好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

W・G・ゼーバルト『目眩まし』(鈴木仁子 訳)を読みました

読んでしまった。ゼーバルトの新装版4冊のうちの、3冊目です。残り1冊しか残っていない。ゼーバルトはもう他界してしまったし、あと1冊を読み終えたら今うちにある未読のゼーバルトが無くなってしまう。『カンポ・サント』とか『鄙の宿』とか『空襲と文学』とか、新装版に入ってないけど出さないのかな。買えなくなる前に買ったほうがよさそうだな。
しかしまだ新装版も3冊目です。毎回豪華な解説も楽しみの一つですが、今回の解説は池内紀さんでした。というのも、今回はカフカ巻だったから。

本書には4つの小編が収められています。

「ベール あるいは愛の面妖なことども」
「異郷へ(アレステロ)」
「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」
「帰郷(イル・リトルノ・イン・パトリア)」

どれも一つの独立した話として読むことができるんですが、この構成で一つの本にまとめているのには明らかに意図がある。それぞれの話が、結構しっかり繋がってもいるから。
冒頭の「ベール」はアンリ・ベール、すなわちスタンダールのことでした。ゼーバルトはだいたいユダヤ人をメインに据えることが多いので、あれ? ゼーバルトがなぜスタンダールを? と思ったけれど、イタリアについて書くための布石だったようだ(もちろんそれだけじゃないけれど)。続く「異郷へ」はイギリスに住んで25年経つという「私」がウィーンを経由してヴェネツィア、そしてヴェローナへ行くという話。そして読んでしまえばわかることだから書いちゃうけど、この行程は3編目の「ドクター・K」の足跡に対応している。

 一九一三年九月六日土曜日、プラハ労働者障害保険協会の副書記、ドクター・Kは、救護制度と衛生法のための国際会議に出席するべく、ウィーンに向かっていた。(P.115)

「ドクター・K」の話は上のような一文で始まるけど、この時点でドクター・K=フランツ・カフカとわかる。作品中では頑なにその名前が出てこないけど、一つ前の「異郷へ」の最後にしっかりカフカの名前が示されているので、読み始めてすぐに思い出して気付くことができます。
そして「ドクター・K」の話が狩人グラフスによって締めくくられると、次に始まる「帰郷」は再び「私」にバトンタッチして、彼自身の故郷W村を訪れることになる。狩人も医者も、姿を変えてちゃんと顔を出す。

この一連の流れとゼーバルトの(そして鈴木仁子訳の)端正な文章の美しさが実にたまらなかったです。静謐な、とでも言おうか。誠実で、落ち着いていて、わくわくした気持ちを抱いていてもはしゃぎすぎることがない、でもそわそわ嬉しい気持ちは伝わってくるような、この不思議な文章の魅力。鈴木仁子さん自身の文章も読みたいのですが、エッセイなどは書かれないのだろうか。読んでみたいです。
あと本書ではカフカも私(ゼーバルトだろう)もヴェネツィアに行くわけだけど、こんなにもヴェネツィアの美しさについて何も書いてない文章読んだの初めてだ……。これには先駆者がいたらしいけども。

ゼーバルトの文章の美しさを少しでも伝えるために、気に入っている部分をいくつか引用します。私ではちょっと愛が勝ちすぎて言葉にならないので、とりあえず、実物を読んで浸ってください。

(前略)やめられないのです、とサルヴァトーレは詫びを言った、仕事が退けたあとの数時間、昼間の忙しなさからようやく逃れられると、本を手に取らずにはいられません、今日みたいに読書用の眼鏡を編集部に忘れてきてしまった日ですらです。近視がひどくて、眼鏡なしでは小学一年生並みののろさで一語ずつひろって読むのがやっとなのに、この時間になると読みたい気持ちがただもう押さえられない。仕事が退けると、とサルヴァトーレは語った、孤島に逃れるようにして散文に逃れるのです。日がな一日編集部の騒音の波にさらされていて、けれども夕暮れには孤島にいる、そしてはじめの数行を読みはじめるときまって、はるか海原に漕ぎ出していくような気持ちになる。いまなんとか正気を保っていられるのは、ひとえに夕暮れの読書のおかげなのです。(後略)(P.104、『異郷へ』)

 校舎は村はずれの丘にあって、私にとって忘れがたいその日もまた、外に一歩踏み出すと、私の視線はいつものように開けた谷から左手の方角、村の屋根の連なりを越えて木深い丘陵へ、そしてその背後に高くそびえているゾルクシュローフェンの巌のぎざぎざの稜線へと導かれていった。靄の下に白く家々や農家がじっと静まり、牧草地がひろがり、道路や間道が車の姿もなく伸びていた。そのすべての上に、大雪の前にしかありえないような鉛色の空が、どこまでも遠く、重たくひろがっていた。首が折れるくらい仰向いて長いことじいっと、気が狂いそうになるほど閉ざされたその虚空に眼を凝らしていると、雪が舞いはじめるのを見たような気がした。私の通学路は師範館と助任司祭館のそばを通って墓地の高い壁ぞいと行くもので、その壁の尽きたところで聖ゲオルギウスが、足元に踏みしだいたグリフィンじみた有翼の獣のカッと開いた喉元に永遠に槍を突き刺しつづけていた。(後略)(P.191-192、『帰郷』)

これですよ! 美しさにため息が出る。彫刻みたいな文章だ。そして相変わらず、時折挟み込まれる写真の物言わぬ存在感がうまく調和している。
上記だってこんなのほんの一部ですよ。出てくる単語の繋がりとか、句点よりも読点を多用して言葉を繋いでいくスタイルとか、いつも惚れぼれします。

私は電車の移動時間で本を読むときは大抵音楽を聴いているんですが、ゼーバルトを読むときはいちいち音楽を止める。なんか、邪魔されたくなくて。移動時間も、数分程度の隙間時間ではなく、数十分乗りっぱなしというときが読み時です。できるかぎり文章に浸りたい。たまにちょっと前の部分に戻ってもう一度読み直したりもする。最高です。

池内さんの解説はカフカにフォーカスしながら、文学者らしい丁寧な読み方をしていて非常に面白かった。史実と照らし合わせたりなんかして。
また鈴木仁子さんは訳者あとがきで『目眩まし』という訳語を当てた理由について書かれていて、納得の言葉選びでした。ベールはイタリアを出すためだけに引っ張ってこられたわけではなかったことを再確認。各小編からモチーフを結び付けていく作業も楽しいな。

ひとまず読み終わりはしたけれど、一周目終わり、という感じで、読み切った感は無い。読みそびれている部分がまだあるという確信がある。もっと深く潜れるはずだ。
でも読み返すのは、新装版4冊目の『土星の環 イギリス行脚』を読んでからかな。しばらく寝かせておきたい気持ちもあるし。『土星の環』いつ読もうかな……