好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

『キャサリン・マンスフィールド傑作短編集 不機嫌な女たち』を読みました

白水社から2017年に刊行された、キャサリンマンスフィールドの短編集です。2020年1月現在、多分一番新しい訳のはずです。
今年の夏にニュージーランドへ行く予定があるので、当地の作家の本が読みたいなと思っていましたところ、キャサリンマンスフィールドニュージーランドで少女時代を過ごしたと知ってそれじゃ読んでおくか、と。あと、某読書会の課題本になったという理由もあります。全13編の日本オリジナル短編集なのですが、これがまた、どれも良かった……キャサリンマンスフィールド、完璧にお気に入り作家になりました。

ちなみにこの本、装丁がとっても可愛いです。カバーをめくった裏表紙のおしゃれさに感動しました。

さて内容ですが、本書は3編の小説×4グループ+1つの小説、という構成になっています。具体的には以下の通り。()内は原題です。

宴の後
 『幸福 (Bliss)』
 『ガーデン・パーティー (The Garden Party)』
 『人形の家 (The Doll's House)』
満たされぬ思い
 『ミス・ブリル (Miss Brill)』
 『見知らぬ人 (The Stranger)』
 『まちがえられた家 (The Wrong House)』
冒険の味
 『小さな家庭教師 (The Little Governess)』
 『船の旅 (The Voyage)』
 『若い娘 (The Young Girl)』
勝気な女
 『燃え立つ炎 (A Blaze)』
 『ささやかな過去 (A Little Episode)』
 『一杯のお茶 (A Cup of Tea)』
男の事情
 『蠅 (The fly)』

どれも良いのですが、冒頭の『幸福』ですでにだいぶ持っていかれました。もう幸せで幸せで仕方のない気分のバーサという女性が、お客を招いて晩餐会を開く話です。晩餐会のお客様は、劇場経営を始めようとしている一風変わったノーマン・ナイト夫妻、詩人のエディ・ウォレンという青年、謎めいた若い女性ミス・フルトンの4人。夫ハリーとの間には赤ん坊の娘が一人いて、乳母も料理人もいるような上流階級の家庭が舞台です。

 バーサ・ヤングは三十歳だったけれど、それでもいまだにこんなことがしたくなる瞬間がある。たとえば、歩くかわりに走ってみたくなったり、歩道だろうがなかろうが急にダンスのステップを踏んでみたくなったり、車輪転がしをしてみたくなったり、空中に何かを放りあげてはキャッチしてみたくなったり、あるいはふと立ち止まって理由もなく、まったくなんの理由もなく、笑いだしたくなったりするのだ。(P.6)

上記は『幸福』の冒頭部分なのですが、この作品に限らず、マンスフィールドは出だしが良いです。『ガーデン・パーティー』の「そして、結局のところ、まさにうってつけの天気になった。(p.30)」もすごくいいし、『見知らぬ人』の「埠頭に集まった人たちの眼には、その船はもう二度と動くことがないように見えた。(P.83)」も好きだ。出だしが良い小説は、それだけでなんだか安心する。

さて、そんな幸せいっぱいなバーサは晩餐会の準備をして客を迎え入れ、ミス・フルトンとふたり、月下に輝く梨の木を見つめて「互いのことを完璧に理解しあって(P.23)」いると確信する。…のだけれど、まぁこういう作品にはネタバレも何もないので言ってしまうと、夫ハリーはミス・フルトンと浮気をするのです。この晩餐会の前までずっとバーサは少女だったのですが(たとえ子どもを産んでいても)、圧倒的幸福感に包まれて「生まれて初めて、夫に対して欲望を覚え(P.25)」たその時、初めて女になる。そして少女から女の側へ押しやるのがミス・フルトンなのだ。競争相手の出現。敗北を知ったときの描写が、この本で一番好きな場面です。世界が止まるような空気感が出ている。上手いなぁ。

本書を読んで、マンスフィールドって「通じ合っているつもりが全然通じ合ってなかった」というパターンが結構多いんだな、と思いました。
そしてそのことで、どうしても気になったのが『ガーデン・パーティー』です。上流階級の家の末娘ローラが、近所の貧しい家の男性が死んだことを知って、予定されていたガーデン・パーティーを中止にしようと言い出す話。この作品は過去に読んだ『大学教授のように小説を読む方法 新増補版』の「テストケース」として載っていたのですが、実はその読解例でどうしても腑に落ちなかった部分があったのでした。それはまさにラスト部分の解釈。中止にしようというローラの意見は一笑に付されてパーティーは決行されるのですが、母親の提案により、ローラが一人で亡くなった男性の家にバスケットに入った御馳走(パーティーの残り物である)を差し入れしに行くことになります。

 ローラはベッドに近づいた。
 若い男が横になっていた。ぐっすりと眠っていた――とても健やかで、とても深い眠りに落ちていた。(中略)この人にとっては、ガーデン・パーティーも、バスケットも、レースのワンピースも、何の意味もない。そういうものから、遠く離れているのだ。若い男は非の打ちどころがなく、そして美しかった。みんなが笑っていたあいだに、バンドが演奏をしていたあいだに、こんな驚くべきことがこの路地で起こっていたのだ。幸せだ……幸せだ……何もかも問題ない、眠っている顔はそう言っていた。これはあるべき姿なのだ、わたしは満ち足りている、と。(P.56-57)

死んだ人というものをおそらく初めて見たであろうローラが貧しい家々がひしめく路地を抜けて年長の兄ローリーのところに戻ってくる、そしてローラは言う。「生きてるのって――(P.58)」、幼いローラはそれより先をうまく言葉にできない。けれど迎えに来てくれた兄ローリーは「完璧に理解していた(P.58)」と書かれているのです。
でもこれって、ローリーはローラのこと、絶対わかってないよなぁ。『大学教授のように~』には、ローラはローリーや母と同じ上流階級的思考を身に着けたと読む解釈が書かれていて、かなり戸惑ったのでした。しかし今『大学教授のように~』を改めて見てみたら、解釈は彼の学生が書いたもので、「私の読みは彼女とは根本的に違う(『大学教授のように~』P.329)」と書かれているので、きっとフォスター教授も「ローラとローリーはわかり合ってない」派だと信じている。
というかこれは、わかりあってないからこそ素晴らしいラストなんだと思うんですよ。ローラが貧しい家で死というものに初めて触れたとき、彼女の世界はひっくり返った。それまではパーティーをしていた庭こそが彼女の楽園だったけど、死んだ男性を間近に見るという経験が彼女に啓示を与えて、貧しい家の一室が聖なる場所に、穏やかな真の楽園になった。そちらが正になった。そして再び彼女を庇護する兄の元に帰ってくるわけだけど、もうここには絶対越えられない溝がありますよね。わかってるよ的な笑みを浮かべたお兄さんは優しそうだけど、ローラの気持ちなんて微塵も理解していないぞ。ローラは「わかってくれた」と思ってるけど、わかってないよ!騙されてるよローラ!彼女はこれからあの家で異質なものとして過ごすのでしょう…。
ギリシャ神話の隠喩とかは正直ただのオマケです。本質はこの「完璧に理解」の、この部分なんだよ!!…というのを、『大学教授のように~』の記事を書いたときに含められなかったのが悔やまれるので今書きました。しかし本当に、『ガーデン・パーティー』は素晴らしいです。

長くなってしまったので他の作品については特に書かないでおきます。『一杯のお茶』『蠅』も結構好きでした。いや、正直どれも好きでした。意図的に書いてるなというのが透けて見えるところは、ちょっと優等生っぽい。でもマンスフィールドの描く「分かり合えなさ」に対する容赦のなさは結構癖になるんですよね。新潮文庫でも短編集が出ているらしいので、是非ともそちらも読んでみたいと思います。