好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

東京国立近代美術館「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」に行ってきました

www.momat.go.jp


GW中に行きました。真の目的はMOMATコレクション展で松林桂月の「春宵花影」を観ることだったのですが、せっかくなので企画展の福沢一郎展も観ておくかーと思って軽い気持ちで入ったら、想像以上のボリュームで楽しめました。
(MOMATコレクション展のことは、長くなってしまったので別記事にしてます)

シュルレアリスムは好きなのですが、具体的な作家や画家の名前はよく知りません。なので福沢一郎のことも今回初めて知りました。
1898年生まれ、1992年没。群馬県に生まれ、パリに留学したり、アメリカに渡ったりしながら社会風刺をこめた絵を描いていた人のようです。
戦争中、自由にものを言ったり書いたり描いたりできない時代に、ちょっと捻ったユーモアで痛烈に批判するところがフランス留学経験者って感じで好きでした。
ちょっと変わっているのが、もともと朝倉文夫のもとで彫刻を学んでいたという過去があること。パリに留学したのも彫刻を学ぶためだったのですが、そこでシュルレアリスム絵画に出会って画家に転向したという過去がある。展示されていた雑誌の、福沢一郎の批評にも書かれていたのですが、日本ではなくパリで絵画を始めたことで当時の日本の画壇の影響をうけずに画家としてスタートしたというのは異色の経歴だなと思います。

福沢一郎は1970年代に多くの地獄図を描いたのですが、その中の「トイレットペーパー地獄」はちょっと笑ってしまった。オイルショックでトイレットペーパー争奪戦になったという例の事件を題材にしているのですが、奪い合っているのがまんまトイレットペーパーなのでどう見てもユーモラスな絵になる。
他にも地獄図シリーズは西洋古典や仏典からもモチーフを持ってきて取り入れていて興味深かったのです。その中の絵に描かれていたキリスト教的悪魔と仏教的獄卒の立ち位置についていろいろ考えていました。絵の中で彼らは生前の悪行によって苦しみを受ける人間たちを見張っているのですが、「悪」側に立つ彼らは本当に「悪」側なんでしょうか?苦しめるという行為自体に楽しみを見出しているサディスティックな存在なのかもしれませんが、もしかしたらあるとき突然ハッと気が付いて「自分は何てことをしているんだ…」みたいになったりしないんだろうか。
何でこんなこと思ったかというと、地獄図がいかにも地獄だったからです。そして「悪」側に立つ彼らの後ろ姿が描かれていたのですが、いずれも顔が見えなくて、どんな顔で人々を見ているのかな?と気になったのです。
仕事ですから、みたいな感じで結構冷静なまなざしなんだろうか。それとも苦しんでいる人を見るのが楽しくて仕方ないんだろうか。あるいは苦しんでいる人を見守りながら助けてはいけないことが、彼ら自身の罰なのだろうか?そんなことあるか?
福沢一郎の地獄図は『神曲』と『往生要集』の影響が大きいそうなのですが、どっちも読んでいないので何とも言えない。ただ悪魔と獄卒を顔の見えない後ろ姿で描いていたのが非常に気になりました。


でも一番印象的だったのは「牛」です。

参考リンク)
【作品】牛 / Cows 1936年 | 福沢一郎記念館

戦時下の政府が夢のような国であると謳っていた満州国は、実際にはハリボテのボロボロで、穴だらけの空虚なものであったということを暗に込めた絵です。そういう風に表現するのね。
同じようなテーマで「楽園追放」という絵を下敷きにした「女」という絵もあるのですが、そちらよりも「牛」のほうが、下敷きの絵がない分わかりやすい。しかし牛の、あんなボロボロなのにしらっと立っているところとか、しかし後ろのほうで喧嘩していたりとか、なんだか妙な迫力がありました。静かなる告発。

東京国立近代美術館の福沢一郎展は2019/5/26(日)まで。
同じチケットで「MOMATコレクション展(所蔵作品展)」と「イメージコレクター・杉浦非水展」が観られます。いずれも同じく5/26まで。