好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ジョルジュ・ペレック『給料をあげてもらうために上司に近づく技術と方法』を読みました

Twitterでその存在を知ってからずっと欲しかった本でした。本屋に行っても置いてないし、版元にもないかもしれないという噂のある幻の本だったのですが、ダメ元で紀伊國屋書店で注文してみたら難なく配送してくれた。ありがとう紀伊國屋書店!さすがだ!!

事態を簡潔にするために、というのも何事も簡潔にすべきですから最初に言っておくと、この本はハウツー本ではありません。ビジネス書でもありません。給料を上げてもらうために上司に近づきたい人が読むのに適した本ではないのでご注意ください。

そもそもなんでそんなにこの本が欲しかったのかというと、これが実に変な本だからです。冒頭ページにフローチャートがついていて、そのフローチャートを本一冊かけて隈なく巡る本。句読点もなくひたすら矢印を執拗に執拗に辿って行く本。
サンプルとして冒頭部分をご紹介しましょう。

じっくり考えたあげく勇気をふりしぼって昇給をお願いしようと決心したあなたは配属先の課長に会いに行くことにします事態を簡潔にするためにというのも何事も簡潔にすべきですから課長の名をムッシュー・グザヴィエとしましょうつまりムッシューXいやX氏ということになりますこうしてX氏に会いに行くわけですが可能性は二つに一つX氏が自分のオフィスにいるかそれともいないかですもしX氏が自分のオフィスにいるならもちろん問題はないのですが…(以下略、P.7)

めちゃくちゃ読みにくいこの句読点なしの文章が、100頁ちょっと続きます。でも面白いから大丈夫です。
主人公の「あなた」は昇給をお願いしようと思って上司のX氏のところに行こうとするのだけれど、ここでフローチャートの最初の分岐である「X氏がオフィスにいるか?」という質問に出会う。ここで答えが「はい」なのか「いいえ」なのかで、「あなた」が次に取るべき行動は変わる。そして次々と選択肢が現れて、その結果によって昇給への道が近づいたり遠ざかったりする。
多分テキストアドベンチャーゲームを思い浮かべるのが一番近いと思います。Aを選んだあなたは4へ、Bを選んだあなたは5へ、みたいな。ただこの作品の特異なところは、「あなた」の行動によって左右されるのはごくごく一部だということ。たとえ「あなた」がどんなに優秀でも、X氏がオフィスにいるかどうかを左右することはできない。そしてもう一つの特異さが、すべての読者が強制的にすべての選択肢を辿らなければならないこと。つまり、X氏がオフィスにいようがいまいが、読者は両方のパターンを辿らなければならない。テキストアドベンチャーゲームはストーリーが枝分かれしていくのを楽しむものだけど、この本はストーリーの流れは一本しかない。そこにすべての選択肢を詰め込むのです。あらゆる事態を考慮して。

巻末に収められたベルナール・マニェの素晴らしいあとがきに、この奇怪な作品が生み出された経緯が書かれていました。それによれば、この作品は『プログラム学習』誌に掲載するテキストだったとのこと。なるほど、納得。ものすごくプログラムチックな構造をしている。
そしてもう一つ面白かったのが、レイモン・クノーフローチャートをもとにした作品を書いたそうなのですが、彼の作品はツリー状、テキストアドベンチャーゲームにより近い形だったということ。

 また、先述のペレックの手紙から分かるのは、(グラフによる経路という)原則においては同じ構造から出発したレイモン・クノージョルジュ・ペレックがいかにまったく異なる手法を展開したかということである。『あなたまかせのお話』において、クノーはどの経路を辿るのかという選択を読者に委ねた。提起されている選択肢のなかで、他のものを捨てただひとつの選択肢を選ぶのは読者の責任ということになる。反対に、ペレックは最初からフローチャートの線的「翻訳」を選んだ。すなわち、もはやひとつの経路を選択するのではなく、すべての可能な経路を始点と終点でつながるようにしたのだ。(P.112-113)

クノーがツリー状の方法に行くのは、わかる。実験的だけど理解の範囲だ。でもペレックの方法はあまりにロックではないですか。すべての経路を辿るってどういう思考なんだ。だからこそ良いんだけど!私は今回初めてペレックを読んだけど、もう作品全部読みたい。こういう変なことする人は大好きだ。

この本を読んでいると、執拗に繰り返される言葉がだんだんクラシック音楽のメインフレーズのように親しみを覚えるものになっていく。フローチャートの分岐が訪れるたびに「可能性は二つに一つ」というフレーズが繰り返し使われるのがその代表で、目にするたびに「おお、来た来た」という気分になる。それよりもちょっと使用頻度の低い「事態を簡潔にするためにというのも何事も簡潔にすべきですから」のフレーズは特に好きで、この冗長の権化みたいな作品の中で出てくるところが良いのだ。
それから分岐の結果最初からやり直しということになって、もう一度同じ矢印経路を通るときに微妙に言葉を替えてくるところがニクい。マニェのあとがきでも書かれている点ではありますが、何度も繰り返されるだけようでいてちょっとずつ違っている言葉、その一部で感じる違和感は、最後まで読み終わったときに理解することでしょう。お楽しみに。

いやしかし、こういうのめちゃくちゃ好きです。言葉に対する挑戦って、既存世界のルールに対する挑戦につながるので、とてもロックで格好いいと思う。実験的小説の最先端って感じだ。ペレック、他にも読まなくては…。そして日本語訳が結構出ていることに感謝。フランス語でも読みたいな。