好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

アリス・テイラー『窓辺のキャンドル アイルランドのクリスマス節』(高橋歩 訳)を読みました

アイルランドの人気作家であるアリス・テイラー、初めて読みました。2019年の神保町まつりで手に入れたのですが、去年は読みそびれていて、今年ようやく読んだのです。
とはいえ実は、次にどれを読もうか、そろそろ寒くなって来たから冬の本を、と思って本棚を漁っていたときに、この本がちょうど目に入ったのでした。そうだ12月だしぴったりだ、と思って目次を開いたら、全部で十八章に分かれています。
奇しくも本を手に取ったのが12月7日。そこで閃いちゃったのだ。これ、今日から一日一章ずつ読み進めれば、ちょうどクリスマスに読み終わるのでは? アドベントカレンダーならぬアドベントブックとして楽しめるのでは??

というわけでアドベントな18日間が始まったのでした。途中1日だけ読めない日がありましたが、毎日寝る前に一章ずつ読むという贅沢な日々を過ごし、12月25日に読み終わりました。今年唯一といっていいくらいのクリスマスっぽいイベントでした。とっても楽しかった。

著者のアリス・テイラーはアイルランド南西部の農場で育った女性で、結婚後はゲストハウスと営んでいたとのこと。この本では子供のころのクリスマスの思い出、そして年を経た現在のクリスマスの過ごし方が書かれています。クリスマスの飾りつけなど、お年を召した現在でも毎日積極的に楽しんでいて、いいなぁ、こういう風に年を取りたいものだ。
アイルランドで刊行されたのが2017年、日本語版刊行が2018年なので、かなりスピーディーに訳してくれています。ありがとう未知谷……版元が未知谷ってだけで内容に安心感がある。それぞれの章に数ページずつ、ページをまるまる使って挟まれている写真も素敵だ。写真がカラーではないのが、文章の落ち着いた雰囲気に合っていて良いですね。

どの章も視点が優しく丁寧でほんわかした気持ちになるのですが、やっぱり食いしん坊なのでご馳走作りの章がとても楽しかった。何か焼きたくなって、おもわず小麦粉を買ってきてしまったくらい。
著者は10代の頃、修道院に1年間、料理の修行に通っていました。そこでの料理の基本的な技術と、シーズンメニューとしてクリスマスケーキ、ミンスミート、クリスマスプディングの作り方を習います。文章の合間に挟まれる写真がとても美味しそうでお腹が空いてくる……。親切にも分量とレシピも書かれているのですが、本当に大事なのは以下の部分でしょう。

 台所仕事がちゃんとできるというのは、失敗作をダイニングルームのテーブルの上でおいしそうなご馳走に見せることができるかどうかということなのです、というのがベニーの教えでした。ベニーのために申し上げると、彼女はこの教えを実践していて、一年中、私たちの黒焦げ料理を救済し、修復の方法を教えてくれました。すると、ダイニングルームに運ばれてきたときには、ご馳走とはいえなくても、食べることのできるくらいに回復しているのでした。(P.50「第四章 ケーキとプディングとパイと」)

その通り!! まぁこの後、しかしケーキだけは完璧でなければ許されなかった、と続くのですが。
上記の第四章は事前に準備しておく料理の章ですが、第十六章「クリスマスイヴ」には当日の食卓について書かれていて、こっちも美味しそうでした。今でこそ七面鳥の丸焼きを食べるけど、昔の農場ではガチョウの丸焼きが定番のご馳走だったとか。詰め物はやはりジャガイモだったらしい。現代のアリス・テイラーは「アガ社製ガスレンジ」が大活躍していますが、子供のころの農場では調理用煖炉と言うのがあったようです。「自在かぎをスライドして鍋を火から下ろし(P.199)」という描写が度々出てきて、そこからイメージされる風景にわくわくする。寒そうだ、けど、暖かそう。

クリスマス飾り、ツリーの調達、キャンドルの点火、ご馳走の用意……読んでいると、キリスト教圏のクリスマスって、やっぱり日本人にとっての正月と似たような精神状態なんだろうなぁという気がしてくる。この本を読んでいて出てくるのはキリスト誕生の馬小屋飾りや、プティングやガチョウの丸焼きなんだけど、それを迎える心持ちや気分の高揚感はやっぱり正月だ。お飾りを用意して餅を仕込んでおせちを作るのと同じだ。
特にアイルランド人は生きるために国を出る人が多くいたけど、そんな彼らが帰ってくるのがクリスマスだというのがぐっときました。盆と正月には帰ってくるのと似た感じか。そういう皆が集まる行事こそ、人の不在を痛烈に感じるのだろう。でも不在の人を思い出すものがその空間にあると、その不在ともちょっと寄り添えるような気持になるものだ。

 リースは、大好きな姉エレンからもらったものです。姉は、数年前のクリスマス直前にがんで亡くなるまで、一年の大部分をカナダで過ごし、クリスマスになると、度々アイルランドに戻ってきて、わが家で過ごしていました。だからこのリースを飾るのは、待降節を祝うと同時に、姉を思い出すためでもあります。(P.186「第十五章 神聖な懸け橋」)


今年のクリスマス、特にイブと当日は仕事が佳境だったので、ケーキもチキンも食べなかったし、サンタさんも来ませんでした。けどこの本のおかげで、寝る前のひとときにクリスマス気分を味わうことができました。来年は家でなにか飾りつけでもしようかな。
そしてアリス・テイラーの他のエッセイも読もうと思います。楽しんで生きるって大事なことだ。

酉島伝法『るん(笑)』を読みました

るん(笑)

るん(笑)

酉島伝法の新刊とあらば買わないわけがない。しかし言霊が強くてしんどかったので、休み休み読みました。
もともと酉島伝法の本はすらすら読めるものではないのだけれど、今回は特に、じりじりとにじり寄るような感じで遠巻きに様子を見ながら読んだ感じ。しかし読まないという選択肢はないし、読んでよかった!

だいたいこのカバーからして凶悪です。何なんだ、この目がチカチカする水玉模様は! 私は普段本を読むときはカバー外す習慣があるんですが、今回はカバー外したら外したで壁紙っぽい花柄模様で……なんだかとっても落ち着かないので、書店で掛けてもらったカバーを着けたまま読みました。表紙をめくった見返し部分のチェックも、その左のタイトルページの水玉も、目次の次ページの自己主張の強いタイトル部分も、すごい圧を感じる……。
でも、このデザインがまたこの本に合っているというのがなんか悔しい。普通の小説だったらこの装丁に内容が負けてしまいそうだけど、今回は内容が濃いから充分張り合える。むしろ内容が濃いがために、装丁もそれにあわせて濃くせざるを得なかったのかもしれない。この何とも言えない(笑)の圧も怖い……。装丁と文字との両方で迫ってきて、逃げ場がない。


というわけで内容ですが、連作小説集となっていて、中編くらいの長さの小説がが3つ入っています。
いずれも、俗信と迷信が生活の基礎をなし、科学的であることが極端に軽視される世界の話。すべての話に共通して登場するのは「川北真弓」という、この世界では一般的な価値観をもつ女性です。冒頭の『三十八度通り』では語り手の男性の妻として、『千羽びらき』では語り手の老女の娘として、『猫の舌と宇宙耳』では語り手の少年の叔母として。

この作品での「俗信と迷信の世界」というのがどんなものなのかは、多分読んだ方が早いでしょう。

「さっき馬奈木さんとすれ違ったんだけどさ、どこまでも無愛想で、変わりもんだわ。絶対B型だね」と谷口さんが言い、「絶対そう。きっと母乳で育てられなかったんだよ。やっぱり大学院とか出てるとね、あれよね。肝心なところが」と岡林さんがなぜか興奮して声を上擦らせる。
「そういや、あんた、旦那さんのご容態は?」藤巻さんが谷口さんに訊ねる。
「かわりないですよ。あれだけ牛乳は飲むなって言ってるのに、まだやめない。家畜の仔が飲むためのものを、人間が飲むだなんてぞっとするでしょ」
(中略)
「このあいだなんて、あたしに隠れて肉を焼いて食べてたのよ。しかも未除霊のを」
「信じられない、安楽のでもないんでしょう? 動物の恐怖が残存したままじゃない」
「ほんとばか。においでわかるっていうの」(P.24、『三十八度通り』)

こんな感じです。

こんな世界嫌だー! と思いながら最初は読んでいたわけですが、冷静になるにつれて気づかないわけにはいかない事実がある。そうはいっても我々の世界は多かれ少なかれこういう認識で回ってるとこあるよね、ということです。
例えば「手書きの文字のほうが温かみがある」とか「手作りのものには気持がこもってる」とか言うのだって、突き詰めれば「これ、職人が断食を重ねて手練りしたものらしくって、フラーレン形のヒマラヤ水晶の粉も入っているからよく効くのよー。」(P.38、『三十八度通り』)というのとどう違うのか。どこに線を引くのか。そしてどこまでがセーフで、どこからがアウトなのか。

多分、人は科学だけでは生きられないのだ。いや科学だけで生きられる人もいるんだけど、大多数の人はそれだけでは無理だろう。生存はできても、暮らしはできない。「やっぱり直接会って話したいよね」「年賀状送るなら一筆コメント欲しいよね」とか、人との繋がりというやつをどうしても求めてしまうものだと思う。それは一種の弱さでもあるけど、それ以上にホモ・サピエンスたりうる要素の一つでもあるから、多分種が滅びるまで捨てられないだろう。ITがどんなに普及しても対面で会うのを人は止めようとしないし、工業品の品質が向上して一ミリの狂いもない既製品を産み出すようになっても、歪みやズレのある不安定な一点モノに価値を置いたりする。
斯くいう私だって絆とか愛とか言われると反射的に警戒して身構えるけれど、そういうものが一切ない世界を望んでいるわけでもない。ではどこからが過剰で、どこまでがセーフなんだ? 絆とか愛とかいう言葉であふれた世界を心地良いと思う人もいる。そういう人と私が同じ世界で共存するには、閾値をどこに設定すればいいんだ?
おそらく私が快適と感じるような絆パラメータで設定された世界は、他の誰かに我慢を強いるものになるだろう。同じように、他の人にとってちょうど良いと感じられる絆パラメータは、私には窮屈かもしれない。誰にとっても幸せな世界なんてないのだから、お互いに妥協して、なるべく棲み分けたりして、不快を減らす工夫をして共存していくことになる。それ以外の方法としては相手を完全に排除するというのが考えられるけど、21世紀以降はそういう時代じゃないって信じているから。(この「信じている」というのも十分曖昧な概念である)

しかしなぁー、とはいえこの世界には住みたくないな。酉島伝法、よくここまで過剰な世界を考えたな……。

ちなみに読んでて一番しんどかったのが『千羽びらき』でした。「黙っていてほしかった」(P.155) のところが、もう悲しくて。やっぱり善意ってのは諸刃の剣なのかな。あぁ、人間ってのはまったく!! それでも「良かれと思って事故」みたいなものはきっと、どんな世界でも形を変えて存在するんだろう。
あと『千羽びらき』の、世界が変容していくのが字面で感じられるホラーっぽさがすごく良かった。


酉島伝法、今回も破壊力抜群でした。読むのにかなり体力・精神力が必要だったので、体調を整えて少しずつ読むことをお勧めします。

グローバルエリート『WORK マンモス大合成』を読みました

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2020年は地球レベルでいろいろありましたが、私にとっては「初めて文フリに行った年」でもありました。文フリ=文学フリマ。ずっと気になってはいたのですが行ったことは無く、しかし今回売り子のお手伝いをする機会を得て遂にデビューしました。いろんなブースがあってとっても面白かった。

そこで買った本の一つが『マンモス大合成』です。SFサークル・グローバルエリートのアンソロジーで、下記5作品が掲載されています。

元壱路『マンモス大合成』
維嶋津『美しい未来のために』
架旗透『ネコニンゲンのドグマ』
零F『自分によく似た他人』
髙座創『白の回路』

正直同人作品って普段全然読まないのですが(刊行される本に追われて手が回らない)、面白いですね。
本書のようにフリマ会場で冊子という形式で頒布する場合にはデザインにもこだわりたいのが人情。グローバルエリートさんは文庫サイズで持ち運びに便利でした。そしてサークルのロゴが格好いい……。作品ごとの表紙もおしゃれです。
ちなみに全作品通じてバイオSF系だったのは、刊行にあたってゆるやかなテーマを決めているのだろうか。偶然なのかな。

凄いなぁと思ったのは、本気でSFしてるところです。しっかりとサイエンスでフィクションしてるところが、本気のSFサークルなんだなと感じられてとても良かった。もちろんSFなのでフィクション部分はあるんだけど、サイエンス的な部分での説明をしっかりしようとしているところが信頼できる書き手という印象です。
小説って、読むのは正直誰でもできると思う。しかし書くのは、文章力とかは当然求められるスキルではあるけど、それとは別に題材に対する一定の知識も必要になるはずだ。論文もそうだし、仕事もそうだけど、文章を書くときって、文字になるのは書き手の頭の中のほんの一部でしかなくて、その後ろにその一行を書くために調べたことが山脈の如く控えているはずなのだ。特にSFを書こうと思ったら、その小説に出すテクノロジーについてある程度説明できるレベルの知識が必要になるだろう。それなりに詳しくないと途中で苦しくなってきて、多分すごく薄っぺらな文章になってしまう。
でもこのアンソロジーに載っている作品は、どれもしっかりSFしていてびっくりしたというのが正直なところです。本気度が凄い。皆さんお仕事何されているんだろう……

面白かったのでそれぞれの短い感想を書きますが、ネタバレを含むので一応隠します。
kindle電子書籍化予定とのことなので、未読の方はお読みになってから続きをご覧いただくことをお勧めします。

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『銀河英雄伝説列伝1 晴れあがる銀河』を読みました

銀河英雄伝説(以下、銀英伝)の新刊が出ると知ったのはTwitter上でした。それは公式トリビュートであり、小川一水藤井太洋が銀英伝ワールドを書くとの告知でした。それを知って狂喜し、発売日を首を長くして待っていましたのですが、ついに! 2020年10月の創元SF文庫の新刊として本書が刊行されたのでした。万歳!
なお本ブログ記事では銀英伝的世界観や登場人物の紹介は割愛しています。シリーズ未読の方はなんのこっちゃわからないかもしれませんが、あらかじめご了承ください。

一応言っておくと、私は銀英伝のリアルタイム世代ではありません。ただ学生時代の図書室にノベルス版が全巻揃っていて(良い図書室であった)、創竜伝も銀英伝薬師寺涼子シリーズもその時に一通り読んだのでした。
田中作品の中でも特に銀英伝が好みで、夢中で読んでいたのが懐かしい。のちに星野之宣のカバーイラストで創元SF文庫から新装版が出た時には、その表紙の格好良さに惚れ惚れしてせっせと買い集めました。アニメは観たことがないのですが、フジリューのコミック版はちょっと手を出してます。
そんな銀英伝が! 今この時代の作家の手でトリビュート作品として刊行されるとなったら、買わないわけがないのです。読まずにはいられないのです。

そんなわけでようやく本書の話にたどり着く。しかしタイトルに「1」とついている喜び! 続くんですよね。めっちゃ楽しみ。
記念すべき列伝第1巻の参加作家・作品・大まかな内容は以下の通り(掲載順)。

小川一水竜神滝の皇帝陛下』:ラインハルトの新婚旅行話
石持浅海士官学校生の恋』:ヤン・ウェンリー士官学校時代の話
小前亮『ティエリー・ボナール最後の戦い』:同盟軍視点の艦隊戦
太田忠司『レナーテは語る』:オーベルシュタインを上司にもつ女性兵士の話
高島雄哉『星たちの舞台』:ヤン・ウェンリー士官学校時代の話
藤井太洋『晴れあがる銀河』:帝国歴2年の時代の話

うーん、改めて眺めても豪華な執筆陣だ。初めて読んだ作家さんもいるし、ずっと好きな作家さんもいる。内容は帝国側・同盟側や登場人物などでうまくバランスを取れるよう調整した(早いもの順かも)らしいです。

私はもともと小川一水ファンなので、ラインナップの中でも特に、小川一水が銀英伝でどんな話を書くのかずっと楽しみにしていました。読んでみるとどう見ても小川一水の小説なのにちゃんと銀英伝してて最高だった。『列伝』開幕1作目にこれを持ってくるところがニクイな。すっかりノックダウンされました。艦隊戦をしないラインハルトはちょっとかわいい。そう、こういうのを待ってたの……!!
なんていうか、公式カップリングに忠実な質の高い同人作品みたいな感じですごく楽しかったです。小説としての完成度が高いのは「プロ作家だから」といわれればそりゃそうなんだけど、その保証された筆力で銀英伝ワールドを書いてくれるっていうのがね、ファンにはたまらないんですよ! わかりますか、この喜びが!! いかん、もうただの嬉しい悲鳴にしかならない。ちょっと落ち着こう。

学生時代に銀英伝を読んでいた時には、私は断然ヤン・ウェンリー派でした。というか今も好きですけど。とある集まりで「小説・映画・漫画・アニメなどで一番好みの男性・女性は誰か」という話で盛り上がったときに「男性ならヤン・ウェンリー」と断言したくらいにはヤン・ウェンリーが好きです。(ちなみに女性なら『マルドゥック・スクランブル』のベル・ウィングです。超格好いい。)
しかし社会人になって銀英伝を読むと、ラインハルトの良さが分ってくるなぁ。ラインハルト、いつの間にか彼より私の方が歳が上になってしまったけれど、ビジネス視点で見ると普通にいい上司なんですよね。そりゃあ優秀な臣下が集まるはずだ。
例えばヤン・ウェンリーが上司の場合、部下は「自分がしっかりしなきゃ……!」と思ってよく育つ。一方、ラインハルトが上司だと「正当に評価してくれるからしっかりやろう……!」という方向でよく育つのだろうと思われる。目に見えるようだ。私はラインハルト的上司にはなれなさそうだけども(ではヤン・ウェンリー的上司になれるのかというとそれも怪しいけれど)。ビジネス視点で見るようになった銀英伝がすごく面白い。社会が見えてくると「いるわこういう奴……」みたいなことがしばしばあるっていうのがわかるからだな。それも銀英伝の魅力なんだろう。

そういう視点でも楽しめるのが『ティエリー・ボナール最後の戦い』でした。ベテラン中将の元に配属されたタイプの違う二人の少将。どちらも優秀なんだけど、仕事のやり方が違うのが面白い。そして自分が銀英伝を読むときの視点が変わったのも感じられて味わい深い。学生時代は無能な上官に当てられる兵士の悲哀をわかってなかったよなぁ。世の中にはいかに無駄な仕事が溢れているかなんて、知らなかったものなぁ。
『レナーテは語る』はオーベルシュタインの部下の話だけれど、これはこれでまた苦労しそうな上司だと思う。オーベルシュタインって仕事ができるのはそりゃその通りなんだろうけど、部下が苦労するタイプだろう。ラインハルト的な「よく見てくれてる」系上司になる素質はあるのに、圧倒的にディスコミュニケーションすぎて評価が伝わってなさそう。でもオーベルシュタイン人気あるのはわかる(キャラクタとしては)。
今後の『列伝』ではきっとその他の帝国軍側近たちも出てくるって期待しています。

そして若干ギスギスしたビジネス的な兵士の話とは別に、ヤン・ウェンリーの学生時代を描いた作品も2つあります。ほのぼのと恋をするだけでは終わらないけれど、軍属とは違う空気感が新鮮だ。モラトリアムしてる。キャゼルヌが出ていて嬉しかったです。彼も同じ職場に居たら心強いタイプだ(ビジネス視点)。

他の作品とちょっと視点が違うのが巻末でトリを飾る『晴れあがる銀河』なのですが、これはほんと藤井太洋さすがでした。気持ちいいくらいにSFだし、しっかりと銀英伝だった。帝国歴2年ってまだ同盟側というのが存在しない時代なのですが、不穏な未来の足音が現代にも通じるあたりやっぱり藤井太洋の小説だ。トリビュート作品って、世界観は共通していても、作家の個性も一緒に浮かび上がってくるところが面白いですね。
しかし藤井太洋はやっぱり巧いなぁ、いいなぁ。

『列伝』2も楽しみにしています。すごく面白かったです。ありがとう東京創元社!!

「2022年の『ユリシーズ』」の読書会(第九回:第九挿話)に参加しました

www.stephens-workshop.com

毎度お馴染みとなってきましたが、「2022年の『ユリシーズ』」の読書会、第九回に参加しました。2020年12月6日午後にzoomにて開催されたものです。

2019年に始まったこの読書会は『ユリシーズ』刊行100周年である2022年まで、3年かけて『ユリシーズ』を読んでいこうという壮大な企画で、ジェイムズ・ジョイスの研究者である南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんの3名が主催されているものです(平繁さんは今回お休みでした)。
2022年6月16日もだんだん近づいてきましたね。『ユリシーズ』は全十八挿話なので、これで半分、ということになります。おお、感慨深い……のだけれど、ページ数としては全然半分じゃないことに私は気付かされてしまったのでした。まだ三分の一も行ってなさそう。でもそこは見なかったことにする。誰が何と言おうと、これで半分です!!

第九挿話「スキュレーとカリュプデイス」は再びスティーヴン回でした。第八挿話の終わりにブルーム氏が向かった国立図書館で、シェイクスピア論を披露していた。そして久々のマリガン登場、さらにブルーム氏とスティーヴンがついにすれ違う! やっと! しかしまだ言葉は交わさない。

第八挿話の読書会で予習不十分で臨んだ際に非常に後悔したので、真面目なわたくしは今回、早めの予習を心掛けました。個人的な趣味でガブラー版ユリシーズと柳瀬訳ユリシーズをwordでタイプする(通称「写経」)というのをやっているのですが、第九挿話はこれまでのどの挿話よりも長くて大変でした。しかも楽譜まで出てきたときにはちょっと固まった。
しかし結果的に早めに仕上がって、余裕をもって読書会に臨めたのはとてもよかった。これからも早め早めにしよう。写経するとしないとでは、頭への入り具合がやっぱり違う。

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第九挿話の写経。頑張ったので自慢する。

読書会前にひとりで読んでいた時には、図書館で会話している人のカウント方法の謎(三人いるはずなのに「二人残った」とは?)、アイルランド文学者の集まりがあるのに招待されないスティーヴン可哀そうとか(医学生が呼ばれているのに!)、ベスト氏の「don't you know」が鬱陶しいなとか、マリガン要素が久しぶりに入ると楽しくていいなとか、そういうところが気になっていました。

そう、真面目なシェイクスピア談義の部屋にマリガンが登場したときはにやりとしました。登場シーンからして華々しくっていいなぁ、マリガン。第一挿話でやかましい奴だと思っていたけど、今はその傲岸不遜な態度が嬉しくなる。すべて笑い飛ばしてくれ。

――正体不明の脊髄動物のことをしゃべっていたようだが、違うか?(P.337)

あとマリガンが電報片手に、シップで待ちぼうけを食わされたことでスティーヴンに文句を言う場面がとても好きです。柳瀬訳のアイルランド訛が良い。

――言っとくけどよ、お兄ちゃん、めためた待ちこがれたんだぜおれらは、ヘインズとおいらはよ、そこへこいつが届きやがった。(P.340)

マリガンいいじゃん、って思うようになってきたのですが、スティーヴンの恨み節が凄いんだよな。なんなんだろうこの二人は……謎のクランリーに対するスティーヴンの確執も気になるけれど。マリガンとスティーヴンは、お互いに相手をちょっと見下しながら友達してるのだろうか。

なおスティーヴンが披露するシェイクスピア論には「小説を読むときに著者のバックボーンに触れるべきか問題」が出てくる。ラッセル大先生は作品がすべてを語るっていうけど、私はやっぱりスティーヴン派だな。人間が書くものだから、どんな脳みそが生み出したのかということは、読解のヒントとして研究対象になるだろう。

……などということに興味を募らせつつ読書会に臨み、主催者の解説と参加者の方々の指摘にノックアウトされました。毎回思うけど、私は一体何を読んでいたのか……そこスルーしちゃ楽しさ半減だったんじゃん、というのがいろいろありました。他の挿話との絡みも面白い。
主催者発表については資料が読書会ホームページにアップされると思うので詳しくはそちらをご覧下さい。テーマは大きく二つ、「真理は中庸にあり」と「アレンジャーの存在」です。

「真理は中庸にあり」というのは、小林さんの発表より。そういえば第九章は真ん中の章なわけですが、ここで『ユリシーズ』作品の本質が示されていると。「幽霊(ghost)」という言葉の奥深さと、「議論は既に始まっている」という指摘にぞくっとしました。加えて楽園と原罪、己自身に出会うというキーワードも大事なところですよね。うーん、多層構造の極みだ。ハムレット論はユリシーズ論でもあって、デッダラス家ともブルーム家とも、ジェイムズ・ジョイスさえとも繋がるんだ。うわぁ、最高。

さらに南谷さんの発表で出てきた「アレンジャー」というのは、第九挿話で登場人物の名前をいじって回っている謎の存在のことです。ジョイス業界では有名らしい。エグリントンとかめちゃくちゃいじられているけど、これは「アレンジャー」の仕業なのだとか。なんだそれ!! 『ユリシーズ』はメタ小説だったのか!
でも正直なところ、一読者である私としては、まだその存在に懐疑的である。えー、だってあれ、スティーヴンが心の中でやってるんじゃないの? 英語の論文引っ張り出されても、私はまだ信じないぞ。(しかし第十挿話を読み始めると、早くもアレンジャーらしき存在がやたら出張ってきていて戸惑っている。いやでも私はまだ信じないぞ!)

なお読書会のホームページにはこれまでの読書会で使用された資料なども公開されています。そして次回の第十挿話は2021年2月21日開催、1月23日夜から予約開始とのことです。
途中の挿話から初めて参加しますという方でも問題ない形式になってますので、興味のある方は一度参加してみることをお勧めします。発言強制されたりしないので大丈夫です。そして発言したい人は発言する機会もありますので、やっぱり大丈夫です!
次回も楽しみだ。

松本清張『昭和史発掘 10』を読みました

父親のお下がりの文春文庫の古い版で読んでいる『昭和史発掘』10巻を読み終わりました。ISBNがついていなくて、新版は収録内容が違うので、リンクは貼っていません。

さて10巻なのですが、とうとう二・二六事件決行の朝にたどり着きました。
内容は以下の通り。

二・二六事件 四
・襲撃
・「諸子ノ行動」

第九巻では決行の前夜まで話が進んでいました。第十巻では、何も知らされていない兵士たちが非常呼集で起こされるところから始まります。襲撃の一斉開始時刻が午前五時と決められており、部隊ごとに担当が割り振られていたので、目的地との距離に応じて起される時間も営門をでる時間もちょっとずつ違う。
襲撃の標的となった個人は岡田首相、鈴木侍従長、斎藤内府、渡辺教育総監、高橋蔵相。この中で岡田首相と鈴木侍従長だけは生き延びました。

第九巻で書かれていた通り、決行の日時を知っていたのは隊を率いる一部士官のみでした。そのため何も知らない兵士たちは当日は訓練のつもりで営門をでて、よくわからないまま襲撃メンバになっていたというのが実情だったようです。以下は、歩一第十一中隊の元軍曹の話。

「その晩、突然起された。だれに起こされたかおぼえていない。午前二時半ごろだったかもしれない。将校室に行くと、香田大尉、丹生中尉のほかに知らない将校が二人いた。未知の将校二人については香田大尉か丹生中尉かが『これが村中大尉』『こちらは磯部一等主計』というぐあいに紹介した。村中さんと磯部さんとはこもごも『どうぞよろしく』といった。
 それから何か刷り物を読み聞かされたが、それが蹶起趣意書だとはあとで分った。その場ではどういう内容だかよく分らないうちに読むのが終り、こっちはハトが豆鉄砲をくったような感じだった。丹生中尉が読んだように思う。とにかく、わけの分らないうちに事態が進んでいった。われわれ下士官は拳銃と実包とを渡された。(P.17)

軍曹レベルでこれである。いわんや一兵卒をや。ちなみに村中も磯部も、しれっと肩書付きで紹介されているけど、退役しているので一般人だ。

本書ではいろんな立場のいろんな人の談話が登場するのですが、何も知らずに隊列を組んでどこぞへ向かい「これから○○を葬る」と宣言された兵士の感想は軒並み「これは大変なことになった(P.36)」「これはエライことになった(P.36)」という感想を言っている。しかしそうとしか形容できないんだろうな。ものすごくリアルだ。すでにもう隊列は組まれているし、そのまま進むしかないよな。しかも命令第一の軍隊で、上官の言葉だものな……行かないなんて選択肢などない。
とはいえ現代の給与所得者からしても、悲しいことに、こういう空気ってすごくよくわかるところがある。例えば会議でエライヒトたちが発表するスライドなんかを見ながら「うわ、なにこれ」などと思うこともあるんですが、そのままその方針で会社は進んでしまう。だって発表された時点ですでにお金も話も動いていたりするし、今更だ。
一般社員が「えっ」って思うことって、実際ものによってはニュース沙汰になりうることもある。でも中にいると麻痺しちゃうんですよね。大人になって分ったことの一つだけれど、アウトの線を引くというのはとても難しいのだ。ニュース沙汰になったり炎上したりすると「誰か止めなかったの」って思ったりするけど、止めるって本当に難しいことだと思う。
とはいえ、だから仕方ないという話がしたいんじゃなくて、だからこそ線引きする基準を自分でしっかり持っておくべきだということが言いたいのだ。止めなかった人になるのが自分かもしれないというのが、私はとても怖い。普段から割と好き勝手言っているほうではあるけれど、本気でNOという時になったらちゃんと行動できる人でありたいと思います。気を付けよう。

話が逸れた。本の話に戻りましょう。

「襲撃」の章ではそれぞれの官邸での様子などが資料や談話からしっかり書かれていて、とても読み応えがあります。そこはまぁお読みいただくとして、興味深いのは襲撃が終った後の話。
中橋中尉の宮城での不審な動きなども非常に面白いんですが、事態を知った川島陸相の狼狽ぶりが頼りなさすぎてちょっと笑ってしまった。しかし逆に、この時の陸相が川島でよかったと松本清張が書いているのですが、彼の文章の上手さも相俟って、言われてみれば確かにそうかもと思う。

「蹶起部隊を義軍か賊軍か速かに決定せよ」という山口の発言は注目してよい。この決定が遅れると中央部が体制を立て直し、決行部隊を「賊軍」にきめつけてしまうおそれが十分にある。山口だけでなく、この不安は決行将校の全部にあった。情勢の有利なうちに「義軍」として認めさせ、公式にこれを発表させたい。強制は、早いほどいいのである。
 川島陸相は、ここでグズの本領を発揮した。彼は当惑をするだけで、相手に何ら言質を与えなかった。自分一人では何とも決定はできないといった。問い詰められると「勅許」で逃げた。この交渉は午後一時までかかった。日ごろ定評の優柔不断が意外なところで役立ち、時をかせがせたのである。
(中略)これが決断力のある陸相だったらその決断力によって自己が失敗していたろう。また腕の切れる陸相でも、この場に限って煮え切らずにいたら、決行将校の憤激を買い、不測の事態になったかもしれない。グズの川島の功徳である。(P.201)

決行部隊として何よりも恐ろしいのは、賊軍と見做されることです。しかし天皇はこの事件について話すとき、早々に蹶起部隊を「叛乱軍」と呼んでいたのでした。この時点でもう、蹶起部隊に勝ち目はない。

蹶起部隊の敗因はいろいろあるけれど、蹶起後の道筋が誰にも見えてなかったこと、道筋の計画があまりにも他人任せだったことが一番の敗因だろうと思う。理想に燃えた若者のヒロイズムでしかなかった。だって、すごく独り善がりだもんな。
蹶起部隊からすれば「奸臣に囲まれた天皇の霧を晴らすのだ!」みたいな気合があったわけだけど、天皇からすれば余計なお世話だったわけだ。そして蹶起部隊らは天皇を非難できないという縛りがある。いろいろ理屈をつけて頑張ったけど、負けだったのだ。
現実に農村では無辜の民が苦しんでいる。しかし表立って天皇を「間違ってる」とは言えない。その状態でどうやって現状打破するのか? というところの作戦が杜撰過ぎたのだ。彼らの理論武装には他にもいろいろ穴があったのもまずかった。もっとよいリーダーかブレインがいればもう少し変わっただろうか。しかし何もしないよりも、ちょっとでもさざ波を立てられたならやって良かったって、思っているのだろうか。

第十巻ではまだ鎮圧されていないので、まだまだ二・二六事件は続きます。

原美術館「光―呼吸 時をすくう5人」に行ってきました

www.haramuseum.or.jp

もともと2020年春の展示予定だったものが、コロナの影響で冬になった展覧会です。
原美術館は、元邸宅として使われていたモダニズム建築の建物が有名で、ずっと気になっていました。しかし普段あまり現代美術を観ることがないので、ずっと行きそびれていたのです。そしたら、閉館するっていうじゃないですか…!それなら閉まる前に一目拝んでおかなくては、ということで、ついに行ってきました。

なのできっかけとしては展示そのものよりも建物のほうが目当てだったのですが、結果的には展示内容もすごく面白くて満足でした。
展示会タイトルの「5人」というのは今井智己、城戸保、佐藤時啓、佐藤雅晴、リー・キットのこと。いずれもこの展示会で初めて目にしたお名前でした。

ついつい見入ってしまったのは佐藤雅晴の「東京尾行」シリーズ。実写の映像の一部分だけをアニメーションにした短い映像作品で、5年前に東京で映した映像をもとにしているらしい。そして非常に残念なことに、彼は2019年に亡くなられたとのこと。
「東京尾行」では例えば、交差点を渡る人の中の数人だけがアニメーションになっているもの、国会議事堂前の映像で議事堂だけがアニメーションになっているものなどいろいろありました。特に好きだったのは食べ物シリーズ。例えばソフトクリームを食べる映像では、だんだん減っていくソフトクリーム部分だけがアニメーションになっていた。食べるというすごく実際的な行為に対して、明らかにフィクションとわかる絵柄でリアルに体積が減っていく食べ物の様子が掛け合わされて、何とも言えないおかしみがある。あと倉庫らしき場所の映像でキャスター付きの事務用回転椅子がひたすらぐるぐる回り続ける(椅子だけがアニメーション)のも好きでした。
百聞は一見に如かず。公式の動画がyoutubeに上がっていたので貼っておきますね。

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あと佐藤時啓の「光――呼吸」シリーズも面白かった。カメラの長時間露光を使って、自身がペンライトを持って歩き回ったことでできる光の軌跡を写真に写し込んだらしいのですが、そんなことできるのか……なんで写真家の姿は写らないのかよくわからないけど、光の軌跡だけがイルミネーションみたいに写っていました。なんだか光が生きてるみたいだ。

しかしよく考えたら、カメラって光を写し取る機械だから、闇は写らないんだな。写真は光を平面に写し取ったもので、「暗さ」そのものを写すことはできない。写真の上の、光らなかったところが暗さとか闇とかいうものであるだけで、カメラが捉えるのはあくまでも光だけだ。うーん、カメラって、ポジティブな機械なんだな。
とはいえ人間も同じだな。目に入って来るのはすべてただの光でしかないのに、そこでリアルとフェイクを見極めようなんて烏滸がましいんじゃないか。「東京尾行」に戻るけれど、実写とアニメが混じったときに我々の脳は容易くそれを区別するけれど、それらは情報としての表れ方が違うだけで、表すものは究極的には同じであるはずだ。網膜に写ったものを脳が処理して認識させてるだけなんだから。とはいえ究極的には同じなのかもしれないものが、いや全然違うじゃん、っていう風に見えるのが人体の面白さなのかも。人はいつだって、意味を過剰に持たせたがるんだ。

だから城戸保の「Semicircle Law」シリーズを見た時に、写真が作品になるには人の目が必要なんだなということを改めて感じた。シャッターを押せば誰でも、なんなら人じゃなくても写真を撮ることはできる。機械にカメラをくっつけて手あたり次第に録画することもできる。でもその平面化された光の映り込みを「これがいい」と決める誰かがいなければ、その映像なり写真なりには何の意味もないのだ。平面に色のついた模様を人は何らかの形と認識して、その形から連想されることをめいめいに思い描く。多分そこで初めて意味が生まれる。
「Semicircle Law」シリーズは福島第一原発の周囲にそびえる山々に登って、地図と方位磁石から原発があると思われる方角を写真に撮ったシリーズです。でも山の上から原発は視認できないから、特に説明もなく写真を見ただけでは、それはただの山からの風景の写真にしか見えない。その先にあるモノを提示されて、その先にあるモノから喚起されるあれこれを観る人がそれぞれに考えて初めて、写真は作品として作用し始める。「Semicircle Law」シリーズは誰もいない場所で展示されているだけの状態では作品としては未完成で、福島第一原発という言葉を聞いて想起するものがある人がその写真を見て、初めて作品として成立するのだ。あのシリーズが飾られていた部屋まるごと一つが作品だった。それがとても興味深かったです。


そして当初の目的だった原美術館の建物ですが、いやぁ、実に良かったです。カーブした廊下が上品だった。木の手摺のある階段も、壁の石の模様も美しかった。外観はやっぱりだいぶ古びていて、白い壁もだんだん汚れてはきているけれど、でも清廉な感じがして素敵だった。お庭の紅葉が綺麗でした。
常設展示もいくつかあるのですが、元トイレ部屋の展示が実に好みでした。森村康昌の「輪舞(ロンド)」。今は館内撮影禁止なので撮れなかったけど…

原美術館は閉めるけど、コレクションは群馬に新しくできる「ハラ ミュージアムアーク」でこれからも展示されるようですね。あちらは磯崎新の建築らしい。来年3月まで休館中ですが、落ち着いたら行ってみたいなぁ。
なお原美術館の展示は2021/1/11まで。要予約です。気になる方は、お早めに。