好物日記

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松本清張『昭和史発掘 4』を読みました

分厚い本を読んでいる中、せっせと読み進めているのが松本清張の『昭和史発掘シリーズ』です。4巻まで読了。
これまで文春文庫新装版のリンクを記事冒頭に貼っていたのですが、新装版だと巻数と中身がズレることに気付いたのでリンク張るのは止めます。
第4巻のメニューは以下の通り。

・天理研究会事件
・「桜会」の野望
五・一五事件

巻を追うにつれて戦争の気配が色濃くなっていくけれど、4巻で昭和7年なら、最終巻はどこまで行けるんだろうか。まぁ読めばわかる話なのでわざわざ調べてはいないけど、そこまで進めないよな…
ちなみに本書の雑誌連載期間は1965年10月~1966年4月にあたります。

まず最初のトピック。
理研究会というのは中山みきが開いた天理教から分岐した一派で、大西愛治郎がリーダーにあたります。天理教は名前くらいは知っていましたが、天理研究会といのは全然知らなかった。しかしとても面白かったです。
天理教の始まりの部分からちゃんとしっかり書かれていてとても助かりました。だんだん組織が大きくなって世俗化した天理教に対して反旗を翻したのが天理研究会だったとか。まぁそれは流れとして自然かなと思うのですが、天理研究会は天皇家を正当な統治者として認めない一派だったため、国体を脅かすものとして公安に目を付けられて検挙されたのでした。

 予審判事の取調べでも、大審院の訊問でも、大西以下は何の恐れるところもなく所信を表明していたという。彼らが「不敬な言葉」を大胆率直に次々といいだすものだから、かえって取調べる側が狼狽したと伝えられている。
 それは、彼らが「研究資料」を政府の大官筋や、文部省の専門、普通両学務局や、代議士などに何の恐れるところもなく発送していたことでも分る。だいたい、不敬事件では、被告が供述の字句に慎重で、取調べ側が苦心してその言辞をひきだそうとするものだが、天理研究会の被告たちは、教義の宣伝とばかりに積極的に「不敬」事実を開陳したから取調官のほうが困惑した。(P.56)

大検挙といえば共産党の事件が第3巻に載っていましたが、それとはまた違う検挙のされようが非常に面白かったです。違うルールで生きてる感じが凄い。信仰って強いなぁ。


さて、このあと2つのトピックは、実際にはほとんど繋がっています。軍の若手将校によるクーデター計画の話。高橋欣五郎による「桜会」の計画と発覚、そしてちらちらと見える大川周明北一輝あたりの大物の姿。全体的に、彼らの思想の若さが…。清廉なのは良いことだし、若さというエネルギーは国にとっても必要ではあるんですが、まぁねぇ、だいぶ幼い印象はありますよね。簡単に食いものにされそうな危うさをビシビシと感じる。

ちなみにこの「昭和史発掘」に出てくる中でガンガン検挙されてるのが天皇制に対抗する勢力、主に共産主義勢力です。でも軍部の若手将校が反天皇制なんてありえないので、また別の勢力なんですよね。いずれも農民の窮状や支配階級の堕落を問題視していながら、解決のための答えが全然違う。天皇制やら共産主義やら社会主義やら議会制やら、いろいろ答えがあって混乱してくる…。答えは一つではないので余計にややこしい。
特に興味深いのが、正義感に燃えて立ち上がったはずの若手将校たちが、自分たちの正義に酔って、だんだんと増長していくところです。自分は正しいことをしているんだっていう自信ほど、信用ならないものはない。

 ――ここで一言したいのだが、ここまで書いてきて気づくのは、橋本らがしきりと料亭を使用していることである。その会合場所に新橋などの一流料亭が使われている。桜会も初めは資金がなく南京豆でビールを飲んでいたが、のちになると、何かといえば料亭を使った。資金が豊富になったことが分る。橋本らはいつか幕末維新の志士気どりになって、酔うては枕す美人の膝、を衒ったのである。
 しかし、そもそも彼らが蹶起した理由は何か。兵士の故郷である農村が疲弊し、百姓は娘を売らなければ食ってゆけない状態に義憤を感じたのではないか。そこから財政界の粛正、日本の刷新をめざしたのではなかったか。しかるに、彼らは運動という名を藉りて料亭で豪遊をする。この行動の矛盾は当時でも心ある少壮将校連に非難された。(P.158)

桜会のクーデターは事前にバレて止められるけれど、将校たちの義憤は五・一五事件という形で噴出することになる。国体をひっくり返せるほど研ぎ澄まされたクーデターではなかったわけではありますが。
五・一五については日本史のテストに出るレベルの歴史的事件のひとつですが、今回初めて知ったのが、民間組も一枚噛んでいたということ。とはいえ軍人組と民間組で違うチーム組んで行動しているし、テンションも違ったようです。軍人と民間人がひとつのチームとして行動するっていうのは、やっぱり難しかったんだろう。それが当然だという思考の枠から出ることは、彼らはできなかったんだな。

でも五・一五を引き起こした若手将校たちは、世の中の既成構造に異を唱え、問題意識を持って事に当ろうとしている。「これじゃだめだからこうしたらどうか」という風に考えて行動することができるっていうこと自体は、悪いことではないはずだ。当時の世論も彼らに同情的だったわけだし。
けど、やり方がやっぱりね。問答無用はちょっとね。問題解決方法の検討も足りなさそうだし。計画も結構杜撰だし。行動さえすればあとは誰かがなんとかしてくれるって感じが、頼りないよな。

しかしまあ後世の人間が過去の歴史をとやかく評するなんてのは所詮は岡目八目で、その時代の真ん中にいるときには何が正しい行動かなんて、まずわからないものだ。今の尺度で裁くのは傲慢なのでしょう。

次は二・二六事件へ向っていく様子。