好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

文楽「妹背山婦女庭訓」を観てきました

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東京の国立劇場で公演されている「妹背山婦女庭訓」を途中まで観てきました。国立文楽劇場開場35周年記念の通し狂言、つまり最初から最後まで全部やるよ!という企画なのですが、一日座りっぱなしはしんどいので途中まで(第一部だけ)の鑑賞です。普段の公演は通しではなくて一部の場面を切り取って演じられることが多いので、通しで観られるチャンスはなかなか無さそうではあるのですが、それでもやっぱり朝10時半から夜9時まではきつい…第一部にしたのは豊竹咲太夫&鶴澤燕三コンビが出るからなのですが、考えることは皆同じで満席でした。
第一部だけでも10時半から15時までで、途中25分の休憩が1回と10分の休憩が1回入るとはいえ、座りっぱなしはしんどかったです。でも面白かった!

文楽はちょくちょく見ますが、奈良王朝ものは初めてです。蘇我入鹿VS天智天皇中臣鎌足あたりの史実が題材の時代劇で、第一部は第三段目の頭、太宰館の段まで。題材は史実ですがフィクションなのでいろいろと脚色はあります。18世紀の作品なので、当時の社会のバイアスもかかっているはず。
ざっくりとストーリーを追いましょう。天智天皇が病に侵され目が見えなくなり、これ幸いと権勢を振るい帝位を簒奪しようと暗躍する蘇我蝦夷中臣鎌足を冤罪で失脚させ、さぁ俺の時代だというそのとき、父の素行を苦にして仏道に励んでいたはずの蘇我入鹿がラスボスとして君臨。「あんな生ぬるいやり方じゃダメだ」と三種の神器の一つを盗み出し、父や妻も見殺しにして自らの野望を成就させんと内裏に乗り込みます。一方わずかな忠臣と共に内裏を追われた天智天皇は、とある山中の小さな庵を、ここが内裏と思い込んで生活。忠臣たちの涙ぐましい努力と失脚して追放されていた中臣鎌足の満を持しての復活により、無事に天智天皇の目もみえるようになり、さぁここから巻き返すぞ!というところで第一部は終わりです。

文楽は人形劇なので、だいたい頭をみれば「あ、これが悪人だな」というのが分かります。開幕冒頭から出てくる蘇我蝦夷の悪役っぷりが素晴らしかったですが、息子の蘇我入鹿がさらに輪をかけた悪役っぷりでとても良かった。仏道に励んで籠っていた設定なので、初の登場では髪はぼうぼう、山伏のような恰好でおどろおどろしく現れて、妙な迫力が実に素晴らしかった。ラスボスたるもの貫禄がなくちゃね!エンターテイメントの面白さの肝は悪役にある。

見どころもたっぷり、笑うところも泣かせるところもしっかり入っていて第一部だけでも堪能しました。ストーリーの大筋はいくつかあり、そのうちのひとつに親同士の仲が悪い若い男女が出会って恋をするロミジュリ的展開があるのですが、出会いの場面を描く「小松原の段」がコミカルで笑えます。そして山中の粗末な庵で身分を隠して潜伏する忠臣(バリバリの貴族様)の浮世離れっぷりを描く「掛乞の段」もギャグパート。お約束のようなジョークですが、鉄板ですね。コミックオペラのようだ。
さらに天皇が庵にいながら管弦を所望する「万斉の段」も見どころとして外せません。天皇に余計な心配をかけまいと、ここは内裏だと信じ続けてほしい忠臣たちは苦肉の策で小鼓をバックに万歳を踊るというものなのですが、文楽は人形劇なので、お人形さんが躍るのです。お扇子を閉じたり開いたりして踊るのが可愛い。

泣かせるパートは豊竹咲太夫&鶴澤燕三コンビの「芝六忠義の段」です。物語のクライマックスである切場と呼ばれる場面で、現在唯一の「切場語り」である豊竹咲太夫が語ってくれるなら、それはみんな聞きたいので満席になる道理。過去に粗相をして官職を解かれた芝六が自らの忠義を証明しようとしたり、養子の子が父に代わって自首したりする場面なのですが、子供のいじらしさで迫ってくるので涙ぐんでしまう。冷静に考えればお父さんちょっと待ちいや、という感じの強引なストーリーではあるものの、上手いのでついぐっときてしまうのです。「せめてあれ一人は狩人さしてくださるな」…!そして一番かわいそうなお母さんの嘆きぶりが胸にきます。三味線も良かった…


というわけで第一部だけの鑑賞でしたが非常に満足でした。次の文楽、東京公演は9月らしいので、また行くつもりです。

三方行成『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』を読みました

トランスヒューマンガンマ線バースト童話集

トランスヒューマンガンマ線バースト童話集

『流れよわが涙、と孔明は言った』の三方行成デビュー作。諸事情によりデビュー作を後に読むことになりましたが、実際に書かれた時期を考えればむしろこっちが後ではないか。2018年のハヤカワSFコンテストで優勝賞受賞作です。巻末にコンテストで最終選考に残った6作の講評も載っている。

肉体から解き放たれた人類の進化系である「トランスヒューマン」の世界を童話の舞台としたら…というパロディものです。元ネタはシンデレラ、竹取物語、白雪姫など全6話。
シンデレラというのは結構パロディしやすい題材ではありますが、「地球灰かぶり姫」、書いていて楽しかったんじゃないかなぁ。トランスヒューマンの世界線と一番うまく組み合わさっていて、キャラクタも立っていて、気軽に読めて笑えて面白かったです。三方節が良い。

「<サルベ-ジャ>VS甲殻機動隊」は元ネタ(多分さるかに合戦?)の要素がほとんど見られませんが、ちょっとした怪奇小説ぽくて好みでした。トランスヒューマンの廃墟でカニを隊長とする甲殻機動隊が未知の敵と戦う話。隊員のテナガエビとシャコがいい味出しているのですが、これに限らず全体的に三方行成のキャラクタの立て方の上手さはライトノベル的なものがある。「モンティ・ホールころりん」のナンセンスぶりはやっぱり谷山浩子的世界を感じるし、いろんなところでちょくちょくネタを仕込んでくるあたりが西尾維新を彷彿とさせる。全体的に頭空っぽにして単純に面白がることができるエンタメ小説です。賢しらにうまくまとめようとしてないところに好感を持ちました。面白いことが第一義である。

しかし最後の講評にも書かれているのですが、最初の3つの話は普通に童話のパロディなのですが、後の3つはいまいち元ネタの生かし具合が弱くて惜しかった感じがどうしても否めない。なんか無理に連作短編という形にしなくてもいいのでは(今回はコンテストにあたって枚数が必要だったわけですが)。あるいは『流れよわが涙、と孔明は言った』に収められていた『折り紙食堂』くらいの連作にしておくとか。長編を読んでみたい気持ちはあるけど、短編を極めるのもいいかもしれないですね。

自分と同年代の人が書いているのを見ると、その人がこれまで触れてきたものとか体験してきた世界とかがリアルにわかるので、あぁこれはあの人に影響を受けているんだなとか、そういうのがすっと理解できるのが面白い。古い時代の小説とかを読んで、それはそれで面白いのだけど、そういうときとは面白がり方が違うのが自分でもわかる。ノリになじみがあるというか。電撃文庫読んでたんだろうなとか、角川スニーカー文庫も読んでいたかもなとか、ネット文化になじんでいる世代だなとか。学んで知るのではなくて、そういうんだろうな、というただの推測だけど、リアルタイム感が面白い。同じ世代が活躍する年代になってようやくわかる面白さだ…
今後自分より下の年齢の人たちが第一線になるのを見ることになるんだなぁ。すでにそういう人が結構出てきてはいるけど、まだ新人枠だからちょっと違う。自分より年下が第一線という年代になったときにどんな気持ちで読むことになるのか、今から楽しみです。

三方行成『流れよわが涙、と孔明は言った』を読みました

流れよわが涙、と孔明は言った (ハヤカワ文庫JA)

流れよわが涙、と孔明は言った (ハヤカワ文庫JA)

2018年、カクヨムという小説投稿サイトで活動していたsanpowという筆者が、三方行成名義で書いた『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』という作品で第6回ハヤカワSFコンテスト優秀賞を受賞しました。話題になったのは知っていたのですが、他にも読む本がいろいろあったので特に手には取りませんでした。
しかしある日Twitterでハヤカワのアカウントから『流れよわが涙、と孔明は言った』の試し読みリンク(下記)が流れてきて、タイトルが面白かったので軽い気持ちで開いてみました。

【書籍化決定】「流れよわが涙、と孔明は言った」三方行成ショート・ストーリー
https://www.hayakawabooks.com/n/n9a2a234a5d7d


そして思ったのが「なんかとんでもない新人が来たぞ…!」です。なんてったって冒頭からぶっ飛んでいる。

孔明は泣いたが、馬謖のことは斬れなかった。
硬かったのである。(P.9)

言うまでもなく「泣いて馬謖を斬る」が元ネタですが、それをここまで広げるか!
ストーリーを簡単に言うと、物理的に硬くて斬れない馬謖を、孔明があの手この手で斬ろうとする話、です。本当に、ただそれだけの話です。三国志演義ネタがちょいちょい挟まってくるので、主要登場人物や大まかな話の流れが分かっているとより楽しめるかと。そしていつの間にかパッチワーク宇宙論まで出てくるのでギリギリSFか。言葉遊び満載のナンセンスエンタメ小説です。

エンターテインメント小説にもいろいろなタイプがありますが、三方行成はテンポの良さとアイデアの妙でぐいぐい読ませるタイプです。本当に、すごくバカバカしいだけのエンタメ小作品なのですが、バカバカしいことを本気でやるとすごいことになるんだな。面白い、というのがエンタメの要だ。
この言葉遊び感は西尾維新を彷彿とさせ(年代的に影響受けていそうです)、このナンセンスのスケールの大きさが谷山浩子っぽくて好きです。


さて以上は表題作『流れよわが涙、と孔明は言った』の話でしたが、書籍化の際には短編集となりまして、上記を含めて5編の短編が収められています。

『折り紙食堂』は3つのストーリーから成るちょっと不気味な小説。不穏な空気が非常に良い。「あなたは店の入り口をくぐる」など、二人称で語りかけるように話が進んでいくところがテキストゲームっぽくて臨場感がある。

『走れメデス』は書き下ろし。『流れよわが涙、と孔明は言った』と同じ種類のパロディ小説。かの数学者アルキメデスを主役にしたものですが、アルキメデスを走れメデスにするとか、もうそういうとこが三方節。何も考えずに楽しみましょう。元ネタ探しも楽しみのひとつ。

『闇』は「電柱アンソロジー」という企画に参加した際の作品の再録のようです。「人が死んだら電柱になる」という設定で漫画や小説を書いたものをまとめたアンソロジー同人誌で、すでに完売済みではありますが何度も再刷されているところがすごい。コミケ文学フリマで売っていたそうですね。『折り紙食堂』寄りの落ち着いた作風です。

『竜とダイヤモンド』も「ドラゴンカーセックスアンソロジー」という同人誌の出品作品で、ノリの良いファンタジー小説です。とはいえそもそも「ドラゴンカーセックス」って何よ?というところは説明が必要でしょう。欧米のR18 ジャンルで、そのまんまドラゴン(竜)とカー(車)の性行為を指すそうです。アンソロジーの企画経緯とか日本での受容などはいろいろエピソードがあるようなので、気になる成年済みの方はご自分でググってください。ちなみに『竜とダイヤモンド』および『ドラゴンカーアンソロジー』は全年齢向けです。


全体的にライトノベル的な作風で、新しい時代のSF作家だなと思いました。もともとSFとラノベは親和性が高い上にリアル世界がSFに追いついてきたので、いよいよ垣根が低くなってきたような印象。デビュー前からすでに同人誌で活動していた経歴があるからか、作家自身のスタイルがすでに確立しているようにも感じます。長編よりも短編が得意そうですが、長編だとどんなふうになるのか気になるところ。これからの活動もチェックしていきます。

東京国立近代美術館「MOMATコレクション(2019.01.29-2019.05.26 所蔵作品展)」に行ってきました

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下関市立美術館で出会った松林桂月の「春宵花影」が、東京国立近代美術館のコレクション展に出品されていることを知り、いそいそと出かけてきました。
国立近代美術館は姉妹館として工芸館というのがあり、基本的に工芸はそちらで展示されています。しかし今回は工芸品も含めて展示されており、おかげで私の好きな初代宮川香山の花瓶も観られて嬉しかったです。日本画から洋画、写真、彫刻、映像など盛り沢山でした。閉館時間が迫っていてすべてをゆっくり観ることができなかったのが残念。

とはいえ来館の第一目的である松林桂月の「春宵花影」はしっかり観てきました。
しかしですね、松林桂月の「春宵花影」を観た時の感動がそうでもなかったのです。相変わらず美しいし繊細で幻想的だったんですが、下関で観た時のほうが綺麗だった気がして。そもそも桜の後ろに見える月、もっと大きくなかったっけ?単純にファーストインパクトが強すぎたから二回目はそうでもないだけか?期待しすぎた?「また会えたね…!」的な感動を期待していたのですが、「相変わらずお綺麗ですね」くらいの感動しか得られず、初めて見た時のときめきが自分の中に湧きあがらず、そのことに非常に戸惑いました。

そこで気になっていろいろ調べていたら、どうやらやっぱり構図が微妙に違うようなんですよね。
私が観た下関の「春宵花影」は1944年版。こちらは月が桜の真後ろに配置されています。

参考画像リンク:「特別展示」部分)
所蔵品展「特集:端・橋・はし―Edge, Bridge, Hashi」|下関市立美術館

しかし今回観たのは1939年版「春宵花影図」。月は桜の左上に配置されています。

参考画像リンク:
独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索

ぜひ比べてみてほしい。違いますよね、全然違いますよ。まるで違います!
そして私は、1944年版「春宵花影」のほうが美しいと断言します。これはもう、譲れません。あのとき私の心を鷲掴みにしたのは1944年版なのです。
右下に余白を作ることで画賛が見やすくなっていますし、月光をバックにした桜の花の妖艶さがよく出ています。ああ、1944年版の拡大版がないのが非常に惜しいのですが、あの光に透かされた花びらの美しさをぜひもっと広く知ってほしい…。思わず息をのむほど儚くて、滲んだようなグラデーションが繊細な美しさを引き出しているあの1944年版「春宵花影」よ!

何をここまで力説するかというと、「松林桂月 春宵花影」で検索して出てくるのが軒並み1939年版であることが悔しくてならないのです。
いいでしょう、それも美しい。万博に出品されて先に人々の感嘆を得たのも1939年版でしょう。
しかし松林桂月の代表作として、本当に1939年の「春宵花影図」を紹介するだけで良いのでしょうか?1944年の「春宵花影」が存在することに言及しなくて良いのでしょうか?だってこんなにも美しいのに!

もっとも美しさというのは好みの問題であることは承知しています。しかし「松林桂月の春宵花影を展示」と銘打ったとき、1939年版のみを展示する場合がほとんどなのだとしたら、それはゆゆしき事態ではないでしょうか。山口県立美術館で没後50年記念展をしたときですら、出品されたのは国立近代美術館所蔵の1939年版なのです。下関市にもあるのに!

もしかして美術品として価値が高いのはあくまで1939年版のみなのだろうか?類似の構図で同じような絵を描いただけだと思われているのだろうか?そもそも存在がマイナーなのか?
本当に、なんで1939年版ばかりが有名で、1944年版がこんなに情報が少ないのか不思議でならないのですよ。だってあんなに美しいのに(何度でも言う)。

もう一度「春宵花影」に会いたければ、また下関まで行くしかなさそうです。
でも展示される機会がまたあるなら、またはるばる訪ねる価値はある、と思ってしまうくらい好きです。またお目にかかりたい…

東京国立近代美術館「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」に行ってきました

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GW中に行きました。真の目的はMOMATコレクション展で松林桂月の「春宵花影」を観ることだったのですが、せっかくなので企画展の福沢一郎展も観ておくかーと思って軽い気持ちで入ったら、想像以上のボリュームで楽しめました。
(MOMATコレクション展のことは、長くなってしまったので別記事にしてます)

シュルレアリスムは好きなのですが、具体的な作家や画家の名前はよく知りません。なので福沢一郎のことも今回初めて知りました。
1898年生まれ、1992年没。群馬県に生まれ、パリに留学したり、アメリカに渡ったりしながら社会風刺をこめた絵を描いていた人のようです。
戦争中、自由にものを言ったり書いたり描いたりできない時代に、ちょっと捻ったユーモアで痛烈に批判するところがフランス留学経験者って感じで好きでした。
ちょっと変わっているのが、もともと朝倉文夫のもとで彫刻を学んでいたという過去があること。パリに留学したのも彫刻を学ぶためだったのですが、そこでシュルレアリスム絵画に出会って画家に転向したという過去がある。展示されていた雑誌の、福沢一郎の批評にも書かれていたのですが、日本ではなくパリで絵画を始めたことで当時の日本の画壇の影響をうけずに画家としてスタートしたというのは異色の経歴だなと思います。

福沢一郎は1970年代に多くの地獄図を描いたのですが、その中の「トイレットペーパー地獄」はちょっと笑ってしまった。オイルショックでトイレットペーパー争奪戦になったという例の事件を題材にしているのですが、奪い合っているのがまんまトイレットペーパーなのでどう見てもユーモラスな絵になる。
他にも地獄図シリーズは西洋古典や仏典からもモチーフを持ってきて取り入れていて興味深かったのです。その中の絵に描かれていたキリスト教的悪魔と仏教的獄卒の立ち位置についていろいろ考えていました。絵の中で彼らは生前の悪行によって苦しみを受ける人間たちを見張っているのですが、「悪」側に立つ彼らは本当に「悪」側なんでしょうか?苦しめるという行為自体に楽しみを見出しているサディスティックな存在なのかもしれませんが、もしかしたらあるとき突然ハッと気が付いて「自分は何てことをしているんだ…」みたいになったりしないんだろうか。
何でこんなこと思ったかというと、地獄図がいかにも地獄だったからです。そして「悪」側に立つ彼らの後ろ姿が描かれていたのですが、いずれも顔が見えなくて、どんな顔で人々を見ているのかな?と気になったのです。
仕事ですから、みたいな感じで結構冷静なまなざしなんだろうか。それとも苦しんでいる人を見るのが楽しくて仕方ないんだろうか。あるいは苦しんでいる人を見守りながら助けてはいけないことが、彼ら自身の罰なのだろうか?そんなことあるか?
福沢一郎の地獄図は『神曲』と『往生要集』の影響が大きいそうなのですが、どっちも読んでいないので何とも言えない。ただ悪魔と獄卒を顔の見えない後ろ姿で描いていたのが非常に気になりました。


でも一番印象的だったのは「牛」です。

参考リンク)
【作品】牛 / Cows 1936年 | 福沢一郎記念館

戦時下の政府が夢のような国であると謳っていた満州国は、実際にはハリボテのボロボロで、穴だらけの空虚なものであったということを暗に込めた絵です。そういう風に表現するのね。
同じようなテーマで「楽園追放」という絵を下敷きにした「女」という絵もあるのですが、そちらよりも「牛」のほうが、下敷きの絵がない分わかりやすい。しかし牛の、あんなボロボロなのにしらっと立っているところとか、しかし後ろのほうで喧嘩していたりとか、なんだか妙な迫力がありました。静かなる告発。

東京国立近代美術館の福沢一郎展は2019/5/26(日)まで。
同じチケットで「MOMATコレクション展(所蔵作品展)」と「イメージコレクター・杉浦非水展」が観られます。いずれも同じく5/26まで。

辻原登『辻原登の「カラマーゾフ」新論』を読みました

辻原登の「カラマーゾフ」新論 ドストエフスキー連続講義

辻原登の「カラマーゾフ」新論 ドストエフスキー連続講義

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』読書会のための資料として図書館で借りてきたのですが、あまりの面白さに一日で読み終わりました。
自称「ドストエフスキー嫌い」の著者がカラマーゾフの兄弟について朝日カルチャーセンターで講義をした記録に、『カラマーゾフの兄弟』の新訳を手掛けた亀山郁夫との対談などを加えて本にしたものです。語りかける口調なので、すっと頭に入ってきやすい。
「それは違うのでは」と思うところももちろんありますが、自分とは違う読み方を知るのは面白いし、新たな発見もありました。

辻原さんはカラマーゾフを3回読んでいるそうなのですが、その経緯がなかなか特殊でした。

1回目:中学生。夢中になって読み、ドストエフスキーの毒に染まる。しかし次第にトルストイなどを読むようになり、ドストエフスキーとは18歳くらいで決別。
2回目:25~26歳。連合赤軍事件をきっかけに再読するが、わざとらしい作り物の世界のように感じる。
3回目:60歳くらい?山城むつみドストエフスキー論、亀山郁夫の新訳がきっかけ。カルチャーセンターで講義をする。

1回目は夢中で読んだのに、2回目ではシラケているというのが興味深いです。辻原さん曰く、2回目の再読の時には父親の病気など、実生活に直結する悩みや屈託がイワンの苦悩より重かったとのことで、あーそれはそうかも、と思いました。イワンの苦悩は観念的なもので、「明日の食事にも困る」レベルの物質的な苦悩ではないんですよね。インテリのお坊ちゃんだし、まだ若いので、観念をこねくり回して勝手に嘆いているようなところはある。そこに共感できなくなると、いまいち波に乗り切れないのかも。

このように辻原さんはドストエフスキー信者ではないので、結構冷静な眼で、しかも作家の眼でカラマーゾフを読んでいるのが興味深いなと思いました。特に翻訳者の亀山さんとの対談で詳しく語られている「わたし」という語り手に対する考え方が実に作家的でした。そういう風に読むのかー。

もう一つすごく面白かったのが、ドストエフスキーとは関係ない部分での、辻原さんの文学論です。

音楽も小説も作り物です。非常に人口的なものです。一人の作家によって作られた、つまり虚構です。ということは、小説家は魔法使いだということです。小説家は教師のように何か役に立つものを教えるわけではありません。小説というのは人間の見る夢です。読んで描かれた世界を味わうというのは、夢を見るのと同じことだと思うのです。(P.26)

ドストエフスキーもそうですが、他の大作家、フローベールディケンズ、鷗外や谷崎などは、場面の成立に全力を傾けます。一つの場面をきっちりと作る。これができないのがエンターテインメントの作家です。エンターテインメントの作家は場面を作らないで、ストーリーで前に進めようとします。筋ですべてを語っていくわけですね。だから読みやすい。これに対して、場面というのは描写しなくてはいけません。描写するには文章力が必要になる。いいかげんな文章では場面は描けません。人物描写、風景、光の具合、味覚などのさまざまな感覚、それから、表情を描写したりするときには内面まで描写しなくちゃいけない。描写というのは大変なことです。それを支えるのは文章力です。文体です。文体がなければ場面は描けない。(P.28)

エンターテインメント小説にはエンターテインメント小説としての良さがあるので、文学と同じ物差しで測るものではないと思いますが、場面の成立が文学の要であるというのは大きく頷けます。確かに良い小説は軒並み描写が良い。バーンと目の前に情景として浮かぶような激しいシーンもあれば、目で字を追って言葉を解析していくうちに脳内にゆらゆらと立ち上ってくるシーンもあります。動的であれ静的であれ、良い小説のクライマックスは絵画的です。いかにうまく描くかで作者の力量が問われる。

辻原登の名前は正直初めて知りましたが、作家としての自分に自信を持っている態度が好ましかったです。現代の日本の純文学はほとんど読まないのですが、時間ができたら読んでみようと思いました。

スー・グラフトン『アリバイのA』を読みました

アリバイのA (ハヤカワ・ミステリ文庫)

アリバイのA (ハヤカワ・ミステリ文庫)

父親から譲り受けた本の1冊です。女性作家による女探偵ハードボイルドです。久々に正統派ミステリーを読みました。
舞台はアメリカ西海岸。弁護士の夫を毒殺した容疑で逮捕された女性が、服役を終えて探偵のもとにやってくることで事件が始まります。彼女曰く、身の潔白を証明したいと。

ミステリにもいくつかの様式美にも似た類型があり、いろいろ読んでいると「これはこういうパターンか」と思うようになってきます。しかしこの小説は設定にいくつか捻りがあるのが目新しかった。

ひとつは、事件が起きたのは8年前だということ。探偵が聞き込みをすべき相手は事件のことをそこまで詳しく覚えていないだろうし、現場も片付けられている。探偵にとって不利な条件です。

もうひとつ、殺人の方法が常備薬をつかった毒殺だということ。これは作中でも言われているのですが、犯人はターゲットが飲む薬のケースに毒入りの薬を混ぜておけばいいだけなので「この時間帯に被害者と一緒にいた人物」という探し方ではなくなるのです。これは事件を調査するのが8年後であるという探偵のタイムラグに配慮した設定(犯人がミステリ作品としての構成を考慮して動いてくれるわけはないので、メタい話になりますが)なのでしょうが、その分容疑者の幅が広がります。

そして最後、小説の冒頭3行の衝撃です。

わたしの名前はキンジー・ミルホーン。カリフォルニア州でのライセンスを持った私立探偵である。年齢は三十二、二度の離婚経験があり、子供はいない。おとといある人物を殺害し、その事実がいまも胸に重くのしかかっている。(後略)

読者は突然、語り手でもある主人公の探偵からさらりと殺人を告白されるのです。な、なんだってー!という感じでした…。これは探偵=犯人という想定をしなきゃいけないのかな?と思って読み進めると、すでに警察には届け出ているというし、事件は8年前だというのも明らかになるので、きっと犯人逮捕のいざこざで正当防衛だったんだろうなと見当をつけるのですが、じゃあ誰を殺したの?という謎が残る。つかみはオッケー、というような戦法で、まんまとのめりこみました…

そんなこんなで女探偵が奮闘するミステリです。車で事件の関係者に会いに行ったり、ジョギングをしたり、魅力的な男性とちょっといい感じになったり、泥のように眠ったりする主人公が、すごくアメリカンな感じがしました。この作品は1982年にアメリカで発表されたらしいのですが、女探偵が等身大で生きるようすを理想的に描いている感じがアメリカっぽいなと思いました。

表紙の黄色い車も格好いい。面白かったです。