好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ピーター・トレメイン『アイルランド幻想』を読みました

アイルランド幻想 (光文社文庫)

アイルランド幻想 (光文社文庫)

再読本。数年ぶりに読み返したらやっぱり良い本だった。
しかしこの本の話をする前に、映画「Song of the Sea」を簡単にご紹介します。

www.youtube.com

日本では『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』として2016年に公開されたこのアニメーション映画は、アイルランドのトム・ムーア監督によるものです。セルキーの伝説をもとに、アイルランドの古代の神や民話も取り入れた長編アニメなのですが、絵がめちゃくちゃ綺麗なのでお勧め。
2016年に映画館で観てすっかりハマった後、アイルランドについて何も知らなかったので、何かないかなと思って図書館で本を探しました。そこで借りて読んだのが、ピーター・トレメインの短編集『アイルランド幻想』です。

ピーター・トレメインというのは小説用のペンネームで、本名はピーター・ベレスフォード・エリス。高名なアイルランド学者なのですが、ノンフィクションを本名で出しているので、小説用にペンネームを用意したのだとのこと。
1992年に英語で出版され、日本語訳は2005年に出ています。しかし元をたどれば、本書に収められた11篇のうち3篇は、アイルランド語で書かれたとのこと!最初から英語で書かれた小説についても、ちょこちょこゲール語が出てきます。

「私たち、先祖の地である本土のイアル・コナハトから力ずくで追い出された時、安全な土地を求めて、ハイ・ブラシルへ逃れてきました。そして、あそこの、あの砦に逃げ込みましたの」彼女は、遠くに見えている邸のほうを、指し示してみせた。「私たちの言葉で、ダーン・ナ・スカーハという名前。つまり、”楯の砦”という意味ですわ。だって、あの恐怖の時代、あれは私たちにとって、避難所であり砦でもあったのですもの」
 彼女はこれを、ほんの昨日のことのように、自分もその場に居合わせていたかのように、語るのだった。
「きっと、あなたの名前、オ・フラハティーなんでしょうね?」私はわざと言ってみた。
 突然、彼女が姿勢を正し、一瞬目をきらめかせたもので、私はびっくりした。
「父が亡くなったので――ゴ・ネイナ・ディアヴァル・グラスタ――今では、私こそがオ・フラハティーの主です」と言いながら、彼女は胸に十字を切った――ように思えた。(P.49「幻の島ハイ・ブラシル」より)

訳は甲斐萬里江さんという方で、多すぎず少なすぎない訳注がとても親切で読みやすいです。小説で言及されている時代背景もしっかり解説してくれる。ゲール語交じりの訳、大変でしたでしょうに。

長くなってしまいますが、せっかくなのでそれぞれの短編について簡単に書いておきます。()内は英題。

1. 石柱 (Deathstone)
盲目の音楽家が療養のため、庭の真ん中に古代の遺物である石柱が建てられた古い家を買う。音楽家は石柱を触ると無数の顔が彫られているように感じるが、妻はただごつごつと風化した灰色の花崗岩でしかないという。音楽家は教区の司祭より庭の石柱があらゆる悪をその中に吸い込むという「ギャラーン・ナ・モリヴ(死の石)」であるという言い伝えを聞く…
短編集の冒頭にこれを持ってくる構成が好きです。古代の神も出てくるものの、割合もちょうどよく、ウォーミングアップに良い。

2. 幻の島ハイ・ブラシル (My Lady of Hy-Brasil)
アイルランドアメリカ人の三世である男が、祖父の故郷であるアラン諸島を訪れる話。祖父の仕事場だった灯台を訪れた帰り道、突然の嵐で見知らぬ島に流される。島で出会った女性はここはアラン諸島で最も美しい島「ハイ・ブラシル」であるという…
先にも少し引用しましたが、ゲール語の使い方がめちゃくちゃ上手い。そうくるかぁー、なるほどなぁー。読みながら註を読むのではなく、読み終わってから註を読むことを強くお勧めします。

3. 冬迎えの祭り (The Samhain Feis)
横暴な夫と偏屈な伯母から距離を取るため、ケイティは息子と共にアイルランド西部にある知人の別荘に滞在する。伯母の家でふさぎ込んでいた息子も、親切な管理人の老人に見守られながら、「ショーン・ルア」という目に見えない友達と楽しそうに遊んでいる。しかし老人が「サウィン・フェシュ」と呼ぶハロウィンの夜、息子に異変が起きる…
元々はゲール語で書かれた小説のひとつ。ある程度知識があれば結末は推測できるけど、だからといって面白さが半減するわけではないんですよね。

4. 髪白きもの(The Mongfind)
幽霊が出ると言いう噂のある古い農家の廃屋から17世紀の英語で書かれた文書が見つかり、アイルランド国立図書館古文書部の「私」が解読のために呼び出される。文書はクロムウェルの軍隊の兵士であったイングランド人によって書かれたもので、アイルランド抵抗勢力に襲わて半死半生の目に合ったところを親切なアイルランドの農民夫婦に助けられたと書かれていた。そして息子のような立場で農場で暮らし始めたイングランド兵士の手記が続く…
一番好きな話です。クロムウェルの対アイルランド政策が残虐すぎて、初めて読んだ時、思わず歴史を調べてしまった。あと17世紀の英語ってやっぱり普通の人には読めないんだなというのが新鮮でした。江戸時代のくずし字が素人には読めないのと同じか。

5. 悪戯妖精プーカ (The Pooka)
アイルランド人の女性と結婚したものの、自身の浮気によって10年で破綻を迎えたイングランド人の男性が、彼女との思い出と離婚後の生活を語る。アイルランドへ新婚旅行に行ったときに鋳掛け屋(ティンカー)と呼ばれるひとりの老女からもらった「プーカ」を妻は「幸運のお守り」と呼んだ。しかし別れた後に妻から送り付けられたそれは、どうやらそんなかわいいものではないらしかった…
元はゲール語で書かれた小説のひとつ。「プーカ」や「ティンカー」はほかの小説でもちょくちょく出てきます。特にティンカーはロマ的な人たちのようで、半分くらいあっち側の世界に身を置いている印象。

6. メビウスの館 (Tavesher)
アイルランド西南部にある古い銅山を調査中のアメリカ人が、坑道の探索中に事故に遭う話。
かなりホラー寄りの話になってます。英題の「Tavesher」はゲール語で幽霊のこと。邦題を「メビウスの館」としたセンスにしびれる…!

7. 大飢饉 (Fear a' Ghorta)
舞台は19世紀後半のニュー・ヨーク三番街に建つカトリック教会。1845年からの大飢饉を生き延びたコナハト出身のアイルランド男性が、25年ぶりに告解をする話。
当時のアイルランドを襲った大飢饉のひどさ(そしてイングランドの人でなしっぷり)がよくわかってしまう作品です。つらい…
英題の「Fear a' Ghorta」は告解に来た男のニューヨークでアイルランド人から呼ばれている名前。ゲール語で「飢えた男」の意。

8. 妖術師 (The Dreeador)
主を失ったクーラリガン城と準男爵の肩書きを相続するために南アフリカからアイルランドに帰ってきたマイケルバーン一族の末裔の話。城にひとり残った召使であるフィナーティーに不信感を覚えるが仕事は完璧で文句のつけどころがない。しかし寒々しい館には夜な夜な寂しげな声が響き渡り、プロテスタントの牧師からは邪悪なものが潜んでいると警告を受ける…
土地の支配者層はプロテスタントなんですね。ほかの話は被支配者層の話が多いのでカトリックがほとんどなのですが、これだけプロテスタントの牧師が出てくるところが興味深いです。

9. 深きに棲まうもの (Daoine Domhain)
アイルランドアメリカ人である「わたし」は、ある日家に訊ねてきた見知らぬ男性から手紙を受け取る。手紙はアイルランドのバルティモアにある窪みから発見され、マサチューセッツ州の「わたし」の家の住所が書かれていたので、仕事のついでに届けに来たのだという。手紙を開けた「わたし」は、アイルランドに旅に出て帰らなかった祖父の身に何が起きていたのかを、その手紙をもって知ることになる…
アイルランドアメリカ人が父祖の地を訪れる話が「幻の島ハイ・ブラシル」でしたが、この短編の「わたし」はそんな感傷とは無縁で、自身を「純粋のアメリカ人」と考えている。それでも巻き込まれちゃうんですけどね。恐怖がじわりじわりと迫ってくるところが良い。

10. 恋歌 (Amhranai)
ダブリンのレコード社に勤める「ぼく」が、売り出し中のアーティストに曲を書かせるために西コークへ車を走らせる途中、見知らぬ村に迷い込み一夜を過ごす話。
迷い込んだ村では8月1日前夜の「ルナサの宵祭り」が行われていて、「ぼく」も若い娘と踊ったりするんですが、これはもう明らかに異界です。夜に迷っていたら祭りに出くわす時点で読んでる側はアウトと叫ぶのですが、当然登場人物には聞こえない。民話を踏襲した伝統あるストーリーですが、カセットテープを回すというのが現代的(カセットはもうないにしても)で面白い。

11. 幻影 (Aisling)
1852年、アイルランド西部の島に派遣された司祭が友人に宛てた手紙という形式で語られる話。
大飢饉直後のアイルランドの状態、とくにゲール語話者が極端に減った状態のアイルランドで、ゲール語を常用とするわびしい島に派遣され、粗末な小屋で暮らすことになった神父の苦難の日々が描かれます。ファム・ファタル的美少女が出てきて神学校を出たての若い神父を誘惑したりする。
元々ゲール語で書かれた小説のひとつで、著者がもっとも気に入っている作品とのこと。本短編集の英題も、ゲール語で幻想の意である「Aisling」が使われています。

著者の知識が盤石なので、どの作品も奥行を感じるしっかりした造りで、安心して読めます。スタンダードを押さえた幻想文学という印象。異界との交わり方に民話を使うと安定するのかな。もう中古でしか手に入らないようですが、図書館で借りて気に入って即買っておいて良かった。同じ作家の7世紀アイルランドを舞台にしたシリーズも読みたくなりました。本名名義でのノンフィクションも気になる…