好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

テレサ・オニール『ヴィクトリアン・レディーのための秘密のガイド』を読みました

ヴィクトリアン・レディーのための秘密のガイド

ヴィクトリアン・レディーのための秘密のガイド

書店で目にして気になっていた本です。版元が東京創元社なの、なんとなく納得。敢えて横書きで組んだのは英断だったと思うし、装丁も素敵。
訳は松尾恭子さんで、語り手の口調が本の雰囲気とすごく合っていて実に良かったです。解説もよかった。
本書は、19世紀のヴィクトリア朝時代の淑女たちがどういう生活をしていたかというのをユーモアたっぷりな読みやすい文章で書いたものです。

あなたの知る19世紀の世界は、騎士道と名誉が重んじられ、貴婦人と陽気な使用人が生きる世界。そこにあなたはお客や観察者として今までに何度も入りこんだ。誰ひとりとしてうんこをしない世界にいるあいだ、風に吹かれるあなたの心は黒い瞳をしたヒースクリフのことでいっぱいだった。明々と照らされた舞踏室では豪華な絹のドレスがくるくる舞い、きれいにひげをそった若い殿方は欲情をくすぶらせ、淑女は機転をきかせて殿方の誘いをかわした。
(中略)
私はそこで生きていくために知っておくべきことを教えます。例えばトイレとその数が絶望的に少ないことについて。もっと重要なのは用の足し方。誘惑した罪で逮捕されないように揺れる乳房を包み隠す方法、精神病院で氷水浴をさせられるはめにならないために社会でどうふるまうべきかについても教えます。(P.9-10)

そんな感じでヴィクトリア朝を舞台とした小説や映画やドラマでは語られない部分について、当時刊行されていた書物を多数引用して解説してくれる本です。絵や写真も多数入っていて、そのキャプションがまたユーモアたっぷりで非常に良い。

いやしかし、実際衛生面なんかは全く期待できないだろうと思ってはいたものの、思っていた以上にひどい世界でした。入浴にあんなに手間がかかるんじゃやってられんよな。
女性の扱いがとんでもなく酷かった、というか、子供を産んで家系を保つために多大な犠牲をしなければならなかった時代だったんだろうなと思いました。結婚、妊娠、避妊などなど、閨の話題がなかなか衝撃的だった。科学的根拠のない対処方法とか今見ると本当恐ろしいけど、当時は他に知識もなかったんだよな。しかし痩せるためにわざわざ毒を飲むとかちょっと意味わかんないですね。怖い…
21世紀ってありがたいなぁ。たった200年弱でここまで社会は変わったんだから、人間ってすごい。あと200年くらいしたらきっともっといろいろ変わっているんだろうな。

書かれている内容もものすごく面白かったのですが、語り手の癖のある口調とユーモアが非常にツボでした。この本の面白さの8割くらいはあの語り口にあるのでは。

痩せ薬の瓶に成分が記載されるのは稀です。痩せ薬は特許品!成分は企業秘密!だから、サナダムシの幼虫が入っているのを知らずに丸薬を飲んでしまうかもしれません。飲んだ場合は最後に虫下しを処方され、代金を払います。(中略)体重が減ったら、後はサナダムシを体から出すために虫下しを飲むだけ。吐き出すのかって?ああ、かわいい人。いいえ。サナダムシはずっと下のほうにいるから吐きだせないわ。おまるで用を足したら、まずサナダムシが体内から出たかどうかを調べます。出ていたら手でとり除きます。30フィートのサナダムシを。ひっぱりだす際は慎重に――ちぎれたらいやでしょ。(P.88-89)

ちなみに読んでるとちょっとうんざりしてくるくらい、引用される本の著者はほとんどが男性です。著者自身も偏りがあることは認めています(見つからなかったと書いている)。とはいえ著者自身が引用した本に対して突っ込みを入れることも頻繁にあって、それでなんとか頑張っている。例えばヒステリーは贅沢が原因で、だからアメリカの奴隷はヒステリーを起こさないとケロッグ氏(コーンフレークのあの人)が言うのに対して「そうなの?女性の奴隷がベッドから出ようとしなくても、わめくのをやめなくても、医師を呼ばなかっただけではないの?(P.282)」と突っ込んでいたりする。
本当は当時の女性の手記とかあればいいんですけど、まぁ、無いわな。そういうはしたないことは文字に残さないだろう。

著者はアメリカ在住の女性で、2016年に刊行された本書が処女作らしいのですが、ベストセラー入りしたのも納得な面白さ。この本を読み終えると「21世紀の西欧文明社会は完璧ではないものの、とても良い社会です。(P.308)」という一文もものすごい説得力がある。
完璧ではないからより良い社会を目指していくことは大事だけど、亀の歩みのようであっても着実に人類は進歩していると思う。衛生面においても人権面においても。なのでまぁ、そんなに嘆くことはないんじゃないか?たゆまぬ努力は必要だけど、たまには現代に乾杯したっていいんじゃないだろうか。
著者は2019年にももう一冊本を出しているようなので、そっちの訳も出ないかな、と期待している。楽しみにしています。