- 作者: 辻原登
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2017/02/16
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』読書会のための資料として図書館で借りてきたのですが、あまりの面白さに一日で読み終わりました。
自称「ドストエフスキー嫌い」の著者がカラマーゾフの兄弟について朝日カルチャーセンターで講義をした記録に、『カラマーゾフの兄弟』の新訳を手掛けた亀山郁夫との対談などを加えて本にしたものです。語りかける口調なので、すっと頭に入ってきやすい。
「それは違うのでは」と思うところももちろんありますが、自分とは違う読み方を知るのは面白いし、新たな発見もありました。
辻原さんはカラマーゾフを3回読んでいるそうなのですが、その経緯がなかなか特殊でした。
1回目:中学生。夢中になって読み、ドストエフスキーの毒に染まる。しかし次第にトルストイなどを読むようになり、ドストエフスキーとは18歳くらいで決別。
2回目:25~26歳。連合赤軍事件をきっかけに再読するが、わざとらしい作り物の世界のように感じる。
3回目:60歳くらい?山城むつみのドストエフスキー論、亀山郁夫の新訳がきっかけ。カルチャーセンターで講義をする。
1回目は夢中で読んだのに、2回目ではシラケているというのが興味深いです。辻原さん曰く、2回目の再読の時には父親の病気など、実生活に直結する悩みや屈託がイワンの苦悩より重かったとのことで、あーそれはそうかも、と思いました。イワンの苦悩は観念的なもので、「明日の食事にも困る」レベルの物質的な苦悩ではないんですよね。インテリのお坊ちゃんだし、まだ若いので、観念をこねくり回して勝手に嘆いているようなところはある。そこに共感できなくなると、いまいち波に乗り切れないのかも。
このように辻原さんはドストエフスキー信者ではないので、結構冷静な眼で、しかも作家の眼でカラマーゾフを読んでいるのが興味深いなと思いました。特に翻訳者の亀山さんとの対談で詳しく語られている「わたし」という語り手に対する考え方が実に作家的でした。そういう風に読むのかー。
もう一つすごく面白かったのが、ドストエフスキーとは関係ない部分での、辻原さんの文学論です。
音楽も小説も作り物です。非常に人口的なものです。一人の作家によって作られた、つまり虚構です。ということは、小説家は魔法使いだということです。小説家は教師のように何か役に立つものを教えるわけではありません。小説というのは人間の見る夢です。読んで描かれた世界を味わうというのは、夢を見るのと同じことだと思うのです。(P.26)
ドストエフスキーもそうですが、他の大作家、フローベールやディケンズ、鷗外や谷崎などは、場面の成立に全力を傾けます。一つの場面をきっちりと作る。これができないのがエンターテインメントの作家です。エンターテインメントの作家は場面を作らないで、ストーリーで前に進めようとします。筋ですべてを語っていくわけですね。だから読みやすい。これに対して、場面というのは描写しなくてはいけません。描写するには文章力が必要になる。いいかげんな文章では場面は描けません。人物描写、風景、光の具合、味覚などのさまざまな感覚、それから、表情を描写したりするときには内面まで描写しなくちゃいけない。描写というのは大変なことです。それを支えるのは文章力です。文体です。文体がなければ場面は描けない。(P.28)
エンターテインメント小説にはエンターテインメント小説としての良さがあるので、文学と同じ物差しで測るものではないと思いますが、場面の成立が文学の要であるというのは大きく頷けます。確かに良い小説は軒並み描写が良い。バーンと目の前に情景として浮かぶような激しいシーンもあれば、目で字を追って言葉を解析していくうちに脳内にゆらゆらと立ち上ってくるシーンもあります。動的であれ静的であれ、良い小説のクライマックスは絵画的です。いかにうまく描くかで作者の力量が問われる。
辻原登の名前は正直初めて知りましたが、作家としての自分に自信を持っている態度が好ましかったです。現代の日本の純文学はほとんど読まないのですが、時間ができたら読んでみようと思いました。