好物日記

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グレッグ・イーガン『万物理論』を読みました

万物理論 (創元SF文庫)

万物理論 (創元SF文庫)

人生初のイーガンを読みました。実は結構前に読み終えてはいたのですが、いろいろあってブログに書きそびれていた。でもとても面白かったので、記事として残しておくことにします。

だいたいイーガンと言えば「ザ・ハードSF!」というイメージで、大学院生レベルの数学とか物理学とかの知識がないと読めないんでしょ?みたいな偏見が、私の中にずっとありました。でもしょっちゅう名前を見かけるので気にはなっていたところに、仲間内でイーガン読もうぜ!というムーブメントがあって、未読だったのでそれに乗っかって読んでみたのでした
読んでみたら、確かに「ザ・ハードSF!」ではあるんだけど、この小説の面白さはそこだけじゃなかったです。嬉々として語られる宇宙モデルをほとんど理解できなくても、案外読めるもんですね。多分理解できればもっと楽しめるのは確かなんだろうけど、わからなくてもわからないなりに拾い上げて読む余地はある、というのが一番大きな発見。

さてこの『万物理論』ですが、すべての自然法則を包み込む単一の理論である「万物理論」が完成しつつある2055年、ステートレスと呼ばれる無政府の島で開かれる学会で、学者やカルト集団や謎の派閥やジャーナリストたちが……ドタバタする話です。このドタバタするというのがものすごく乱暴な包括であるのは間違いないんですが、あまりにもたくさんのことが起きる上にネタバレにもなりかねないのでこのくらいの表現でお茶を濁しておく。

ちなみにこれ以降の記事でも、ネタバレをしているつもりはないのですが、うっかりネタバレに該当することを書いている可能性はあります。未読の方はご注意ください。


私がこの小説で一番いいなぁと思ったのは万物理論を巡る学術的論争ではなくて、一般の人々が構成する2055年の社会の描き方です。実際に小説が発表されたのは1995年なのですが、未来社会の描き方には多分イーガンの思想がかなり入っていて、それがとても良かった。しかも小説としても、ものすごく贅沢にいろいろ盛り込んでいる。

この小説は科学系の映像ジャーナリストの一人称で話が進むのですが、彼が≪自発的自閉症者協会≫に所属するロークという人物に取材をするシーンがあります。「自発的自閉症者」は対人関係に影響を及ぼすラマント野と呼ばれる脳の一部に損傷を負っていて、しかしそれは完全な自閉症の人ほど大きい傷ではない。それでも≪自発的自閉症者協会≫の人々は、自ら手術によってその損傷を広げることの合法化を訴えている。

 ロークは慎重にしゃべりはじめた。「完全な自閉症者の多くは、ほかの部位にも脳損傷があり、各種の精神遅滞を患っています。一般に、わたしたち部分的自閉症者はそうではありません。ラマント野にどのような損傷を被っているにせよ、わたしたちの多くは自分の病気を理解できる程度の知性はあります。自閉症でない人々が、自分は愛情を獲得したと信じる能力をもっているのも、わたしたちは知っています。しかしわたしたちの協会では、その能力がないほうがよりよく暮らせるという結論をくだしたのです」
「よりよく暮らせるという理由は?」
「その能力が、自己欺瞞の能力だからです」(P.93)

「(中略)論争に勝とうと思ったら、考えうるもっとも知的に怠惰な方法とはなんでしょう?」
「答えを言ってほしいんですが。なぞなぞは苦手なので」
「論争相手が”人間性(humanity)”を欠いている、と主張することです」(P.100)

もうこのロークとの会話だけで私はすっかりイーガンにやられてしまった。クールすぎる。
たとえば自由意志は存在するかという点については、まだ議論の余地があるかもしれない。けど他人を理解するなんて幻想だという点については理論的にはまず間違いなくて、我々の社会や人間関係というのは砂上の楼閣みたいなものであろう。他人を理解しようという行為には「理解しようとする側の思考と想像の範囲において」という絶対的な制限が課せられているうえに、その思考と想像の結果については決して答え合わせできないのだ。
しかしその非情な事実に立ち向かうには人類の精神はあまりにも貧弱だし、生存戦略的にも真実を直視することには不利益しかないので、部族とか宗教とかいろんなシステムで幻想を補強してきたのが人類文化の歴史である、と私は思っている。なのでイーガンが「自発的自閉症者」というツールを使ってその欺瞞を正面からぶつけてきたとき、私の中のイーガン好感度は急激に上がったのでした。いいなぁ。

そしてこの「自発的自閉症者」のような考え方が様々な形でストーリー全体に被さってくるのがこの小説の凄い所で、たとえば「汎性」もその一つの現れです。「汎性」というのは小説世界においても多義的な意味を持つ単語のようだけれど、おおざっぱに言えばジェンダー的に「どちらでもない」を選択した人の総称。時代が進むにつれて、男性である/女性であるという区別が単純に身体的構造の差異という以上の意味を持つようになってきたとき、その過剰な意味を手放すことを選択した人たち。
多分こういった選択はある程度文明が豊かにならないとできないことで、最近ジェンダー論が盛んになっているのもそういう社会的リソースの余裕が背景にあるんだろうなと思っている。生きるか死ぬかの瀬戸際の時にそんなこと言ってられないもんね。とはいえ人類の文化において経験的に蓄積されてきた、男女の役割分担というシステムが生んできた効率の良さをいったん脇に置いて、非効率であってもその価値観を捨てるっていうのは、結構な冒険であるはずなのだ。でも今の文明レベルなら非効率を選択することも可能ではありそうで、実際やってみたら多分これまでと違う尺度での効率の良さが新たに見つかるかもしれない。だったらここらでひとつ冒険してみるのも種としてプラスになるかもしれないよね、とも思う。でも多分この論法はあまり人心に響かないかな……。あと残念ながら生きるか死ぬかの瀬戸際の世界というのは今も存在しているので、並行してそれらの問題への対処も必要だろう。

話が逸れてしまった。
この小説で繰り返し現れる「自発的自閉症者」的な考え方は、広く言えば既存の価値観を越境するということなんだと思う。ヴェールを取り払って現実を直視した時、その醜さに思わず目を覆うかもしれないけど、そろそろその一歩を踏み出してもいいんじゃないか?
今ではすっかり科学の子となった我々は、たかだか神が死んだくらいで絶望を味わうことはない。人類が長いこと精神的な拠り所としてきた宗教的権威の脆弱な部分を、数百年かけて少しずつ科学的権威を使って改修してきたからだ。それはこれまで信じてきたものをゼロにしたわけではなくて、違う素材のもので置き換えるという作業だった。
べつにそれはいいのだ。幻想の上に成り立つ精神が人間なんだから、精神的な拠り所自体が悪いわけではない。ただ、あんまり精神的に守りに入ってしまうと固定観念ガチガチになってしまうので、そんな世界はつまらないよね、と思う。これまでだっていろんな常識がひっくり返ってきたんだから、これからもどんどんひっくり返っていけばいい。それが私の意に沿うものではなかったとしても、「それって人としてどうなの」というような怠惰な言葉は使わずに、他者というのは理解できないものなんだということを前提としたうえでの着地点を目指せば、もう少し過ごしやすい世界になりそうな気はします。うーん、気をつけよう。

あと書きそびれましたが、小説の冒頭に掲げられた『テクノ解法主義(リベラシオン)』という詩(イーガンの創作)がとっても良かったです。イーガンの作品、他にも読んでみよう。