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『世界文学アンソロジー いまからはじめる』を読みました

世界文学アンソロジー: いまからはじめる

世界文学アンソロジー: いまからはじめる

  • 発売日: 2019/07/19
  • メディア: 単行本

とある縁があって、『世界文学アンソロジー』を紹介いただき、読みました。
2019年7月に刊行された、生きた世界文学を集めたアンソロジーです。編者は東大の大学院出身の教授・准教授5名の方々。各々の専門は比較文学(秋草俊一郎)、日本文学(戸塚学)、ユーゴスラヴィア文学(奥彩子)、19世紀フランス文学(福田美雪)、ラテンアメリカ文学(山辺弦)とバラバラで、バラバラだからこそ面白い本になっている。文学の新しい風が感じられて、すごく良かった。

具体的に何が良いかというと、まず選ばれている作品の幅広さ。
全27作品が3作品ずつ、9つの章に分けられて紹介されているのですが、その章立てが面白い。

 第1章 言葉――すべてのはじまり
 第2章 自己――まるで檻のような
 第3章 孤独――記憶はさいなむ
 第4章 家族――かけがえのない重荷
 第5章 戦争――崩れゆく日常
 第6章 環境――わたしたちを取り巻く世界
 第7章 愛――いつだってつなわたり
 第8章 悪――絶対やってはいけません
 第9章 生死――この世のむこう側

それぞれ何が収録されているか、気になるでしょう!!作品を全部挙げることはしませんが、ここから目次が見られるので、気になる方はぜひご覧ください。邦訳リストまでダウンロード可能になっていることにびっくり。なんと気前の良い…!

このアンソロジーでは意図的に広く「世界文学」から取ってきているのが特徴的だなと思いました。これまで古典といわれてきた世界文学の名作が「西洋文学」で、どうしてもヨーロッパ世界目線でのセレクションになりがちだったのを、新しい「世界文学」を定義しなおそうとしている印象。例えば第一章「言葉」にはヘブライ語で書くイスラエル人作家サイイド・カシューアの『ヘルツル真夜中に消える』という作品が収録されています。そして「日本も世界の一部」ということで、日本の作品もいくつか入っているのが面白い。あ、あと詩も含まれています。

 現在、私たちの身のまわりには、めまぐるしいほどの情報があふれています。常に更新されるTwitterのタイムラインを追うだけで時間はすぎていきます。それなのに、いま、この場所から、時間も距離も遠くはなれたことを、なぜ読まないといけないのでしょうか。
 また、この本を手にとってくれた方のほとんどは日本語話者だと思いますが、なぜ最初から日本語で書かれたものではないものを読むのでしょうか。
 言語だけではありません。環境も、境遇も、思想も、年齢も、人種も、国籍も、性別も、時代もちがう人の話をなぜ読むのでしょうか。(P.9)

上記は編者のひとりである秋草俊一郎さんによる「まえがき」の一部ですが、この「まえがき」がまた良い文章で…!なぜ読むのか、そうだよなぁ。そこに本があるから。その本の中には、知らない世界が広がっているから。読まなくても多分生きていけるけど、でも私が読まずにいられないのって、なぜだろうか。

そしてこのアンソロジーのもうひとつ面白いポイントが、章間のコラムと、章末のブックガイドです。ブックガイドについては巻末に難易度別に分類した一覧も載っていて、読みたい本リストがずらりと長くなること請け合い。こういうの制覇したくなっちゃうんですよね…
コラムは「翻訳」「アダプテーション」「オリエンタリズム」「自伝文学」「移民・亡命」「ノーベル文学賞」「魔術的リアリズム」「メタモルフォーゼ」「日本における世界文学」の9つのテーマで書かれています。とくに「翻訳」の、堀口大學ジャン・コクトーの詩を訳した「シャボン玉」に関する話がとても面白かったです。glisserの訳し方を例に挙げて、翻訳という行為について書かれていました。


さてさてようやく収録作品の話になりますが、このアンソロジーに収められている作品の多くが初読で、とても楽しかったです。とくに中東やアフリカの作家はあまり馴染みがないので、登場人物の名前からして新鮮な感じ。アメリカ文学は最近、ヨーロッパ以外にルーツをもつ作家が大活躍している印象ですが、全部読むわけにもいかないし、心理的な距離もあって手が出しにくい。距離があるものこそ読んでみたいとは思うのだけど、距離があるからこそ手に取る機会が少ないのも事実で、こういうアンソロジーで短い作品に触れられるのはありがたいです。

収録作品のうち、とくに気に入ったいくつかの作品に触れておきます。

まずダントツで好きなのが、第5章「戦争」に収められた、パウル・ツェラーンの『死のフーガ』という詩。これは、本当に、めちゃくちゃ衝撃的でした。最初読んで、なんだこれなんだこれ、とうろたえ、少なくとも5回は読み返した。

夜明けの黒いミルク私たちはそれを夕方に飲む
私たちはそれを昼と朝に飲む私たちはそれを夜に飲む
私たちは飲みに飲む (p.177)

上記は詩の冒頭部分ですが、句点なしの執拗な繰り返し(まさにフーガ!)が実に不穏でぞっとする。詩が進むにつれてだんだん情報量が増えていくけど、その先には絶望しか見当たらない。煙となるしか出口が無い。「私たちは空中に墓を掘るそこなら寝るのに狭くない」(P.178)。何度読み返してもぞっとします。妙にリズミカルで、でも淡々としていて、ほんとなんなんだこの言葉の魔力…。訳は平野嘉彦さん。

もうひとつ特にお気に入りなのが、第9章「生死」の一編である、ジュール・シュペルヴィエルの『沖合の少女』。大西洋の沖合に浮かぶ不思議な街でたった一人過ごす12歳の少女の話です。訳はアンソロジー編者のひとりでもある福田美雪さん。
船が近づくと少女は深い眠りに襲われ、街全体も波の下に沈む。でも近くに船がいないときは街中の家のよろい戸を開けてまわり、いつのまにか自然発生する食料を食べ、かまどに火をおこしたりする。彼女は何者なのか?
誰もいない街でたった一人毎日を過ごす少女の描写がとても好きです。いいなぁ、これ。すごく好きな雰囲気でした。


他にも好きな作品はあるのですが、きりがないのでこのへんで。
私の中の文学世界がさらに広がって、大満足でした。越境する感じがとても好き。「世界」という単語が意味する範囲は多分今さらに広がっていて、経済市場だけではない、文学的なマップもどんどん広がっているはずなのだ。面白いな。わくわくするではないですか。知らない文化の本こそ読みたい。
もっとアンテナ張っていこう。