好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

松村栄子『僕はかぐや姫/至高聖所<アバトーン>』を読みました

太宰治の『人間失格』を紹介した「新潮文庫の100冊」に「この主人公は自分だ、と思う人とそうでない人に、日本人は二分される。」という衝撃的なコピーがあるのですが、松村栄子の『僕はかぐや姫』もまさにそういう作品だと思います。17歳の千田裕生とその同級生たちのことを「これは自分だ」と感じる人にとっては、ガツンと一撃くらわされたような気持ちになるはず。少なくとも私はそうでした。これはあの頃の私だ、と思って、すっかりやられた。

『僕はかぐや姫』は2週間後に誕生日を迎える17歳の女子高校生・千田裕生のなんでもない日常を描いた短編小説です。2006年のセンター試験で自身を「僕」と呼ぶ女の子が主人公だ…というので世間を騒がせた問題文が、この小説です。主人公の裕生は自分のことを「僕」と呼ぶことを自然なことと感じている文学部の仲間とともに、異性といえば教師だけの女子校という一種特殊な環境でのびのびと過ごす。特に何か大きな不幸が降りかかるわけではない、けれども彼女は孤独である。

十七歳の彼女らは優しさがほしいとは露ほども思ってはいなかった。優しさとか思いやりとかいったお為ごかしをぬぐいさったところで、毅然と立っていられる強さがほしかった。何にも寄りかからずにまっすぐに立っている針葉樹の冷たい凛々しさがほしかった。

自分を取り巻いている存在や思惑がうっとうしくてたまらず、媚びない程度の微笑を愛用することで友人どうしの馴れ合いからも反目からも器用に身を遠ざけていた。誰にも何も期待してはいけないと自ら戒め、相手の横暴は許しても、わかったような同情やいたわりには必ず冷笑で一矢を報いずにはいなかった。
その実、心の中では自分にないものばかりを数え上げ、こんなにマイナス勘定の多い自分なら、いっそいない方が理にかなうと思い詰めて逃げ場所を捜していた。

17歳を少女と呼ぶことが適切かどうかというのはまた別の話ですが、女子校という特異な空間で、庇護される立場の彼女たちの自尊心と不安、感傷やリアリズムを言葉にするとこんな風になるんだな、と思います。私も女子校に通っていましたのであの環境の空気感は馴染みがある。自分が高校生だったころの一人称は僕ではなかったけど、それでも彼女たちの居心地の悪さは痛いほどわかる。上記引用を読むと、あああ…と当時の生きづらさをまざまざと思い出しました。

かつて自分があんなふうに自己満足的な悩みをこねくり回していたことを突きつけられるのは正直つらいし、今思い返せば愚かでもあるけど、当時の本人からすれば必死に生きていた。あんなふうにみっともなく懊悩しないと生きていけなかった。親しい相手を意図的に傷つけたり、べたべたした友情を嫌ったり、理想と現実とのギャップに苦しんだり、感傷に悶えて観念に溺れたり。あぁ、なんと愚かだったことか、しかし真剣だった。

先日高校時代の友人と久しぶりに会ったときにも思ったけれど、結局自分はあの頃と大して変わりはしないような気がする。あの時の悩みから目をそらすことはうまくなったけど、解決したわけではないし。根本的な答えを得られぬままわかったような顔をして「いまだにそんなこと考えているの?」「それが大人だよ」なんて言いたくはない。私は未だにあのときの少女を引きずっているな、と認めざるを得ない。きっと死ぬまで消えないでしょう。


もうひとつの短編小説『至高聖所<アバトーン>』は大学生になった女の子が、ルームメイトやサークル仲間と過ごす日々を書いたもの。こっちもこっちで、まだ大人ではなく、しかしもはや少女でもない中途半端な不安定さがすごく良かったです。

刺さる人にはぶすぶす刺さる感じの一冊でした。絶版だったのをポプラ社が文庫で再版してくれたとのことで、ありがとうございます!!
カバー外した表紙もおしゃれで、こだわりを感じました。