好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

松本清張『昭和史発掘 12』を読みました

ノンフィクションシリーズ『昭和史発掘』、12巻を読み終わりました。父親のお下がりの古い版でISBNがついていないので、リンクは無しです。

12巻は、11巻で蹶起部隊が撤退した後の話になります。彼らがどのような処分を受けるのか、というところ。内容は以下の通り。

二・二六事件 六
・特設軍法会議
・秘密審理

小タイトルから滲み出る不吉な感じ……

蹶起後、数人の将校は自決したのですが、多くの将校(元軍人含む)は刑務所に入れられました。将校たちの目的は世直しなので、相沢事件のときのように公判で切々と胸の内を語り、世にその趣旨を知らしめようとしたのです。
しかし軍の意向により、裁判は非公開で行われることになります。
軍人に対する裁判なので軍法会議になるのですが、常設軍法会議ではなく特設軍法会議という形にして、非公開でも違法でない状態にしたのでした。

 だが、何度もいうように、特設軍法会議とは戦時事変又は交通断絶した戒厳地区(合囲地境)に構成するものであるから、これを国内に適用するには異論があるはずだ。戦地、占領地などではその特殊な環境からいって、なるべく早く裁判を終らなければならない。適当な弁護士もいないという事情もあろう。しかし、国内に戦争はなく、戦時緊急切迫の事態もない。適任の弁護人はいっぱい居る。戒厳令下といっても三月に入ってからは東京の治安も回復し、平静になっている。そこまでする必要はなさそうだ。
 ところが、陸軍当局は相沢裁判で懲りていたのである。相沢の第一師団軍法会議は、いわゆる常設軍法会議で、公開、弁護等が認められた。この公開審理を利用して、いわゆる法廷闘争がなされた。相沢被告は演説し、満井特別弁護人は、真崎、林、橋本らの将官を証人として出廷させ、なお大物を証人として続々と申請した。(中略)
 公開すれば一大法廷闘争になるのは必至だ。大弁護団と、夥しい証人群。裁判長忌避の戦術は却下されるにしても、上告するのは間違いないから、最終結審と判決まで何年かかるか分らない。その間の法廷闘争と外部への反響を考えると、当局は鬱陶しい限りというよりも恐怖が起る。第二の叛乱がつづいて起らないとも限らないのである。(P.47-48)

そんなわけで本来なら常設軍法会議となるところを、無理やり戒厳令を伸ばして理由づけして特別軍法会議という形で進めたのですね。エライ人はさすが老獪だ。

12巻で詳しく書かれているのは、事件を指揮した将校クラスと、上官の号令で集合し現場に向かった兵士クラス、それぞれの量刑をどうするかの考え方についてです。なんせ大人数なので、全員を有罪として処分すると軍の構成にも影響が出るし、国民感情も悪くなる。もともと軍というのは「上官の命令は絶対」という特殊な空間であり、その不文律を崩すわけにもいかない。そのあたりをうまくバランスとりながら、丸く収める必要がある。
特設軍法会議なので、判決を下す「判士」は軍の中から選ばれます。なるべく中立的な立場の人を集めたということになっているし、本人たちも軍上層部の介入はなかったと証言しているけど、全然ないわけないよね、というのは松本清張も指摘している通り。それはそうだと思う。
本書では判士に任命された人の手記などをもとに細かい所まで書かれていて、さすが松本清張って感じでした。やっぱり彼はジャーナリストですね。

面白かったのが刑務所の様子。将校たちは渋谷区宇田川町にあった衛戍刑務所に収容され、その刑務所の一角に特設の公判廷を作ったらしいのですが、やっぱり人によって過ごし方に個性が出ていたようですね

 久原房之助は、着物を脱がせると、裏地に羽二重を使っているといったような贅沢な男だった。
 北一輝はいい男だった。実弟の北昤吉が面会にくると『お前らはなっておらん』と云っていた。態度などで感心したのは、この北と真崎などで、西田も立派だった。
 亀川哲也もおとなしく、古事記などの本を読んでいた。
 大蔵栄一は運動の際、逆立ちなどしていた。区画をきめて、自由にさせろなどといっていた。栗原安秀はいちばん気負っていた(P.171-172)

上記は元看守の証言。「態度などで感心」の詳細が書いてなくて残念なのですが、やっぱりオーラのある大物というのは、刑務所に入るくらいでおどおどしたりはしないものなのかな。そういう度胸ってどこで身につけるんだろうか。場数か。しかし北はすっかりその筋の人って感じだ。
中でも歌人でもあった斎藤瀏の「獄中の記」からの引用は味わい深かったです。刑務所での暮らしを記した中に短歌が挟まれているのだ。

「朝起きて私は用便の為め上げ板を上げて、便槽に跨り蹲まつて驚いた。この便槽の底に私の顔が……私は此処に来て私の顔を見た。
 ほのぼのと槽の尿にうつろひいてわが顔が見ゆたちがてぬかも
 私は茲に鏡の在ることを知り得た。獄中では鏡の使用は許されぬので、自分の顔を見る時機は無いのだ」(P.173)

歌人ってすごい。刑務所の御不浄すら雅に思える……。

そんなエピソードも挟まれつつ、駆り出された判士たちは公判をスピーディに処理するため、膨大な人数の実行犯たちをタイプ別のグループに振り分け、量刑に頭を悩ませるのでした。
13巻に続く!

橋本輝幸 編『2010年代海外SF傑作選』を読みました

先日記事を書いた『2000年代海外SF傑作選』の姉妹編のような本、2010年代に発表された海外短編SFのアンソロジーです。2000年代よりも馴染みのある作家が増えたのは、私が海外SF読み始めたのがちょうど2010年代頃からだからでしょう。
しかし前に読んだことあるよなーと思いながらも、今もう一度読み返すと新たな感動があったりして、やっぱり読書ってタイミングも大事なんだなとしみじみ思う。こんな話だったっけ! とか思ったり。あの時私は一体何を読んでいたのか。

そんな2010年代海外SF傑作選、全11編の内訳は以下の通り。

ピーター・トライアス『火炎病』(中原尚哉 訳)
郝景芳『乾坤と亜力』(立原透耶 訳)
アナリー・ニューイッツ『ロボットとカラスがイースセントルイスを救った話』(幹遙子 訳)
ピーター・ワッツ『内臓感覚』(嶋田洋一 訳)
サム・J・ミラー『プログラム可能物質の時代における飢餓の未来』(中村融 訳)
チャールズ・ユウ『OPEN』(円城塔 訳)
ケン・リュウ『良い狩りを』(古沢嘉通 訳)
陳楸帆『果てしない別れ』(阿井幸作 訳)
チャイナ・ミエヴィル『“ ”』(日暮雅通 訳)
カリン・ティドベック『ジャガンナート――世界の主』(市田泉 訳)
テッド・チャン『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』(大森望 訳)

華文SFが2つ入っているのは大きな特徴でしょう。カリン・ティドベックはスウェーデン人ですが、今回は英訳からの和訳のようです。巻末の解説で非英語圏SFについて触れられているのも面白かったですが、そうは言うもののやっぱり強いのは英語圏だ。

本書について、ハヤカワのnoteで「おどろきの初訳率!」と書かれていたけど、つまりそれって海外短編SFの発表の場が多くないということに他ならないんですよね。驚いてる場合じゃないぞハヤカワ。もっと早くに紹介してほしかったなぁ。
しかしSFマガジンですべてを拾うのは正直無理な話だ。となると、拾いきれない分を、どこでカバーするかなんですよね。雑誌は難しいだろうから、これからはweb媒体か。翻訳は権利問題もあるだろうし、そんなにスムーズにはいかないものなのかな。今回のようにアンソロジー本で出してくれるなら喜んで買う所存です。ほんとは自分で英語で読めたらいいいんだろうけれど。

作品については傑作選という名前の通り、どれも非常に面白かったです。翻訳してくれてありがたいです!本当は全てに触れたいのですが、長くなるので、ここではいくつかのお気に入りの話に絞って書くことにします。

私はミエヴィルが好きで、新作が読めるというのがこの本を買った理由の一つです。『“ ”』、たった8ページなのですが、最高でした……!
初出は架空動物アンソロジー"The Bestiary"に寄せられた作品とのことなのですが、このアンソロジーからしてめっちゃ面白そう! 読みたい! こういう博物学っぽいフィクション大好きです。そしてミエヴィルが繰り出した架空生物が " "(ザ・)、それは<無(ナッシング)>を構成要素とする獣。材木の節穴にそれが隠れていることが多いというのがとても好きでした。


読後感が非常に好みだったのが、サム・J・ミラーの『プログラム可能物質の時代における飢餓の未来』。あらゆるものに姿を変えるナノ・ポリマー(プログラム可能物質)が広まった世界の、とあるゲイ・コミュニティの話。あ、そういう話になるの!? とちょっと唖然とするようなストーリーのハンドルの切り方でした。でも全体的な情景描写の雰囲気が好みだったので、アリだった。いやしかしびっくりしましたけどね。そうだろうとは思ってたけどそうなのね、みたいな。
ちなみに読後感が好みって言うのは、爽やかで気持ちよく終わるってことじゃないのでご注意ください。私が好きな読後感は、ドロドロしたやつですので!


爽やかで嬉しくなる読後感としては、郝景芳(ハオ・ジンファン)の『乾坤(チェンクン)と亜力(ヤーリー)』を推したい。三歳半の人間の子ども・亜力と友達になるという仕事を仰せつかったAI・乾坤の話です。子供と友達になる系は意図して泣かせに来る感じがしてあまり好きじゃないんですが、これは相手が子供である必要性がはっきりしていて実に良かった。三歳半っていうのがポイントですね。

 ロボットには非常に優れた自動モニターと人間を避けるプログラムが入っていたため、毎回亜力が近づくたびに、自動的に彼をよけた。亜力は飛びかかったが、ロボットは精巧なルートに沿って滑っていく。亜力はそれがとりわけ面白く感じた。亜力は全神経を集中させ、大笑いしながらロボットを追いかけ始め、それを捕まえようとして、追いかけつつ大声をあげた。ロボットは止まることなく亜力を自動的に除け、少しも彼にぶつかることはなかった。
 乾坤はそれを見て、ロボットに止まるよう命令した。亜力はすぐにロボットにぶつかり、倒れた。
「あーーーーーーーっ」亜力が鋭く叫び出した。「うごかして! うごかして!」そして言い終えないうちに大声で泣き始めた。(P.34『乾坤と亜力』)

まさに三歳児。不条理の塊である赤ん坊と、合理性の化身であるAIという組み合わせにニヤニヤしながら読んでいました。これ、ラストがまたいいんですよね…素晴らしかったです。『人之彼岸』も読もうかな。郝景芳、彼女、ちらっと調べたらすごく素敵な人のようだ。いいな、気になる。


それから今回、改めて読み返してやっぱり面白いなというのを再確認したのが、ケン・リュウテッド・チャンです。ほんと、私は前に何を読んでいたのだろうか。
ケン・リュウのはサイバーパンク感が最高だったし(香港の描写が最高)、テッド・チャンのはテーマ盛りだくさんでちょっと一口には言えない。

テッド・チャンは初めて読んだ時からめちゃくちゃ好きなんですが、『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』は永遠に庇護される存在でいてくれるディジエントという情報生命体が、ちょっと角度を変えるだけでものすごくグロテスクなものに見えて恐ろしかった。
うちの親は「親の仕事は子供が一人で生きられるように育てること」と言って、子供のころはいろいろ厳しかったけど、成年後は好きにさせてくれている。けどディジエントは「永遠に私のかわいい子」なんですよね。ずっと世話を「焼かせてくれる」。ペットを育てるのは子育ての代替だという話が作品内でも出てきたけど、ディジエントはそれをさらりと叶えてくれる。もちろん、代替なんかじゃなくディジエントという存在そのものへの愛なんだっていうのはあると思うけど、そこは問題じゃない。問題なのは「ずっと変わらない愛情」っていう部分だ。
自然界において変わらないって言うのは、不自然の極みだろう。だからデレクはいい選択をしたと思うし、アナは自分の偽善に無自覚すぎると思う。彼女はジャックスの為と言いながら、ジャックスを利用しているわけだから。
とはいえディジエントって結局AI生命なわけで、利用されてなんぼという部分はあるだろう。利用されることが存在意義ともいえる。しかしAI生命と肉体生命にどういう違いがあるというのか。愛情に貴賤があるとでも? そもそも生きて命があるというのは、そこまで特別に尊いものだろうか?
……とかいろいろ考え出してしまうのですが、答えなど出るわけがないのだ。そしてそういう倫理の迷宮をうまく織り込んでくるテッド・チャンが私は好きです。次の本はいつ出るのかなぁ。

うーん、しかしやっぱりアンソロジーはいいな。すごく楽しい。書ききれなかった他の作品も、どれもそれぞれ魅力的でした。AIものが多いのは2010年代の特徴なんだろうか。人間優位の時代が終わっていくようで好ましい。
2020年代はまだ始まったばかりだけど、2020年代海外SF傑作選の顔ぶれが今から楽しみです。

ヨシフ・ブロツキー『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』(金関寿夫 訳)を読みました

ヴェネツィア 水の迷宮の夢

ヴェネツィア 水の迷宮の夢

結構前にブックオフで買ったものです。ちょくちょく見かけるので、ベストセラーになったんでしょうか。帯に「ノーベル賞受賞作家の小説、本邦初紹介!」と銘打ってあるので、そういう売り出し方だったようす。ノーベル賞作家というところよりも、ヴェネツィアに惹かれて買ったのですが。

小説なのか回想録なのか区別がつかないような本が好きなので、この本は非常に好みでした。というか、文章の雰囲気がめっちゃ好みでした。ブロツキー、初めて読みましたけど、詩人と聞いて納得。原文も美しいのだろうな。
ブロツキーは1940年にサンクト・ペテルブルグで生まれて、1972年にアメリカに亡命している。本書は英語で書かれ1992年に刊行されたものとのこと。母語ではない言葉で書く人。

ヴェネツィアには少し前に行ったことがあります。珍しく美術館に全然入らなかったのは、街を歩いたり教会に入ったりするだけで十分に満たされたから。ヴェネツィアという街そのものが美術館だとみんなが口をそろえて言うけれど、本当だった。

ブロツキーは毎年冬にヴェネツィアを訪れていたらしい。何度も過ごしたヴェネツィアの冬の美しさについてひたすらに書いているのだけど、強調されているポイントがある。網膜に写るもの、揺れる水に写るもの、古い鏡に写るもの、曲がりくねる路地と運河、何度も繰り返す冬。曖昧で、うつろいやすいもの。うつろいやすい水に浮ぶ島の上で、何世紀もの時を経てきた確固たる建築物。

もっとも――ただの先祖がえりではないにしても――波が砂のうえに残す模様と、ジュラ期の海獣魚竜を祖先にもつ人間という名の怪物〈モンスター〉が、その模様をじっと見詰めるということとの間には、たしかに何か進化論的な、自伝的なかかわりがあるように思われる。ヴェネツィアファサードの垂直方向にのびるレース模様は「時」、その別名は、「水」が、堅い地表〈テッラ・フェルマ〉に刻み付けた最高に美しい線である。それに直截的な依存関係ではないとしても、そのレースを陳列するものが方形になる性質があること、つまりこの町の建物の形と、形という概念を軽蔑している水の無秩序性〈アナキー〉との間には、明らかに何か対応があるように思える。それはまた空間が、他のどこよりも、ここではそれが時間にかなわないことをよく承知していて、時間が持っていない唯一のもので、精一杯対抗しようとしているみたいでもあるのだ――すなわち美によって。だから水はこの答を受け取るかのように、それをねじ曲げ、それを叩き付け、それをずたずたにする。だが結局は何も傷つけることなく、その大半をアドリア海に流しこむのだ。(P.47-48)

私も旅先を選ぶとき、大きな川のある街や海辺の街を選びがちな人です。川べりを散歩したり、海べりで波をぼーっと見ているのが好き。静止していないところがいいのだろうか。アナーキーという表現がいいなぁ。文章が実に美しくて好きだ。目を運ぶためだけの体になるとか、この町では人の数より天使の数の方が多いとか。

しかしブロツキーの、視覚に対する執着がすごい。

 ぼくたちの体の中で、それだけで独立しうる器官があるとすれば、一番それがやり易いのは「目」だと思う。それというのも、目の対象物というのがいつの場合も、「外」にあるからだ。目は鏡に向かう時以外、自分を見ることはない。眠りにつく時、最後に閉じるのが目だ。体が麻痺や突然死に襲われた時も、目は開いたままである。とくに必要のない時でも、またどんなことが起きても、目はいつも現実を記録し続ける。なぜだろう? 答えは、それは環境が敵意をもっているからだ。視覚というのは、いくらこちらがうまく合わせようと努力しても、常に敵意を抱いている「環境」と、うまく適応して行くための道具なのだ。きみが環境の中で生活する時間が長くなればなるほど、それに比例して、環境がきみに対して抱く敵意も増大する。といってぼくは、老年のことだけを言っているわけではない。要するに、目はいつも安全を求めているのだ。(P.110)

目は安全を求めている。だから慰めであり安全である美を好む。そしてヴェネツィアという街にいるかぎり、その視界に映るどんな風景も美に満ちている。

目という器官を通して認識する視界は、水晶体を通して網膜に写ったものだ。ヴェネツィアを象徴する運河の実体は大量の水で、水面は鏡のように街の風景を写す。ヴェネツィアの大運河(グランド・カナル)と、街の間を縫うように走る小さな運河の数々がヴェネツィアの目なのだとしたら、その街をそぞろ歩く人々は街に視られているのだろうか。ビッグ・ブラザー的なものではなくて、人の数より多い天使が見ているのかも。ヴェネツィアの街を歩く人が軒並み役者なのだとしたら、それは天上の存在への奉納なのかもしれない。

ブロツキーは本書の最後で総括のようなものを書いているけど、これがすべてではないと思う。運河と路地を張り巡らして、迷うことを誘ってくる街。夜が長い冬という季節にそんな街を幾度も訪れるというのはどういうことなのか。彼が冬ごとに、その網膜に写したものの断片を言葉にするというのはどういうことなのか。

すごく美しい文章でぐぐっと引き込まれましたが、読み切った感覚がどうにもない。何度でも読みたい本だった。断章で構成されているので、ぱっと開いたその場所から読み始めることもできる。しかしすべてはつながっている、運河のように。

散文詩のような本で、すごく好みでした。邦訳はあまり無いようですが、他のブロツキー作品も読んでみたい。

フリオ・リャマサーレス『無声映画のシーン(木村榮一 訳)を読みました

無声映画のシーン

無声映画のシーン

ブックオフで見かけて、好きそうな雰囲気だったので買いました。
何が好きそうだと思ったかというと、この作品のコンセプトです。母親が大事に持っていた30枚の写真を見ながら、12歳までを過ごした故郷の思い出を綴るというスタイル。そして、その写真が本編には一枚も掲げられていないこと。さらに、著者はこの作品を小説と呼んでいること。

 問うべきは死後に人生があるかどうかではなく、死ぬ前に人生があるかどうかである。
 いつかどこかで、この一文を目にした記憶があるのだが(あるいは、夢の中だったかもしれない。結局同じことだが)、母が死ぬまで大切にしまっていたこれらの写真を眺めているときに、ふたたびその言葉がよみがえってきた。この三十枚の写真には、ぼくの人生の最初の十二年間が集約されている。オリェーロスというのは、世界の片隅で誰からも忘れ去られて、山間に身を潜めている鉱山町で、そこでぼくは人生最初の十二年間を過ごした。父はあの町で学校の教師をしていた。ぼくはそこで人生についていろいろなことを学び、生と死は時に同じものであるということを知った。(P.12)

本書の導入、「信用証書が通用する間」の冒頭部分です。もうこの文章からしてたまらなく私好み。続いてオリェーロスという町が鉱山町となるまでの簡単な歴史が語られ、どうやらこの町はスペインにあるらしいことがわかる。そして映画館のポスターに見入る少年の描写から、本編が始まる。

本編といっても、写真ごとに細かく章立てされているので、一つの写真(章)について割かれるのは10ページにも満たない。でもフーガのように、その一つ前の写真から連想されたことが次の章に繋がって……ということがしばしばあるので、やっぱり全部まとめてはじめて、ひとつの小説なのだ。
でもよく考えたらそれは当然だった。この本で語られているのは著者リャマサーレスの思い出なのだから。バラバラのように見えても、最後にはすべてが今の彼に収束する。

小説なのかエッセイ(回想録)なのか、というのは考える必要のない問いだ。ということが、著者自身によって随所で語られる。

 一つひとつの思い出の中には――一枚一枚の写真と同じように――つねに陰になった部分があり、そこにぼくたち自身の人生の一部が隠されている。そういう人生の断片の中には、鮮明に覚えているか、今もそれを生きていると言ってもおかしくないほど重要だったり意味深かったりするものもある。そのような黒い断片は、映写機のせいで切断したり焼け焦げたフィルムのコマと同じで、あまりにも混乱していて、流れを追うことができない。そして何度も繰り返し見ているうちに、結局は話の糸筋が見えなくなってしまうのだ。(P.66-67)

自分の姿が撮られた写真を見てもその時のことが全然思い出せないこともあるし(それはそうだ)、写真と全然関係のない時のことをはっきりと思い出すこともある。映像として覚えていなくても、そのときに聞いた声の調子がやたら頭に残っていることもある。記憶は不完全だ。だから、写真を見て思い出を語る時、そこでは過分に想像による肉付けが行われる。パッチワークのように記憶を繋いで、匂いとか、声とか、そういう材料を駆使してエピソードを生む。それはいつのまにか小説になる。

だからこその『無声映画のシーン』というタイトルだ。30枚の写真の羅列、そこから思い出すことと、思い出せないこと。隙間を繋いで12年間を再構成する。
ジョイスが『ユリシーズ』で彼のダブリンを再構成したのとは全然違うやり方だ。リャマサーレスは、彼の文章の中の「オリェーロス」と、現実の「オリェーロス」の違いを誰よりもよくわかっている。記憶が美化されることも、人間の脳が世界をそのまま認識できないことも知っている。現実と記憶と、そして写真と、どれも本当だと受け入れている。いいなぁ、好きだな。

 あのような色、少なくともぼくたちが見ているような色は、おそらく現実には存在しないのだろう。ものの形は、時間の作用を受けて姿を変える以外、いつまでも変わることはない。それにひきかえ、色彩は光を受けたり、色を見る目が宿っている魂の状態に応じてさまざまに変化する。たえず動いている、つまり絶え間なく変化する映画は、それゆえに色彩をとどめることができず、たえず新しく作り出していく(だからこそ本当の色彩になるのだ)。一方、変わることのない光を眼差しになろうとする写真は、つねに人を欺く。写真は思い出と同じように、持続する時間の中に存在する過去の世界ではなく、その瞬間瞬間の、それゆえにさまざまな顔を見せることもありうる世界をよみがえらせる。(P.143)

最初は写真を使って記憶に分け入るところにゼーバルトを思い出していた。しかしゼーバルトは意図してフィクションに寄せていたけど、リャマサーレスは、多少名前を変えたりしている以外には、そこまで意図してフィクションに寄せていることはしていないようだ(たぶん)。でもやっぱりこの本を小説と呼んでいる。
実際、どこまで本当なのかを読者はジャッジすることができない。写真自体、そもそも存在しないかもしれない。

訳者の木村榮一があとがきで、この本を読むことで自身の子供時代のことをいろいろと思い出したと書いていた。私もそうだった。
特に、10代の頃、覚えていられることがあまりにも少ないことに愕然としたときに必死で記憶を補充しようとしたことを思い出した。小学校の理科室の机が何色だったかということさえ忘れていて、友達と議論したけど意見の一致が得られなかったこととか。理科室の机の色は今も全然覚えてないくせに、理科室の窓から見えた電線の様子は今もなぜか覚えていて、でもあれは図工室だったかもしれない。
どうでもいいような一瞬の光景がずっと記憶に残っているということもある。かと思えばそんなに気にしてないつもりだった一言がずっと消えないこともある。記憶はフラットじゃないみたいなことを、テッド・チャンも書いていたな。そうなんだよなぁ。人体の不思議だ。


リャマサーレスは1955年生まれなので、語られる時代は1960年代のスペイン。フランコについてはよく知らないけど、10歳かそこらの少年にも忍び寄る不穏な気配は感じられました。
しかし美しい文章を書く人だ。訳もいいんだろうな。何度でも読み返せる本でした。すごく良かった。

橋本輝幸 編『2000年代海外SF傑作選』を読みました

2020年がアンソロジー当たり年であったということはいろんなところで言われていますが、この本もその根拠の一つです。2000年~2009年に日本語以外の言語で発表された短編SFのアンソロジー。橋本輝幸さん編集というのがすごく信頼できる感じ! 2010年代版も刊行されていて、そちらもちゃんと買ってありますが、まずは年代順で2000年代から。

しかし2000年代、4桁目に騙されてついこの間のような気がしてしまうけど、実際には20年前ですからね。ハイハイしてた赤ちゃんがお酒飲める年になるレベルですよ。うわ……。私が何してた頃かは黙っておくけど、時代としてはブッシュ大統領時代にあたります。9.11が2001年ですね。

そんな時代の海外SF9篇が収められているのが本書です。内訳は以下の通り。

エレン・クレイジャズ『ミセス・ゼノンのパラドックス』(井上知 訳)
ハンヌ・ライアニエミ『懐かしき主人の声(ヒズ・マスターズ・ボイス)』(酒井昭伸 訳)
ダリル・グレゴリイ『第二人称現在形』(嶋田洋一 訳)
劉慈欣『地火』(大森望・齊藤正高 訳)
コリイ・ドクトロウ『シスアドが世界を支配するとき』(矢口悟 訳)
チャールズ・ストロス『コールダー・ウォー』(金子浩 訳)
N・K・ジェミシン『可能性はゼロじゃない』(市田泉 訳)
グレッグ・イーガン『暗黒整数』(山岸真 訳)
アレステア・レナルズジーマ・ブルー』(中原尚哉 訳)

海外SFなんですが、実際には劉慈欣以外はすべて英語で書かれたもの。やはりSF界は英語が強いのか。全体的にしっかりSFしてて読みごたえがありました。
それぞれの作品に面白かったポイントはあるんですが、全部について言及すると長くなるので、お気に入りのを少しだけ紹介します。


劉慈欣の『地火』は、炭鉱労働者の息子が大学卒業後に中央の役人となって故郷に戻り、新たな技術で自然を支配しようとして失敗する話。劉慈欣は『三体』以外にもこれまでいろんなところでちょこちょこ作品を読んできたので、彼の作風というのがだんだんわかってきたような気がしています。人間の驕りみたいなものがちらちら見えるあたりが、彼っぽい。そして劉慈欣が小松左京に影響を受けたというのも、なんとなく頷ける。雰囲気そんな感じですよね。

「ぼくのアイデアは、炭鉱を巨大なガス発生装置に変えることです。炭層にある石炭を地下で可燃性ガスに変え、その後、石油や天然ガスを採掘するのと同じ方法でとりだし、専用のパイプラインを通じて使用地点まで送ります。石炭の使用量がもっとも多い火力発電所でも利用できます。そうすれば、坑道は不要になり、石炭産業は、現在とまったく異なる、現代的な新しい産業に生まれ変わるのです!」(P.109)

最近どうも炭鉱の話を読むことが多いのですが、事故の多さと人体への影響に代表される労働環境の劣悪さは、炭鉱において避けて通れないテーマです。便利な暮らしの裏側で、高い給金で命を削って働く人がいたということ。
『地火』では、そうした炭鉱労働者の暮らしをなんとかしたいという希望を胸に勉学に励んだ主人公(劉欣という名前だ)が、新しい技術を引っ提げて意気揚々と故郷に帰って来るのですが、もうこの時点で読んでいて嫌な予感しかしない。そして当然、主人公は自然から大いなるしっぺ返しを食らう。
頭でっかちのエリートである主人公に助言するウイグル族の阿古力(アグリ)という男が2枚目のいいとこもってくキャラクタでした。この小説の舞台がアメリカだったら、彼はインディアン系の男になるんだろうな。小説タイトルの「地火」というのは中国語でデイフォ、日本語では地中火というものらしいのですが、阿古力清朝のころから燃えているという地火を見て育ったのだという。このスケール感が大陸ですわな……。
ラストが実に良かったし、劉慈欣ってやっぱり王道のエンタメ作家なんだなと思いました。わくわくさせてくる。すごく面白かったです。


もう一つ、IT企業に勤める者としては『シスアドが世界を支配するとき』は外せない。タイトル見た時から気になってましたが、ITエンジニアあるあるみたいなネタもいろいろ入っていてとっても面白かった。
ある一介のシステム管理者(略してシスアド)である主人公は、夜中に業務アラームで起こされ、妻と生れたばかりの息子を家に残してしぶしぶ会社に向かう。さっさと仕事を片付けるつもりだったけど、世界中の大都市が同時多発的にテロを受けて世界は壊滅状態。バイオテロによってウイルスも蔓延しており、オフィスの外にすら出られないようになってしまう。
あらゆる社会インフラがコンピュータ管理されている現代、実際に手を動かして世界の平和を守っているのはITエンジニアであると言っていいだろう。空港も、病院も、銀行も、証券取引も、あらゆる大規模なシステムがコンピュータで管理され、ある程度自動化されて動いている。動いているのが当たり前だと思っているんでしょ? 止まったら困るでしょ? それを止めないために我々ITエンジニアが毎日働いているんですよ! はい拍手!
作中ではネットワーク管理をしている主人公が、インターネットをなんとか維持して世界を繋げ続けようとする。インターネットはテロリストの通信手段でもあるはずだから閉じた方がいいという意見(おそらく正論)もあるけど、データセンターに取り残された彼らシスアドはそうしない。それが正しい選択なのかどうかというのは結果論だ。シスアドたちはあの時そうして「仕事」を続けていなければ、彼ら自身が生きていけなかっただろう。人間って、そうだよね。正しさだけでは生きられないんだよなぁ。ラストも良かった。
いやぁ、いいですね、コリイ・ドクトロウ。初めて読んだけど、ポップでコミカルで、でもちょっと熱くて。少年漫画っぽいノリがある。他の作品も読んでみようかな。


他にも『ジーマ・ブルー』のちょっとノスタルジックなところも素敵だったし、『第二人称現在形』のサスペンス風味も好きだった。『可能性はゼロじゃない』もいいなぁ。『コールダー・ウォー』みたいな本気の滅亡SFも好きなんだけど、あの戦争の色が濃かった2000年代に、最後に希望を持ってきてる作品が多いのがいいですね。なんというか、それでこそ小説って感じがする。現実からの圧力に屈服するんじゃなくて、跳ね返すためのフィクションであってほしいな。ディストピアも好きなんだけど、いずれ来たる滅亡を回避するためのディストピアであってほしい。結局我々は、肉体が存在する世界から逃げられはしないので。

2000年代SF、とっても面白かったです。次は2010年代を読む!

ジョン・ウィリアムズ『ブッチャーズ・クロッシング』(布施由紀子 訳)を読みました

ブッチャーズ・クロッシング

ブッチャーズ・クロッシング

人生初のジョン・ウィリアムズ作品、じっくりゆっくり読んでいましたが、ついに読了しました。ジョン・ウィリアムズといえば『ストーナー』なのは知っているのですが、なんとなくあれは最後にとっておきたいので未読です。『ブッチャーズ・クロッシング』は、以前に神保町まつりで入手しました。いやぁ、良かった……。
帯に雪山の話と書かれてたので、寒い時期に読もうと思って、ついにこの冬に読み始めた。小説の冒頭では主人公らしき人物が暑さで汗をかいていたのであれ? と思いましたが、読み進めるとちゃんと寒くなったので良かった。

タイトルのブッチャーズ・クロッシングというのは、アメリカ西部の架空の町の名前です。ひとりの若い男性が駅馬車に乗ってその町へ向かうところから小説は始まります。時代については明確に書かれていないけど、車など無く馬や牛やラバで移動する時代、ホテルに泊まってお湯を頼むとバケツで運ばれてくる時代、バッファローの皮が高く売り買いされた時代であることが読んでいるうちにわかってくる。この情報の出し方がスマートで良い。初のジョン・ウィリアムズでドキドキしていましたが、すごく描写が丁寧ですね。映像的で、情景が目に浮んでくる感じ。文字を追いながらニヤニヤしてしまった。

主人公の若い男性はアメリカ東部のいいとこの坊ちゃんで、西部の自然に飛び込めば世界の真髄が理解できるんじゃないかと、何か素晴らしい自分になれるんじゃないかと思っている。そして叔父の遺産を懐に、父の知合いを頼ってやって来た先が、バッファロー狩りの猟師が集う小さな町、ブッチャーズ・クロッシングです。
丁寧な描写だなと感じたひとつは、父の知合いから「ほかの猟師よりまし」と紹介されたミラーという猟師に会うために酒場を訪れる場面。

 通りには、ブッチャーズ・クロッシングの数少ない建物の出入り口や窓から黄色い光が投げかけられ、いくつもの長い影が伸びていた。ホテルの向かい側にある衣料品店では、明かりがひとつだけともっていて、大柄な男が何人か、その光の中を動きまわっている。影のせいで、その巨体がさらに大きく見えた。隣りのジャクソン酒場からは、もっとたくさんの光があふれていて、笑い声と重い靴音も聞こえてくる。その前の歩道から十フィートばかりの場所に設けられた粗削りの柵には、馬が数頭、繋がれていた。馬はじっとしているが、絶えず動く光がその眼球や腹のなめらかな毛を時折、輝かせていた。通りの先、ダッグアウトの向こうの貸厩舎の前では、柱にランタンがふたつ掛けてあった。貸厩舎の隣りの鍛冶屋からは、くすんだ赤い光が漏れ、鉄を鍛える槌の重い響きと、熱した金属を水に突っ込む瞬間の、シューッという怒ったような音が聞こえてくる。アンドリューズはジャクソン酒場をめざし、のんびりした足取りで通りを斜めに渡った。(P.24)

この感じ!! アンドリューズ(主人公の名前)が泊まっているホテルを出て、向いの酒場に入るために道を渡るその一場面のためにここまで言葉を尽くして情景を描写してくれるところが嬉しい。電気のない時代、真っ暗な町で目に入るのは光。その光の場所と、その光が照らすものと、アンドリューズが目にしたものが一つずつ描かれていく。カメラの動きですね。実に良い。おかげでアンドリューズが目にしているものを具体的に思い描くことができる。
酒場に入ったあとの描写も良いし、昼間にこの町に到着する前のアンドリューズを描写した場面も良い。丁寧で、誠実な文章でした。

そしてこの丁寧な文章はこの後もずっと続いていく。大自然というものをまるで知らないアンドリューズが、ミラーたちに連れられてバッファロー狩りに出かける間も。アンドリューズが目にする、身体全体で感じるものがしつこいくらいに丁寧に描かれる。特にバッファローの群れに行き当たってミラーが狩りを始める場面や、アンドリューズが初めてバッファローの皮を剥ぐ画面、子牛をさばこうとして失敗する場面なんかは実に読みごたえがありました。

バッファロー狩りに向かうメンバーはアンドリューズを入れて4人です。なにかにつけて「おれの言うとおりにしろ」と口にするリーダーの猟師ミラー。そんなミラーに縋るように常に一緒に組んで仕事をするの御者のチャーリー・ホージ。チャーリーは凍傷で片手の手首から先がなく、常に聖書を持ち歩いています。そして何かにつけてミラーと対立し冷やかな雰囲気を作り出すのが皮剥ぎ職人のシュナイダー。シュナイダーは「自分のことは自分でやる」がモットーなので、「おれの言うとおりにしろ」なミラーとは相性が悪いのだ。この癖の強いパーティがまた、この小説の味を深くしている。
最初はミラーが実に頼りになる男に見える(何かにつけて自信ありげだし)んだけど、道に迷って水が足りなくなる辺りでちょっと雲行きが怪しくなる。この男の「大丈夫」は大丈夫じゃない時もあるのでは? そしてバッファローの群れを昏い目つきでひたすら虐殺しにかかるところで気付くのだ。この男は、この時代に猟師としてしか生きられないタイプの奴だ。そしてがさつなノリでインテリのアンドリューズにちょっと引かれていたシュナイダーが、ぶつくさ文句ばっかり言う怠け者かと思っていたら、やるときはやる男なのでだんだん株が上がっていく。ちくりちくりとミラーを指していく言葉の正しさよ……。省エネタイプで欲をかかず、着実なところで足るを知る男だ。それはそれで、ありだろう。こういうタイプ、職場にいるよなぁ。

そして以下は、小説の結末に触れているので隠しておきます。彼らの狩りはどういう結末になるのかはぜひ読んでご確認ください。

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ポール・シャピロ『クリーンミート 培養肉が世界を変える』(鈴木素子 訳)を読みました

クリーンミート 培養肉が世界を変える

クリーンミート 培養肉が世界を変える

面白かったという話を聞いて図書館で借りて読んだのですが……めちゃくちゃ面白かったので後日改めて買います!
「クリーンミート」=培養肉という、名前は聞いたことがあるけどよく知らないモノだったのが、なんとなくイメージがつくようになった。うーん、これは凄い、凄いぞ。

そもそも培養肉というのは何なのかというと、これが文字通り「培養された肉」なのです。動物の身体の外で、細胞レベルから培養して育てた肉。
言わずもがなのことではあるけれど、私たちが普段食べている牛肉や鶏肉というのは、元となる牛や鶏を屠殺して解体し、食べたい部位の肉を抽出したものです。しかし培養肉は、牛肉を手に入れるのに牛を必要としない。鶏肉を手に入れるのに、元となる鶏という生き物の存在を必要としない。腿肉が食べたいときには、腿の部分の肉だけを培養して創り出すのです。

 食肉のうち最も効率良く生産されている鶏肉でさえ、植物性タンパク質と比べるとやはり分が悪い。鶏の飼育には大量の穀物が必要で、1キロカロリーの肉を得るのに9キロカロリーの餌が必要だ。それですら、食肉の中では最高に効率が良いのだ。餌から得られるカロリーの多くは、くちばしの成長、呼吸、消化など、私たちにはあまり関心のない生物学的なプロセスに使われる。欲しいのは肉だけなのに、肉を得るには食物を山ほど無駄にしなければならない。(P.32)

鶏肉を手に入れるのに鶏を育てるところから始めると、時間もお金もかかる。それなら肉だけ培養すればいいじゃないか、という話です。凄い発想……写真は無いのですが、想像するだけでSF感が凄い。でも現実だっていうのが余計に凄い!
正直どちらが効率がいいのかという話は、なんとも言えないような気もする。上の引用で不要と見做されている「くちばし」が資源として流用されるルートがあるなら(あるいはこれからそういう需要が生まれるなら)、鶏ごと育てたほうが儲かるかもしれない。捨てるところがないというので有名な豚などは、肉だけ培養するほうが高くつくかもしれない。でも、本当に肉「だけ」欲しいのだとしたら、それは培養したほうが安上がりで、ごみも少ないのかもしれない。
全部「かもしれない」だ。でもその方法があるなら、やらない理由がどこにある?

動物愛護運動に長い間携わってきた著者は、培養肉の利点として現代の工業的な畜産業の犠牲者となっている動物たちをその苦役から救えるということをメリットのひとつとして強調しています。培養肉は意識を持った動物の殺生を伴わない肉の入手方法だと。
私は雑食性の動物である人間が他の生物の命を奪って栄養とすることに罪悪感を覚えたことがないし、菜食主義になろうとしたこともない。しかしこの本を読んで、現代の畜産業の在り方にNOと言うことを目的に肉を食べないという選択をしている人がいることを知りました。そういう理由で肉を食べない人がいるんですね。その事実が私にとっては非常に新鮮でした。
殺生が嫌だという理由で肉食を忌避する人の気持ちは、多分私は一生わからない。動物として、他者のいのちを食べるという罪を背負わずに生きていくのってどうよと思う(というか植物なら良いくせに動物ならNGというのがそもそも私の感覚とは相容れない)し、そんな小手先の技で罪を回避したような顔をされるのも正直腹立たしい。けれど工業的畜産業における動物虐待の現実をなんとかすべきだという意見には同意したい。とはいえ世界の食肉人口は増え続けているし、のびのびと育った動物の肉は高くつく。それなら、培養肉ってありじゃん!? というのは、わかる。ものすごくわかる。
とはいえ培養肉に本能的な嫌悪感を感じるのも、感覚としては想像がつく。殺生を伴わない動物性たんぱく質の摂取というのは多分ものすごく不自然なものだと思うし。身体に入るものだものなぁ。よくわからないものへの警戒心は、生物として順当な感覚だ。

ちなみに本書で培養肉のメリットとしてもうひとつ強く推されているのが安全性です。曰く、培養肉は非常に清潔で細菌(特に糞尿など)による汚染がないため、傷むのも遅い(つまり賞味期限が長くなる)し、食中毒の危険も低くなると。なるほどー。これはビジネス的に有利だ。
無菌であることが常に良いとは限らないと思うけど、清潔であることは基本的に良いことだろう。多分培養肉は、生肉として直接スーパーで売られる前に、加工肉の原材料としてBtoBで取引されるようになるのが先だろう。本書には肉以外にも牛乳や卵白などの培養についても触れられていました。2018年にアメリカで出版された本なので、今はもっと進んでいるんだろうな。培養といえば日本では医療活用が強そうだけど(ips細胞も細胞を培養する機能だ)、食用となると世間がどう対応するのか興味はある。

いやしかし、やっぱり一番の理由は「何それ凄い!」なんだなぁ。3Dプリンターで食事をする未来に近づいているじゃないか。技術的には可能、というやつだ。テンション上がる。
フェイクミートかクリーンミートか、という二択ではなく、両方いけばいいじゃん! と、気軽に思ってしまう。選択肢は多いほうがいいと思う。生きた牛から得た牛肉も、植物性たんぱく質から再現した肉っぽいもの(フェイクミート)も、培養の牛肉も、全部あればいいじゃん。
口にするものについては宗教的な制限とか、個人の感覚的な嫌悪感とかもあると思うので、多分万人に受け入れられるものではないと思う。ただ、人間がこれからも増えていくことを想定したときに、そういう手段を引き出しの中に持っておくって、大事なことだと思うのだ。動物が生きられないような環境でも「肉を食べる」という欲求を満たす手段になれるってことですもんね。


ところで2020年にオープン予定だった3Dプリンター寿司レストラン「SUSHI SINGULARITY」どうなったんだろうと思い出してサイトに行ってみたら、202X年開店予定になってました。無事にオープンされるといいなぁ。

www.open-meals.com