好物日記

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文楽「一谷嫩軍記」を観てきました

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東京の国立劇場文楽がかかる度に観に行くことにしているので、今回も行ってきました。
いつもは2部か3部に分かれているのですが、今回は選択の余地なく日付によって昼か夜かの違いのみ。スケジュールの都合で、鑑賞したのは源平合戦の一の谷の戦いを題材にした「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」でした。

たまたまこれまで観たことのない演目でしたが、字幕も出るしと思って特に下調べなどもせずに行きました。おかげで驚きの連続で、非常に面白かったです。どんでん返しが凄かった!作は並木宗輔とのことで、さすが、うまいわけだ…。
今回の公演は通しではなく、二段目「一谷陣門の段」に始まり「須磨の浦の段」「組討の段」、飛んで三段目「熊谷桜の段」「熊谷陣屋の段」までです。通しで観てみたいけど、その場合には、なかなかの長丁場になりそう。
wikiで演目全体を見たところ、熊谷次郎直実と平敦盛のストーリーと、岡部六弥太忠澄と平忠盛のストーリーの2つを含む話のようですね。そして今回の公演では、前者の熊谷次郎直実と平敦盛のストーリーにフォーカスした場面を上演していたと。一般的にもこの抜粋がメジャーなようです。
帰宅してから岩波文庫版の『平家物語』を見返したのですが、巻第九の一二之懸、敦盛最期あたりが演目に対応する場面になります。義経と並ぶ紅顔の美男子・平敦盛の最期は名場面のひとつで、うんうん盛り上がるよねぇここ、などと思いながら読み返して二度楽しみました。戦慣れしていない息子・熊谷小次郎直家に歴戦の武将である父・熊谷次郎直実がいちいちアドバイスするのがとても良い。

今回の公演では若き大将・平敦盛に初陣を迎えたばかりの息子を重ねてしまって、散々躊躇いながらもついに首を落とす熊谷直実の遣いと語りに圧倒されていたのですが、いやぁ、三段目がさらにすごかった。
三段目「熊谷桜の段」の冒頭で、熊谷の陣屋に植えられた桜の制札について地元の平民を使ったコメディ的な語りが入るのですが、「一枝を切らば一指を切るべし」、枝を折る者は指を切るぞよというお触れ、なんでいきなりこんな話が?と思ったら、大事な伏線になっていたのです。

知らない方が楽しいこともあるので、一応以下は隠しておきます。驚きを楽しみたい方はネタバレしない方が良いと思うので。


というわけで、隠したので、言ってしまおう。
「一谷嫩軍記」において、平敦盛後白河院落胤であるという設定になっています。そして義経もそれを知っていて、敦盛を救うために熊谷直実に対して息子を身代わりに討てとの含みを持たせた制札(一子を切るべし)を渡したのでした。そしてまぁ、熊谷はその意図を汲んで、息子を身代わりにしちゃうわけですよね。

首実検のために「ご覧ください、これが私が討った平敦盛の首です」というとき、わざわざ桜の制札に首を載せて義経に掲げ、妻の相模が「まぁ、あの首は!」と取りすがろうとします。そこで観客たる私は相模の反応からその首の正体を察したわけですが、細かいところまでは気づいておらず、そのあとで直実の口から桜の制札の解釈が語られて「そういう伏線か!」とようやく理解しました。そして息子を失った母親の悲哀と、息子の首を討った父親の苦悩に思いを馳せるわけですが、正直このときはまだ違う解釈をしていた。組討の段で討ったのは平敦盛であり、彼を討った以上は息子も討たねばという理屈で息子の首を差し出した(「ほら、私の息子も犠牲にしましたよ」と示すために首を出した)と思っていたのです。でもよく考えたらそんなんじゃダメなわけで、だいたい院の落胤の命と一介の源氏の侍の息子の命がイーブンなわけなどないのでした。それに桜の制札の目的が「院の落胤を助ける」ことにあるのなら、敦盛は生きてないといけない。
というわけで、当然、敦盛は生きています。このあと鎧櫃の中に匿われて登場し、石屋の親父さん(正体は平家の武士)に背負われて逃げ延びるわけですが、話に追いつけていなかった私は敦盛が生きているとは思っていなかったので、ここで藤の方と一緒に再びびっくりした…

平家物語」と「一谷嫩軍記」で語られるストーリーには当然のごとく相違があって、それが作品を面白くしているわけですが、「一谷嫩軍記」は「実は平敦盛は生きてました説」としたことがものすごい効果をあげている。義経や信長にもある王道パターンではあるのですが、ここまでうまく仕上げたものがあったろうか。敦盛の場合、もともと「平家物語」においてその最期がクライマックスとしてあまりに有名なわけですが、「一谷嫩軍記」ではそれを逆手にとってより効果的に仕上げているところが素晴らしい。
だって敦盛が実は生きていることにするためには、組討の段で落とした首は別人のものにする必要があるわけです。その別人に、首を落とす男の息子を持ってくることで、悪魔的なほど魅力的な脚本になっている。討つ側である直実の苦しみようが、また違う色合いを帯びてくることになるのです。
これはもともとの場面で「父親が苦しんでいる」という共通認識が鑑賞者側に期待されているのがポイントなんだろうな。演じる側は討たれる人物の正体を知っているので「味方を欺いて敵将の代わりに息子の首を落とす父親」として演じるのに対して、観る方は「息子と同じ年恰好の敵将を討つ父親の苦悩」を観ているわけで、その差異が最後に一致したときの鑑賞者の気持ちを、作者である並木宗輔は計算しつくしている。恐ろしい人だな…
それに初陣の息子を心配する相模と直実のやりとりも、後から思うとあぁ…となる。あのときもう、息子はいないのだ…。藤の方が敦盛の供養に笛を吹く場面もすばらしかったけど、あのとき障子に移ったのは生きている敦盛で、幽霊ではなかったんだな、というのも、後からわかる。一方で敦盛の妻である若い姫君が目も見えない瀕死の状態で「あぁ、敦盛様…」と討たれて首だけになった夫に触れて息絶えるという壮絶な場面があるのですが、あれは彼女が夫と信じて触れた顔は敦盛じゃなかったわけだ!いやぁ、よくできた話だ。

ただ、敦盛だって皇族の血を引いているとはいえ、平家として討ち死にするつもりだったのを横からやいのやいの言って無理やり助け出してしまうのだから、それはどうなのかとか、思ってしまうところはある。それに直実の息子はとんだとばっちりだし、そういう無情な指示を出す義経は平山並みの悪役に見えてしまう。しかし直実の息子については彼自身も納得済みで芝居を打ったわけで、彼にとっては忠義を果たした立派な最期になっていたからまだ救いはあるかな…。
直実が最終的に出家するというのは平家と同じエンディングで、そこにうまくつなげているのは見事でした。

脚本がすごくて、非常に楽しみました。よくできている…