好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

「2022年の『ユリシーズ』」の読書会(第四回:第三挿話)に行ってきました

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第四回を迎えた「2022年の『ユリシーズ』」の読書会に行ってきました。第三回のときの読書会の感想記事はこちらとなります。

もう四回目ではありますが改めてご紹介すると、この読書会は『ユリシーズ』刊行100周年である2022年まで、3年かけて『ユリシーズ』を読んでいこうというユニークな企画で、ジェイムズ・ジョイスの研究者である南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんの3名が主催されているものです。前回に続き浅草・合羽橋での開催で、読書会のあとにはロティサリーチキンのお店で懇親会もありました。

さて『ユリシーズ』第三挿話「プロテウス」はスティーヴンがひとりサンディマウントの浜辺を歩きまわって考え事をする話です。この読書会の第一回での範囲が第四挿話だったので、そのときに第三挿話も一度は読んでいたはずでした。しかし今回改めて読み返したとき、見事なほどに何にも覚えていなかったことをここに告白します。え、浜辺なんて歩いたっけ?という感じ。でもめちゃくちゃ歩いてましたね…。ほんとびっくりするくらい記憶になかった。
とはいえ第一挿話と第二挿話をしっかり読み込んだ状態で第三挿話を読み返すと、それまでの挿話で登場したあれこれがちょこちょこ顔を出しているのが認識できて、私なりに楽しむことができました。しかし読みにくいのは読みにくく、最初は結構しんどかったです。

なおこれまでの読書会ですっかりジョイスの沼にはまった私は、ガブラー版と呼ばれる "Ulysses" 原書と柳瀬訳の『ユリシーズ』を並べてタイプして印刷するという手間暇かかる愛しい作業をしています(通称「写経」)。今回は結構早めに写経が終わり、比較的まじめに予習して読書会に臨んだのですが、それでもリッチー叔父さんの家には「実際には行ってない」ということに、読書会に参加して初めて気づきました。えええ、そうなの!?道理でいつの間に家を出たんだろうと思ったよ!いや薄々「もしかして…?」とは思ったんですが、普通に呼び鈴押して応対されてるし、いやまさかあれが全部頭の中での独り芝居だったとは。今回一番の衝撃だった。
このことは集英社版では註がついてるらしいんですが、答えを見ちゃうとつまらないので全然参照してなかったのでした。というか実際のところ、あれがスティーヴンの頭のなかのことだって、普通に読んでわかるものなんですか?現代の我々は註を参照して読むことができるけど、生テキストしかない状態でここを読んだ当時の人々は「いやこれは実際行ってないよね」ってそんなにすぐにわかるものなのだろうか?「セアラ叔母さんのところを通り過ぎてしまった」から察するべきだったのかもしれないけど、ここで初めて出てきた名前なんだから一周目ではわからない作りになってるんだろうな。『ユリシーズ』が予備知識なしで読める代物なのか疑惑が深くなっていくようだ。なんなんだジョイス、衝撃すぎるよ。

しかしそこをすっかり見落としていたとはいえ、最初に読んだときと比べるとかなり内容を把握して読むことができたので、自分としては及第点です。
第三挿話の個人的なお気に入りポイントは、スティーヴンが目を閉じて浜辺を歩くところでした。

 スティーヴンは目を閉じて、ブーツがかさッ、がさッと、打ち上げられた海草や貝殻を踏み拉くのを聞いた。とにかく通り抜けて歩いてるじゃないか。このとおり、一度に一歩ずつ。きわめて短い間隔の時間に極めて短い間隔の空間を。五歩、六歩、順次(ナッハアインダー)。まさしくそうだ。これが可聴態の不可避の様式だ。(P.73)

色がついていることよりも先に物体だったことを意識したアリストテレスに倣って、スティーヴンは目を閉じて色を排除し、万物の署名を耳を通して把握しようとしている。彼が歩くと音が生まれ、そこに世界が創られていく、まるで神のように。スティーヴンが浜辺を歩くという事実を、彼が生み出す音が裏付けてくれる。目を閉じたスティーヴンに現実の海は見えないけど、踏まれて割れた貝殻の音が真っ暗闇のスティーヴンの世界に響き渡る感じ。響き渡るといえばこのあとでカリヨンも出てきたな。初めに言があった、その言葉はおそらく発話されたはずだ。
そしてこのあと目を開いたスティーヴンは「おまえがいなくてもずっとこのとおり(P.74)」と現実に戻ってくるわけですが、そこで夢から覚めて神から人にもどった感じがして面白い。
読書会では目を閉じるスティーブンに絡めて、バークリーの非物質論が紹介されました。ものは知覚されるから存在するのであり、知覚されないものは存在しないというやつです(BCCの動画が凄く良かった)。非物質論は考え方としては嫌いじゃないのですが、最終的には神をひっぱり出してくるところが気に食わない。知覚の最小単位を「人間」にするとどうしても無理があるんですよね。世界を認識するとき、一個の身体に発生した「私」を観測点とするならまだ納得できそうな気がするのですが、バークリーは聖職者だからこれが限界なのかなぁなどと考えて聞いていました。
生活者としての読者は「反バークリー的に」物質を追いかけて読んでみるというアドバイスはとても参考になりましたが、一方で「犬が書かれている箇所では犬が書かれているのではない」というのがものすごく面白かったです。こけ犬わんちゃんは物質としての一匹の犬であるだけではなく、あれやこれやの象徴の仮の姿なんだな。読み返せば読み返すほどに影が濃くなっていきそうで楽しみだ。

あともう一つ、波の描写がとても好きでした。

 風が周りを踊り跳ねる。身を切る寒空だっけな。来るぞ、波が。白鬣の海馬ら、馬銜を噛みながら、光風に手綱取られて、マナナーンの駿馬ら。(P.75)

美しいなぁ、沖つ白波か、と読書会前はこれらの文章がもたらすイメージだけを単純に喜んでいたのですが、マナナーンという文字列(Mananaan)が波に似ているという話が出て、ジョイス研究者の頭の中はどうなってるのかと思いました(褒めています)。そんなとこまで見ているのか…!

読書会での面白かった指摘をすべて書くのは無理なのでこの辺にしておきますが、主催の方があらかじめ用意したスライド以外にも、参加者の方の意見がとても面白くて、あっという間の3時間半でした。
次回は2020/2/9に第五挿話、サプライズ企画ありとのことです。これまでの挿話に参加していなくてもまったく問題ないので、興味のある方は一度試しに参加してみてはいかがでしょう。沼にはまって原書を買う羽目になっても責任は負いませんが。

ちなみに私は2/9は参加できないことが確定しているので、参加された方はぜひ、どんな話が出たか教えてください…第六挿話以降に備えて予習だけはしておきますので!

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おまけ。大いに盛り上がったP.88の生きた犬と死んだ犬の部分の写経ノート。黒い字が読書会参加前のメモ、赤い字が読書会で描き込んだメモです。