好物日記

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文楽「嬢景清八嶋日記/艶容女舞衣」を観てきました

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東京の国立劇場文楽を観てきました。
今回鑑賞したのは第二部で上演された「嬢景清八嶋日記(むすめかげきよやしまにっき)」と「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」です。

「嬢景清八嶋日記」は初鑑賞の演目でした。
まずは「花菱屋の段」から話が始まります。遊女屋を商う夫妻に、一人の若くて美しい娘が身売りに来る。仲介の男は、娘はとある高貴な血筋を引く者であり、生き別れた盲目の父親が官に就くためのお金を用立てたく身売りをしに来たのだと説明する。遊女屋の主はなんて孝行娘だ!と感激するが、世間擦れしたおかみは「はんっ、親子の情にかこつけた騙りだよ、あんた、あんなミエミエの話に引っかかるんじゃないよ!」と冷たい。しかし娘が涙ながらに身の上話をすると、主はおかみさんの反対を押し切って官位を買うためのお金プラス日向にまで父親に会いに行く旅費を出してやり、仲介の男に付き添いまで命じる。主に続いて店の遊女や女中まで、ずらずらと列をなして選別の品を贈るのを目の当たりにしたおかみは負けていられないとばかりに「ええい、そんなら私は年季奉公を10年から5年にまけてやる!」と言い出し、娘と付き添いの男は晴れて日向への旅に出る…
娘が哀れな身の上話を切々と語る一方、遊女屋の主人とおかみのやりとりがコミカルで面白いです。笑わせる場面がいくつもあります。

つづく「日向嶋の段」でついに娘は生き別れた父と感動の再開をするわけですが、これが、もう、実に素晴らしかったです。
日向まではるばる会いに出かけた娘の父親というのが、平家の勇将・悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)。戦に敗れ盲目となった景清は、平重盛を弔いながら細々と暮らす惨めな日々を送っています。いざ娘が自分を訪ねてきても他人のふりをして「その盲人は飢え死にした」などと言い放つのですが、里人の手引きでついに正体が娘にばれてしまい、改めて感動の再開を果たします。
再会すれば「お前、どうしていたんだね」という話になるわけですが、まさか娘のほうも遊女屋に身売りしたとも言えないので、裕福な百姓家に嫁いだのだと嘘をつき「お父様、これで官に就いて…」と金を差し出す。しかし途端に景清は「俺の娘でありながら、お前は百姓なんぞに嫁いだのか!」と大激怒。掘っ立て小屋から刀を取り出して娘に押し付けて怒鳴りつける。「お前は武士の娘なのだ、誇りを忘れたか!百姓なんぞに嫁ぐようなやつは俺の娘ではない、帰れ!今すぐ帰れ!」盲目の景清の裏でこっそりと付き添いの男が里人に金と文箱を渡し、あまりの剣幕に怯え切った娘と共に船に乗り込む。船が島を離れるとようやく景清は「今のはすべて嘘だ!その刀を俺の形見として、旦那と仲良く暮らせよ!」と叫び父娘は再び離れ離れに。
娘を見送った景清に里人が付き添いの男から受け取った金と文箱を差し出すと、「おや、あの男には見抜かれていたか。俺は目が見えんからな、ご苦労だが文箱の中身を見てくれんか」と景清。里人が文箱の中の手紙を取り出し声に出して読み始めると、そこには娘が遊女屋に身売りをして金を工面したという事実が書かれていました。落ち着いた気持ちも一気に吹っ飛び、「なんということだ!待ってくれ、待って…」と娘を取り戻そうとするも、船はすでに遥か彼方。身を焼かれるようなやりきれなさに浜辺を転げまわる景清の裏で、実は源氏方の武将だった里人が「源頼朝公にお仕えになりませんか。娘さんも身売りなどしなくて済むようになりますよ」と勧誘。もともと景清は平家の良心である重盛公の弔いをしながらも、公平さでは源氏に理があると思ってはいました。今となっては娘のこともあるし、ついに頼朝に下ることを決意。屋形船に乗って官位に就くため島を旅立つところで、幕。

楽しくなって、長々とあらすじを書いてしまいましたが、セリフ部分は意訳です。「日向嶋の段」の景清がとにかくめちゃくちゃ良かった。
「日向嶋の段」の冒頭で盲目の景清が杖を片手に粗末な小屋から出てきて、杖で岩を探し当ててその上に重盛公の位牌を置いて弔うところとか、目が見えない状態でよたりよたりと歩く仕草がすごくリアル。遣い手は吉田玉男さんです。魂が入っている…。さらに娘の幸せのためにわざと怒って船に引っ立てる場面の迫力と、実は身売りして金を作ったのだと知ったときの絶望的な感情の発露がぞっとするほど素晴らしかったです。
景清物というのがひとつのジャンルになるほどに人気のある悪七兵衛景清(藤原景清)ですが、この演目は武士として父親として煩悶する姿が時代を超えた普遍的なテーマになっていて、上手いなぁと思いました。正しく生きたいと誰もが思いながら、自分の心だけではどうにもならない事情が降りかかることがあるのはいつの時代も同じだ。いやそんな武士のプライドとかどうでもいいから娘大事にしろよ!とか、そういう価値観の違いも時代によって出てくるとは思いますが、現代の価値観に照らすと首を傾げるような選択にしても、逡巡、苦悩、親愛というような基本的な人間の感情の動きは変わらない。だから体中を駆け巡る激しい感情の波に耐え切れず浜辺を転がり回らざるを得ない景清の苦しみを現代の私たちも感じることができる。だからぐっと心臓をつかまれたような気持になるのだ。演じているのが人形だとしても。むしろ、人形だからこそ、というところもあるかもしれない。


ちなみにもう一つの演目「艶容女舞衣」は人を殺した半七が遊女三勝と心中する話。かなり有名な演目ではありますが、個人的にあまり好きではないストーリーです。鑑賞は二回目か三回目くらいか?初めてではないです。
人を殺して行方が知れない半七を案ずる一途な妻・お園の有名なセリフ「今頃は半七様、どこでどうしてござろうぞ…」の場面は、柱にもたれたり行燈にもたれたりするバージョンがあるようなのですが、今回は行燈にもたれて独白していました。「いっそ去年病を患ったときに私が死んでいれば、今頃お二人が幸せになれたかもしれないのに…」などと語るのですが、私、待つ女って好みじゃないので、どうも気持ち的に寄り添えないんですよね…。
しかも半七のほうも、実家に宛てた手紙(遺書)で形だけの妻であるお園に向って「来世では本当の夫婦になろうな」などと書いているくせに、恋人の三勝と心中する直前に「来世はお前と夫婦になるぞ!」とか言ってて、おいお前、手紙になんて書いたか忘れたんか!お園さんはすっかり来世で結婚生活やり直す気だぞ!と心の中で突っ込むのに忙しかったです。大店のぼんぼんめ、来世を修羅場にするつもりか。お園さんってたぶんかなり思い詰める系の一途の女っぽいから、ああいう手合いに簡単に「約束」とか言ったらヤバイんだって…
この感想が単純に時代と価値観の違いなのかが気になるので、この演目を江戸時代の大阪で上演したときの観客の反応が知りたくなってきました。当時の客層が旦那衆だったなら半七の視点で観ていたのかもしれませんが、女性客もいたのだろうか。もしいたなら、半七のダメダメっぷりで盛り上がったのでは?

なんだかんだ言いつつとても楽しかったです。堪能しました。