好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

高野史緒『ミステリとしての『カラマーゾフの兄弟』――スメルジャコフは犯人か?』を読みました

パンフレットのような雑誌の付録のような薄い小冊子です。発行は東洋書店、企画・編集は「ユーラシア研究所・ブックレット編集委員会」。
巻末のブックレットについての説明によれば、ユーラシア研究所は元はソ連研究を目的としたソビエト研究所という民間研究所で、ソ連崩壊後にユーラシア研究所と改名し、ユーラシア諸国について研究しているとのこと。面白そうなレーベルだなーと思ってググったら、発行元の東洋書店はすでに倒産しており、ブックレットの発行は200号で終了していた…。東洋書店はもともとロシア関連の本に強かったようなのですが、ニッチ過ぎたのでしょうか…。東洋書店は現在、東洋書店新社として復活しており、ブックレットのほうも今はユーラシア文庫として別の出版社から本を出しているようですが、うーん、やっぱり好きな本は買い支えないとダメなんだなぁ。

さて、本書は『カラマーゾフの妹』で乱歩賞を受賞したミステリ作家・高野史緒による「犯人はアリョーシャ」説の考察本です。率直に言って私は『カラマーゾフの兄弟』という作品の構成上、「犯人はアリョーシャ」はあり得ないと思っています。でも徹頭徹尾ミステリ作家として読み込んでいく過程と理詰めの考証はゲーム的な面白さがありました。情緒もへったくれもないのが潔い。

高野史緒の本は読んだことがないのですが、「そこに謎があるならば解かねばならぬ」みたいな姿勢がいかにもミステリ好きの人間っぽくてニヤニヤしてしまう。この小冊子を読んでいると、確かに高野史緒の指摘する矛盾点というのは頷けるし、ミステリ作家としては見逃せない「過失」なのだろうと思います。ドストエフスキー、結構いい加減だもんな。どこが「過失」なのかはネタバレっぽいのでここには書きませんが、うん、仰る通りだ。

しかしまぁ私は『カラマーゾフの兄弟』はミステリ要素はあるけどミステリではないと思うので、これを読んで「確かにスメルジャコフは無実だ!」と叫んだりはしませんが、こういう読み方も楽しみのひとつだなぁと思います。ミステリ部分だけ抜粋した『カラマーゾフ』本は正直いただけませんが(それはもはや別の作品だ、と全力で突っ込みたい)、高野史緒の丹念な読み方は好きです。良い意味で、プロとしての執念を感じる。

高野史緒の本も読んでみたいと思います。

ウオルィンスキイ『カラマーゾフの王国―ドストエフスキイ『カラマーゾフの兄弟』研究―』を読みました

カラマーゾフの王国

カラマーゾフの王国

1909年刊行の、当時のロシア人によるカラマーゾフ論です。日本語訳は1974年、みすず書房から。古い本だから書影が出ない悲しみ…

カラマーゾフの兄弟』およびドストエフスキーについてはナボコフはじめ、割と批判的なスタンスの批評家が一定数います。しかし彼は珍しいくらいの絶賛派。最近カラマーゾフ関連本を複数読みましたが、見事ぶっちぎりのドストエフスキー信望者という感じ。
全然知らなかったのですが、ウオルィンスキイはドストエフスキー研究では有名な人らしく、本書は『悪霊』を扱った『偉大なる憤怒の書』、『罪と罰』『白痴』を扱った『美の悲劇』とあわせて「ドストエフスキー論三部作」と呼ばれる一連の評論の一冊なのだとか。

確かにかなり丹念に読んでいて、褒めすぎじゃん?とも思うものの、詳細な引用にはやっぱり説得力がある。
グルーシェニカのことから話を始めるのが珍しくてちょっとびっくりしました。ドミートリイが彼女を称して「極道女(じごく)」と呼んだそれこそを彼女をすっかり表すものとしています。新潮文庫の原訳では「魔性の女」とだいぶマイルドになってますが、極道女とはいい訳だな。本文の訳は何を使ったとか書いていないので、本書を訳した川崎さんの訳なのでしょう。

グルーシェニカの後には「大いなる憤怒の女」たるカチェリーナが続き、父親のフョードル、そしてやっとドミートリイにスポットが当たる。
ドミートリイに限らずウオルィンスキイはそれぞれの登場人物の描写に注意を払う。歩き方に注目したり、どういうときにどういう風に笑うかを随所から抜き出してきたりしていて、そういう観点で見ていくと、確かに一貫性のある意図した表現のように思われて圧倒される。文学者って、そういう風に丹念に読み込んでいくのかーというのがすごく勉強になったし、実際こうやって読むと面白いなと思う。

ウオルィンスキイの論説のキーワードは巻末の結語にもあるとおり、「神愛(ポゴフィーリ)」と「抗神(ポゴフォープ)」だろう。前者はゾシマの背後にあるもので、後者はスメルジャコフの背後にあるもの。そしてカラマーゾフの3兄弟がこの2つの間を行ったり来たりするのを描いた小説が『カラマーゾフの兄弟』なのかなと思いました。アリョーシャは「神愛」派でイワンは「抗神」派と基本の軸足が明快なように見えるけど、ドミートリイはふらふらしてる印象。
「神愛者(ポゴフィーリ)たち」という別章をもうけて修道院の人々を詳しく書いているのが興味深かったです。そんな人いたっけ!というような人までちゃんと言及している。巻末をゾシマで締めているのは納得。キーパーソンだもんな。

文章が古めかしいのもあって非常に読みにくいんですが(訳者も訳しにくかったと書いていた)、面白かったです。リアルタイムで読んでいた人はきっと今私が読むのとは違う感慨があったのだろうな。もとより文学とはそういうものではあるのだけれど。褒めちぎっているのも、当時のテロが繰り返される時代を打破する何かを、ドストエフスキーの作品に感じたのかもしれない。

カラマーゾフの兄弟』、もう一周読み返したいです。

遠藤周作『影法師』を読みました

影法師 (新潮文庫)

影法師 (新潮文庫)

本書を含め、我が家にある遠藤周作の本はすべて姉からの寄贈本です。私も嫌いじゃないんですが、どうもずーんと落ち込むので手元には置いていませんでした。しかし姉から大量に仕入れたのでぼつぼつと読み進めています。それにしてもよりによって遠藤周作の重い系の作品ばっかりお持ちで!狐狸庵先生の軽妙なエッセイ本は一冊も見当たらない。あの人らしい。

この本には9編の短編と2編の評伝が収められています。9編の短編はかなり私小説寄りの表題作「影法師」で始まって、渦巻きのようにぐるぐると輪を描きながらじわじわと中心から外円へ向かっていくような構成になっていました。中心にいるのは遠藤周作の母です。
遠藤周作を読むと「日本に土着したキリスト教」の「それっぽさ」をひしひしと感じるのですが、本書もその系列のひとつでした。アーメンと唱えロザリオを手繰っても、なんというか、南無阿弥陀仏の念仏と数珠の音にひどく重なる。唯一神とは言うものの、神仏習合してる感がある。多分、どちらも信仰心の根っこに慈悲があるのだ。つい仏教用語になってしまうけど、おそらくそうなのだ。浄土真宗が変わり衣で現れた印象を受ける。

同じ題材が何度か繰り返し出てくるのですが、書かずにはいられなかったのだろうなぁ。
「なまぬるい春の黄昏」が印象的でした。長い闘病生活から脱し、妻と息子と共に小旅行に出かけられるほどにまで回復した主人公(著者の分身)が入院時の出来事を振り返る話です。退院の見込みがまったくない「おばさん」の回想と、旅行中に出会った、戦争中のことを訥々と語る「おばさん」。どんなに遠く離れた立場に見えても紙一重だよなと思います。退院の見込みがまったくない「おばさん」の振る舞いが、いかにも今この時もどこかの病院にそういう人がいるんだろうな、しかもひとりではなく、この「おばさん」はあらゆる病院に偏在するのだろうなと思うとたまらない。つらい…

なお巻末に収録されているのは原民喜梅崎春生の評伝なのですが、正直どちらも読んだことが無いのでした。特に原民喜の『夏の花』は怖くて読めない…
なので彼ら二人の人となりを知るというよりは、当時の文士たちの交流の仕方に興味を持って読んでいました。三田文学の集まりとか、そういうのがほんとにあったんだなぁ…

亀山郁夫『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』を読みました

『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する (光文社新書)

『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する (光文社新書)

21世紀初頭に突如カラマーゾフブームを巻き起こした光文社新訳文庫での翻訳を手掛けた亀山郁夫が続編のプロットを空想する本。私は新訳版を読んでいないのですが、そもそもロシア語がわからないので、賛否両論の新訳が訳として適切かどうかの判断が下せない。ただ、個人的にはちょっと古めかしいようなもってまわった言い回しをしてほしいので、旧訳版が好みです。
しかし第二の小説がどんなストーリーなのか?というのはファンとしてはやはり想像が掻き立てられるところ。未完成の美学というのはありますよね…!今回、某所で開催された『カラマーゾフの兄弟』の読書会にかこつけて読み漁った評論の一冊として読みました。読書会も無事終了したので、関連本もブログにアップしてゆきます。

なお以下の内容は本書の性質上、『カラマーゾフの兄弟』全体のストーリーに触れていますのでご注意ください。

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ピーター・トライアス『メカ・サムライ・エンパイア』を読みました

メカ・サムライ・エンパイア 上 (ハヤカワ文庫SF)

メカ・サムライ・エンパイア 上 (ハヤカワ文庫SF)

ハヤカワ文庫版で買ったので上下巻に分かれている『メカ・サムライ・エンパイア』、通称「MSE」の上巻を読みました。『ユナイテッド・ステイツ・ジャパン』ことUSJの続編として2018年4月に刊行されたのですが、1年も積んでいてすみませんでした…面白かった…

なんでもっと早く読まなかったのかというと、USJが結構ぐさぐさ来るようなR15指定のグロい描写が多かったので、なんとなく心の準備をしていたというのが一つ。そしてUSJが思ってたほどメカメカしくなかったので、今回もそうなのかなと思っていたのがもう一つ。しかし今回は実にメカメカしくて良いです。良いです!

時は1994年、舞台はアメリカ西海岸。主人公は高校卒業間近の少年。しかし、この小説は太平洋戦争で大日本帝国アメリカに勝利したIF世界の話です。
アメリカは日本の統治地域とナチスの統治地域とに分割され、日本統治となった地域は「日本合衆国(USJ)」として大日本帝国支配下となっています。(このあたりの詳しい事情は『USJ』をお読みください。)
戦争において日本軍に多大な貢献をしたのが、搭乗型メカロボット。戦後もナチスとの緊張状態が続き、アメリカ人の抵抗勢力によるテロが続く中、メカは改良を重ねられ、種類も増え、メカパイロットは子供たちの憧れとなります。
そんなメカロボットのパイロットになる夢を抱いた少年が、現実世界の醜さや信望してきた国や軍の闇の部分を垣間見て成長していくというのが、今回のMSEの主軸です。

ちなみに下巻の解説でも書かれていることですが、面白いのは主人公が支配者側に立っていること。悪の帝国を舞台にストーリーを組み立てる場合、被支配者側で虐げられる人をメインに据えるほうが共感を呼びやすいと思うのですが、この作品では両親を戦争で亡くしながらもその死に誇りを持つ支配者サイドの男の子が主人公になっています。自国の正義を疑うことなく、敵国の卑劣さを罵ることの異常さを異常と感じない主人公たちに読者が違和感を感じる仕掛け。

もうひとつ面白いのが、原文は英語なのに、日本人である登場人物にしっかりと漢字の氏名が与えられていること。どうやらハヤカワの編集者や訳者がバックにいるっぽいんですよね…アメリカよりも早く日本で発売しているし。「範子はこの漢字でいきましょう!」みたいなやり取りをしているんだろうなぁ。楽しいだろうなぁ。関西弁を操る久地樂(くじら)が「けったいやな」とか言ってるのも日本語アドバイザーがいそうではあるけど、英語版だとどう表現されているのか気になるところですね。アメリカに行く機会があったら英語版買ってこよう。

そして何より感慨深いのが、こういう設定のストーリーが売れる時代なんだなぁということです。日本のロボットアニメを見て育った子供が大人になって作品を生み出し、売り手側もロボットアニメを見て育ったからその面白さを共有できる。我々の時代が来た!という思いがひしひしと湧きあがります。大人になるって楽しいな。こうして文化は継承されていくのだなぁ。
大日本帝国支配のアメリカがちゃんとディストピアとして描かれている(大日本帝国時代の日本軍のダメさがちゃんと継承されている)こと、悪の第三帝国ナチスの歴史的キャラ付け(ステレオタイプな「悪のナチス」)がいかにもそうであること、一方でテロリストアメリカの卑劣さをしっかりと描いていること(自由を求めて戦っても、やってることは暴力行為である)のバランス感覚が、現代の作家のそれだと思います。冷戦の悪影響もなく、民族的な差別意識もほとんどなく、良い意味で純粋な平等さを保っているのは、著者が韓国系アメリカ人だからか?

前作USJに比べて主人公の年齢が下がっているのでよりエンタメ感が増しています。ちょっと毒のある青春小説といいう感じ。
いかにも続きます!という終わり方をしており、実際続きも出ることは確定しているので楽しみです。次の主人公は誰かな?

そごう美術館「ウィリアム・モリスと英国の壁紙展」に行ってきました

www.sogo-seibu.jp


行こう行こうと思いながらなかなか行けなかったそごう美術館のウィリアム・モリスの展覧会にやっと行ってきました!間に合ってよかった!

「役に立つかわからないもの、あるいは美しいと思えないものを家の中に置いてはならない」――そんなストイックな美学が魅力のウィリアム・モリスを中心に、英国の壁紙会社サンダーソン社のアーカイブを紹介する展覧会です。ウィリアム・モリス以前、ウィリアム・モリス本人のデザイン、そしてウィリアム・モリス以後のモリス商会、というように時代を追って展示されています。

モリス以前はフランス製が優秀で、英国は早々に壁紙に税金掛けたりしたためにデザインがそこまで発達しなかったとかいう歴史的背景が面白かったです。万博で英国製のイマイチさが露呈してしまい、そこから危機感を募らせて頑張ったのだとか。ジャポニズムの影響を受けたデザインや、日本が得意とした金唐革紙など、モリス以外の作品も充実していました。特に好きだったのがポール・バランの刺繍調壁紙で、どう見てもこれ刺繍でしょ!と思うのですが印刷された壁紙なんですよ…すごかった…
印刷の方法はブロック・プリント(四角い板版)とローラー・プリント(コロコロスタンプみたいな感じ)などがありますが、今回の展示ではほとんどがブロック・プリント(特にモリス作品はすべてそう)だったのが意外でした。パターン系の印刷ならぐるぐる回すローラー・プリントのほうが境目がなくて良いじゃんと思うのですが、当時の技術的な問題ですかね。ブロック・プリントは境目のない同一パターンを作るのに複数の板版が必要になることが多く、しかも印刷の境目で綺麗に合わせなくてはならないので、結構大変そうです。当時は機械もそんなに精度が良くないので、職人さん頼りだったらしい。多色刷りの場合の作り方の紹介もありましたが、まるで浮世絵でした。基本は同じだものなぁ。
エンボス加工を施した(模様を浮き彫りにした)紙にプリントする技法もあったのですが、やはり凸部分から着色が剥げてくるので、地の色が覗いていたり、ムラがあったりと当時の技術の限界を感じました。全体的に、遠目に見ればオッケーじゃん!みたいな良い意味でのおおざっぱさが時折見られて、大陸的だなと思ったり。ファッションにおいてよく言われることですが、ヨーロッパって全体のシルエットを重視する傾向があるというの、わかる気がする。

モリスのデザインは植物をモチーフにしたものが多かったのですが、地の模様(バックスクリーン)として葉っぱモチーフを入れて、その上に花や果物のモチーフを描く、というデザインが面白かったです。余白を有効活用しているなぁ。緑を基調としたものが落ち着いた雰囲気を醸し出していて好きでした。でも重厚な家具のある書斎には朱を持って来たくなるのも納得。
面白いなと感じたことの一つに、壁紙とテキスタイルに同じデザインを使うことをモリスが承諾していなかったというのがあります。壁紙を待たなくてもテキスタイルという分野で長い歴史があるはずの英国ですから、椅子やクッションとお揃いの壁紙、みたいなことしたがる人がいたとは思うのですが、それはモリス的にNGなんだそうで。なぜだろう、美的感覚が許さなかったのか。壁紙のデザインをテキスタイルに転用するのはアリっぽかったんですけどね。合わせすぎるとダサくなる、という理由だろうか…

あと今回初めて気が付いたのですが、そもそも壁紙というものが商売として成り立つに至った背景として、ガス灯の普及もその一因であるという説明にハッとしました。そういえばそうだ。明かりがあるから模様が映えるんだ。そしてその明かりの質によって(つまり蝋燭の火かガス灯か蛍光灯かによって)映える壁紙が違うはずだ。『陰影礼讃』で障子越しの明るさが論じられていたように、蝋燭の炎に照らされる壁と、ガス灯に照らされる壁、そして現代のように蛍光灯で照らされる壁の見え方は違うでしょう。日の光がさんさんと降り注ぐ部屋と、北向きの部屋では似合う壁紙が違うはずだ。そもそも適している紙の材質すら異なるはずだ。そして視点を広げると、当時も英国本土と植民地の東南アジアとかでは、同じ壁紙を使っても同じような見栄えにはならなかったはずだ。壁紙文化はどういう風に広まっていたのかも気になるところです。またモリスのデザインで、自然光にさらされることを前提としたカーテンというのが飾られていたのも興味深かったです。そういう経年劣化を見越したデザインができるというの、良いなぁ。
しかし私には室内をガス灯の明かりで照らすとどんなふうになるのか、正確にイメージできないのでした…

インテリアの企画ということもあり、女性率の非常に高い展覧会でした。6/2まで。

アガサ・クリスティー『スタイルズ荘の怪事件』を読みました。

父親から譲り受けた本の一冊。かのアガサ・クリスティーの第一作です。
私のミステリ全盛期は中学・高校時代で、講談社ノベルスを好んで読んでいました。基本的に国内ミステリを読んでいて、海外のもたまには読みましたが、有栖川有栖の影響でエラリイ・クイーンが好きだったので、クリスティって実はほとんど読んでいないのです。
それでもクリスティと言えばエルキュール・ポアロミス・マープルという二大探偵がいることは知っています。親がよくBSでドラマ版を観ていたので、それぞれのテーマソングを口ずさむこともできます。今回『スタイルズ荘の怪事件』を読んで、ポアロのビジュアルはままさにデヴィット・スーシェの姿と熊倉一雄の声で脳内再現されました。

これまでなじみの薄かったクリスティですが、この頃ホロヴィッツの『カササギ殺人事件』も出たことですし、都合の良いことに手元にあるし、ちょうどいいからと読み始めて思い出したことがひとつ。『スタイルズ荘の怪事件』、ポアロシリーズの第一作かつクリスティの処女作ということでこれまで何度か読もうとはしたのです。ただ、読まなかった理由が、訳文が好きじゃなかったからなのでした。正確には、小説冒頭の数ページの日本語に強烈な違和感を覚えたからです。

<スタイルズ事件>として有名になった、あの出来事が、世間にまきおこした興奮は、いまはもう、どうやら影をひそめてしまったらしい。だが、この事件にともなう世界的な悪名の高さから見て、友人のポアロや当の一族の人々からも、この事件の全貌を書きとめておいてくれるようにと、私は頼まれていたのだ。まあ、そうしておけば、いまだうるさく流れている、あの無責任な噂話を封じてしまうのにも効果があると、私たちは確信している。(7P )

最初に読んだとき、しつこいくらいの読点が読みにくくてたまりませんでした。今回読み始めた時、この読点だけで、図書館でパラパラめくってまた棚に戻すという行為を何度も繰り返したことを思い出しました。当時はこの作品のみならず、翻訳全般に懐疑的でしたが、それにしたってこの最初の1ページはどうにも…。
しかし今回ぐっと我慢して読み進めていくと、途中から気にならなくなっていたのでした。読み終わった今、中盤あたりの文章を読み返すと、確かに違和感を感じない。どうやら過剰な読点は、冒頭部分のみのようで、そのあとは流れるように読み進めることができました。何なのでしょうね…不思議だ。

しかしストーリーも謎解き経緯も王道の良さがあり、楽しめました。歳の離れた男性と再婚したばかりの富豪の老婦人が毒殺されるのですが、毒はどこに仕込まれていたのか?誰が仕込んだのか?誰にその機会があったのか?ポアロはどうやってそれを調べていくのか?
富豪の老婦人、皆から嫌われている老婦人の夫、金に困っている息子、陰のある美人である嫁、薬局に勤める女性、時折屋敷に現れる怪しげな男…。役者は揃い、事件が起きる。颯爽と現れる探偵、日常的な会話でさりげなく行われる情報収集。うーん、ミステリの醍醐味ですね。

表紙の絵は、老婦人が殺された寝室の見取り図です。ストーリーの途中で屋敷の部屋の配置も示されたりして、おおお本格ミステリ!とちょっと嬉しくなる。屋敷の見取り図は基本ですよね!手紙が挿絵のように挿入されているのもいい感じですね!ミステリ感が高まります。

ちなみにミステリというのは後の時代のほうが不利なのは当然で、そのネタはもう誰々がやっている、という事態が出やすいものです(テクノロジーの進歩がバリエーションを増やしてくれてはいますが)。本当に謎解きだけが目当てなら単純なパズルだけでも良いはずです。しかしそうではなく「探偵小説」という形態をとっている以上、事件の背景や結末までの過程で読者をもてなすことが良いミステリの条件と言えましょう。ネタだけが大事なのではなく、探偵の魅力や謎解き場面の演出も同じくらい大切なのです。関係者各位が一堂に会するなか、「犯人はお前だ!」の瞬間のカタルシス!劇場型万歳、形式美というのはあるものです。

そういう意味でも本作は話の運びも楽しめる、古き良きミステリ作品でした。