく」と20代の女性が話していたのを聞いたことがあって、なるほどこれだなぁと思った。これまで多くの家庭で女性が任されていた仕事を男性とシェアするとき、女性はどこかで自分が優位だった地位を手放さなければならないのです。「自分がやりたくないからやってほしい」だけでは男性に対してフェアではないので、「自分がやりたいことも任せる」という一歩を踏み出す必要がある。それをせずに権利の主張だけすることはできまい。これまで女性がこなしてきた仕事を相手とシェアするというのは、自分の陣地に相手を招き入れることであり、勇気を伴います。自分に優位だった立場を手放すことになるから。特に刷り込まれた価値観が自分の存在価値を支えている場合、その価値観にメスを入れなければならないでしょう。しんどいよな。

というようなことを小島慶子も言っていたなぁと思って探しました。あった。

dual.nikkei.co.jp

上記コラムで言われているのは「男社会において"少数の女性"でいることの既得権益を手放す覚悟が、世の女性たちにあるのか」ということなのですが、家庭内の女性の特権についても同じことがいえると思う。家庭の中で「母」「妻」の比重の重かった仕事を「父」「夫」が果たすと「協力してくれていい旦那さん」といわれることが多いのが今の社会です。カナダのサラのように、子供をみるのは「母」である、という意識もある。これを本気で変えたいのなら、女性の側にも「母」「妻」であることの価値を生む仕事を手放す覚悟が必要だと思うのです。すべての仕事をロードローラーでならして更地にして、1から積み上げていかないといけない。配分のスタート状態が「妻10:夫0」で、そこから妻の5を夫に渡すような方式ではきっとうまくいかない。その場合のパワーバランスは明らかに妻が強くなる。渡す仕事を選ぶというスタンスになるからです。「妻0:夫0」からスタートして、10の仕事を適切に配分していくほうがいいと思う。それでもきっと無意識レベルで「これは妻の仕事だから…」みたいな判断基準が入ることがあるとは思うんですよね。今は過渡期だから、どうしても刷り込みによる影響からは逃れられない。かなり頑張って意識的に制御しないと、すべての偏見を排除するのは正直無理でしょう。でも進めることには価値があるはず。しんどいだろうけど。

ガチガチのフェミニズム小説ではないけど、するりと滑り込んできて疑問を投げかける小説でした。「ねばならぬ!」というような著者の強固な主張がばーんと提示されているのではないところが、したたかで良かったです。