好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

現代思想 2020年6月号『汎心論――21世紀の心の哲学』を読みました

普段このブログに雑誌の感想を書くことはないのですが、とても面白かったので書いておく。とはいえ素人の感想なので、もしかしたら著者の意図と違う理解をしているかもしれないことはご了承ください。あと別に解説はしてないので、記事を読んでも汎心論が理解できるわけじゃないということもご了承ください。

現代思想』はこれまで買ったことなかったのですが、この2020年6月号は永井均のインタビューが載っていたために買いました。永井均は私が興味を持っていることがらに最も近い所を扱っている人だと思っている。「私たちの中の「私」だけがなぜ「私」なのか」というようなことを考え続けている人です。めちゃくちゃ面白いテーマなので、彼の著作はなるべく追うようにしています。
でも彼のテーマは汎心論じゃないはずだけどな?と思って読んでみたら、やっぱりそういう立場ではなかった。汎心論で扱われる「心」とはそもそも何なのかという意見を聞くためにインタビューされたようだ。心というシステムについて語っていたのですが、とても刺激的で面白かった。

だから、口が付いていてしゃべる身体ごとに心があるというのは、我々が採用している形式です。私の場合には、この物体が殴られたときにしか痛くないし、この物体しか動かせないというように、客観的に存在する物体としての身体の区切りと、心の一つ性、しかなさ性とが、きわめて独特の仕方でつながっているわけですが、他者の場合もそれと同じ形式になっているとみなすんですね。本当にそうかどうかは原理的に知りようがないけれど、他者の場合には、その原理的に知りようのなさこそがこの形式を共有するための根拠になるわけです。(P.16)

めちゃくちゃ面白いんですけど話し始めると長くなるので我慢する。今回は汎心論の話ですのでね。詳しくはインタビューをお読みいただくとして、そろそろ本題に入りましょう。

本誌を読むまで汎心論については何も知らないに等しい状態だったのですが、記事を一通り読んで、なんとなーく言いたいことが少しわかった気はします。『現代思想』ってのはよくできた雑誌で、前から論文を順に読んで行けば、だんだん理解できるようになっている。
最初は2016年にディヴィッド・チャーマーズが発表した『組み合わせ問題――汎心論の取り組むべき課題』の抄訳で、これを一番最初に持ってくる必要があるんだなっていうのは他の論文読んでて理解しました。ここからすべてが始まって行く。

チャーマーズは言う。

 汎心論とは、基礎レベルの物理学的存在が意識経験をもつという見方だ。これは心身問題への取り組みにおいて魅力的かつ有望な見方である。(中略)
 それにもかかわらず汎心論が直面する大きな問題がある。それは組合わせ問題(Combination problem)だ。これは粗っぽく言えば次の問いである。汎心論によれば素粒子や光子のような基礎レベルの物理的存在にも意識経験があるのだが、こうした経験をどのように組み合わせれば人間の馴染みのタイプの意識経験――私たちはこれをよく知っており愛しているのだが――が生み出されるのか。(P.27)

素粒子レベルのすべての物質にはすでに意識の種のようなものが存在していて、特定の形に組み合わさると我々の持つような「意識」として現れるのだが、どういう組み合わせなら現れるのかが問題だ――というように解釈したんですが、いやそもそもあらゆるものが意識経験を持つって、その前提ってどういうこと?というのが意味がわからなさすぎて、あまりよく理解できなかった。…というのは言い訳で、単純に頭がこんがらがってきた。まぁなんとなく基本はわかったけれども。

そんな調子で次に出会ったのはストローソンの論文。実はここでちょっと説得されかかってしまった。2006年にゲイレン・ストローソンによって発表された『実在論的な二元論――なぜ物理主義は汎心論を含意するのか』という論文です。

(前略)いまや私の理解するところでは、真の物理主義は汎心論――私はこれを、あらゆる実在的で具体的な事物は、たとえそれが非経験的存在をも含んでいるとしても経験的存在を含むとする立場と解する――さえも排除するものではないことを認めるときである。(P.58)

汎心論をめぐる議論のキーワードの一つに、創発というのがあります。意識や心を持たない物質が特定の仕方で集まると、そこに意識や心が生まれる、つまり「創発する」。それじゃこの創発という現象はいったいどういう条件で起きるのか?
ストローソンのロジックはおおざっぱに言うと「無から有が生まれるなんてありえないんだから、非経験的存在から経験的存在が創発するなんてこともありえない。すべてのものには因果関係があるので、経験的存在を構成する物質にはもともと経験的存在を生み出す素地があったはずだ」ということです。

XからYが創発することが本当に真である場合、YはXに、しかもXだけに、ある意味では全面的に依存しなければならない。それゆえYの全特性は、理解可能な仕方でXにさかのぼることができる(ここで「理解可能」とは、認識的ではなく形而上学的な概念である)。創発は、それ以上説明されないナマの事実[brute]ではありえない。創発という概念の核心には、創発する事物が現にそのようなものであることの理由が事物の本性の中に絶対に存在しない(したがってそれは神にとってさえ理解不能な代物である)という意味で創発がナマの事実ではありえないということが組み込まれている。Xから創発すると正しく見なされている任意の特性Yについて、それによってYが創発し、しかもY[の創発]にとって十分であるようなXに関する、しかもXだけに関する何かがなければならない。(P.66)

XからYが生まれるなら、XはYの種を宿しているはずだと。だから「経験的現象がまったくの非経験的現象から創発することはありえない(P.71)」と。うーん、な、なるほどね…?
とか思ってちょっと説得されかかりましたが、しばらくしたら冷静になった。やっぱり疑問に思うのは「そもそも経験って何?」ということです。ストローソンは経験を実在するものと見做しているように見えるけど、そもそもそれってホントにそうなの?経験って現象じゃないの?「私が確かに感じる」のは「感じる」という経験は確かだけど、それってほんとうに物質に還元していいの??

などと考えていると、次は『あらゆる事物は考える――汎心論と自然の形而上学』(2009年)というグラントの論文が続き、第一章で「存在することと思考することの同一性は、何に存しているのだろうか?」と論じられる。痒い所に手の届く構成だ。

考えるという行為には考える主体が要求されるから存在と不可避だって言うのはわからなくもない。でも意識というのは、音のように、運動状態にあることを前提とした現象なんじゃないのか?感じるという行為には一定の長さの時間が必要で、仮に世界のスナップショットを取ったとしても、そこには「意識」はないよな?特定の時点だけでは意識は成立しないよな?

そんな風に考えていたので、平井靖史の『ベルクソンの汎質論』はとても馴染みやすかったし、すごく面白かったです。

(前略)経験そのものの質料的条件とは結局のところ、宇宙が相互作用のシステムからなること、つまりは一つの現在瞬間ではなく一瞬間以上の過去が存続することに帰着するのではないか。(P.148)

これは汎心論とは違う見方だけど、これならわかる。ベルクソンかぁ、面白そうだな…

あと染谷昌義の『二元論の向こう側を探る自然学のプログラム』も、とっても面白かったです。マイケル・ターヴィーとロバート・ショウの「生物の志向的認識作用(知覚と行動)を自然現象の最基層とする(P.188)」という考え方と、それにまつわるいくつかの研究が紹介されている。「見るための生理的器官」の拡張とかドキドキする。すごいなぁ、こんな研究があるんだ。面白いなぁ。

汎心論特集とはいえ、汎心論ではないものもいくつか含まれていて、とっても面白かったです。汎心論にはやっぱり賛同できないけど、ある程度理解はできたし、初めて名前を聞いたときに感じた胡散臭さも和らいだし。
というか汎心論って名前がいかんのではないかと思う。心って言葉はちょっと広すぎるし、正体不明すぎる。
でも心に対するアプローチの奇抜さは、なんていうか「そんなのあり!?」という感じで面白かったです。そういうルートがあるんだなぁ。結果的に正解ではなかったとしても、何か別の卵を産み落とすかもしれないですよね。道は多いほうがいろんなところに行けそう。

いやぁ、現代思想、めちゃくちゃ面白かったです。しばらく購読して楽しもうと思います。