好物日記

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映画『ジョーカー』を観てきました

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ずっと気になっていたのに怖くて敬遠していた2019年話題の映画『ジョーカー』を、ついに観てきました。
2D字幕での鑑賞。2020年をこんな絶望的な映画で幕開けにして果たして良かったのかという気持ちはありますが、まぁ観てしまったものは仕方がない。しかし救いのない映画だった。
なお本記事はとくに続きを隠すような配慮をしていませんが、内容には遠慮なく触れているのでご注意ください。


実はわたくし、「バットマン」シリーズは一作も観ていないのでした。バットマンが正義の味方で、ジョーカーが悪役ということしか知らなかったし、今もそれしか知らない。
でも別にシリーズ観てなくても大丈夫だよ!という話であったし、かなり話題になったので、これは劇場で観た方がいいんだろうなと思って勇気を振り絞って出かけました。心の準備をしっかりしていたのでそこまでのダメージは負いませんでしたが、やっぱりしんどい映画でしたね。痛々しいったらない。
しかし前評判があまりに良かったせいで、ちょっと期待しすぎた感があったかもしれない。「バットマン」シリーズ観てないからかも。

ここで改めていうまでもなく、バットマンの悪役であるジョーカーがいかにして誕生したかというのがこの映画のストーリーの根幹なわけですが、人が悪に対して足を踏み出す一つの例として、一番救いようのないパターンを描いているように思いました。その人自身が悪いことをしたわけではなくても、どうしようもなく上手くいかない人生になることって、悲しいことに実際にあるんですよね。そもそも生まれたときからハンデがあるなんてのもざらで、基本的には親も隣人も国籍も選べない。だから自己啓発本では自分を取り巻く環境を変えろというんだけど、自分で環境を変えられるところまでいくのがそもそも難しかったりする。逆境から立ち上がるのは多くの人にとってものすごく難しいからこそ、そういうことを成し遂げることができる人の話が感動ストーリーとなるのだ。運が良ければ何か流れを変えるきっかけとなるイベントが発生したりするのだけれど、多くの人の今日は昨日の続き、永遠の繰り返し。勝ち組連中は軽い気持ちで社会的弱者を傷つけて、多分翌朝には忘れているだろう。わかってるよ、わかってるからそんな救いのない状況ばっかり出してこないでくれないか…!
開始10分くらいでもう逃げだしたくなりましたが、なるべくストーリーに耽溺しないように技巧的な部分に注意をそらして凌ぎました。

全体を通してとても良かったのは音です。コントラバスかなにかの低音の旋律がどこか不穏で映画の雰囲気に合っていた。ちょっと不安定な感じで。調べたらアイスランドのヒドゥル・グドナドッティルというチェリスト・作曲家の音楽とのことで、『メッセージ』にも参加していたと聞いて納得。これからもいろんなところで耳にしそうな気がして楽しみです。
反対に、たまにテレビから流れてくるナンバーはポップで人工的な明るさに満ちていて、そこから目が覚めた時の落差が凄かった。現実が薄暗くセピア色なのに比べて、ステージのヴィヴィッド感はどうだ。それでもジョーカーのショウタイムには世界に色がついていて、それが逆につらい。彼にとってどちらが現実だったのか。虚飾に満ちた画面の中の世界を現実にしたかったんだろうけどさ。うろ覚えだけど、鮮やかな赤が出てきたのをきっかけに、セピアの世界がカラフルな世界になっていたような気もする。服もカラフルになったし。
あと市のカウンセラーとの面談のシーン、遠くでずっと電話のベルが鳴り続けていたのも印象的です。映画の中で実際に彼が鳴り続ける電話を取るのは一度だけだけど、あの時からずっと、何かが彼を呼び続けていたのだろうか。

場所でいうと、街と家との間にある長い長い階段が気になりました。彼は毎日その階段を下りて街へ向かい、階段を上って家を帰るわけだけど、あれは何の境界なのだろうか。家で待っている母親が…彼女は客観的にみればアーサーにとっての枷になっているわけだけど、それでも唯一の味方だと思っていたんだよな。最初は家がかろうじてちゃんとホームだったから、階段を降りてアウェイである地獄に行くんだろうなと思ったのです。でもそのうち家もアウェイになっちゃった。つらい現実であるセピア世界が虚飾に満ちたヴィヴィッド世界に侵食されていって、楽屋裏と晴れ舞台がごっちゃになって境界が曖昧になり、ついにホーム側だったはずの階段の上にアウェイな追手が現れてしまうようになる。…ように見えるけど、結局あの階段がなんの境界なのかイマイチわからず。

あともうひとつ、伝説的悪役の生涯を描くなら、ハリウッドの人々はアイロニーとしてキリスト的要素を持ってくるんじゃないかなと観る前に思ってました。こじつけと言われればそうかもしれないけど、実際そういうつもりで観るとやっぱ入ってますよね?嗤われて迫害される日々、同僚の裏切り、公開裁判、両手を広げたポーズ、蘇り。アーサー、もしかしたらこのとき33歳なんじゃないか。

しかしこの映画でジョーカーは最終的に多数の人間の「YES」を手にするというエンディングを迎えているわけで、ある意味彼は大逆転を手にしたともいえる。
誰か一人でもどこかで彼に手を差し伸べていれば、彼は「ジョーカー」にならなかっただろうか?認めてほしい、愛してほしい、こっちを見てよというのが彼の要求だったとしたら、それを差し出せる人はいただろうか?しかし映画を振り返っても、この映画の中ではそういう、差し出された手を取りそこなった場面は見当たらないんですよね…差し出されてすらいないから。やるならもっと前から対策立てないと。同僚の小男は善人だったけど、彼の平均的な隣人愛では足りなかった。同じアパートの女性だって、普通に考えてそんなちょっと喋っただけで好意的に見てくれるなんてありえないよ、普通に怖いよ。
あのときピストルを手にしていなければ、そして地下鉄で事件を起こさなければジョーカーにはならなかっただろうけど、それはつまり彼自身が地獄の日々を送り続けて一生を終えるだけということだ。そういう意味ではああいうきっかけがなければジョーカーになれなかった、と言ってもいいかも。つらい…。

無差別殺人では「こんなに不幸な自分がいることをみんなに知ってほしい」というのが動機の一つになることが多いけど、ジョーカーも最大の動機は承認欲求だった。だからなんだか共感したくなるのだ。ジョーカーは一応殺す相手を選んでいるけど、それによって正当化を図っているともいえる。やり場のない怒りをぶつける理由を欲している。あなたは悪くないって言ってほしいのだ、誰だって。
でもアーサー、たぶんこれまで君を傷つけた連中も、ピエロの仮面を纏ってそこにいるよ。彼らはそういうやつだよ。いつだって他人を利用して憂さ晴らしをしているんだ。そしてこの映画を観てジョーカーを自分の理解者だと感じてしまった人も、残念ながらそれは勘違いだろうと思う。ジョーカーはあなたのことなど見てないよ。彼にとっての観客はピエロの仮面をかぶった無名の大衆であって、そのなかの個がピックアップされることはないだろうから。べつに大衆を楽しませるための舞台ではなく、スポットライトを浴びている自分のための舞台なのだろうから。多分「ジョーカー」サイドは自分の満足のために相手を利用し合っているだけで、相手のために何かしようっていうんじゃないんだろうなぁ。彼らがどんなに正当性を口にしても正義の味方になれないのは、たぶんそこなんだろうな。


とはいえ。
あのラストシーンって、多分精神病院だと思うんですが、出てくる女性は市の相談員と同じ女性なんですよね。てことはどういうこと?ジョーカーって精神病院にいたの?逮捕されたことあるの?シリーズ観てればわかるのだろうか。
まず、ストーリー全体で語られた不幸なアーサーの人生が、全部精神科医向けの作り話だったという可能性を考えた。「こういう話を用意しとけばあんたたちも満足だろ?」みたいな。しかし「あんたには理解できないよ」みたいなこと言ってるんですよね。となるとそもそも彼、本当にあの「ジョーカー」なのか?ナポレオン妄想ならぬジョーカー妄想的な患者ではなく?

うーん、「バットマン」シリーズのジョーカーのキャラがわからないから何ともいえない…コウモリを正義の味方に持ってくるところは好感が持てるので、やっぱりシリーズで観ようと思います。