好物日記

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安部ねり『安部公房伝』を読みました

安部公房伝

安部公房伝

安部公房の代表作『砂の女』の読書会をするにあたっての参考資料として読みました。2011年に刊行された、安部公房の娘による伝記です。しっかりした紙を使っていることもあって、物理的に重い。

公房の祖父母の代まで遡った家族構成の紹介から始まり、子供時代の思い出やデビューのきっかけ、言語論や読んでいた本の話など、具体的なエピソードをいろいろ詰め込んだ本でした。作家になるまでの部分は一般的に伝記と言われるものと変わりないのですが、作家になってからの部分は、伝記というよりはトピックに対応した安部公房論のような作りになっています。著者自身も「はじめに」で以下のように書いているので、作家になってからの部分は伝記として書いたわけではないのでしょう。

この伝記は、大まかに言えば伝記部分と言語論などの理論展開の部分でできています。(P.2)

また公房没後に関係者に対して行われたインタビューもあわせて収録されていました。写真も多く、安部公房について知るための本としてうまくまとまっているなという印象です。
ちなみに写真の載せ方がすごく上手いんですが、巻末に「装丁・図版構成:近藤一弥」とあるので、彼がデザインしたのでしょう。複数の写真をコラージュするような形で構成していて、めちゃくちゃ格好いいんです。P.72-73の家族写真が載ってるページと、P.188-189の「チェニジー」が載ってるページが特に好きでした。

本の内容については、インタビューが充実しているのが特に良かったです。一緒に仕事をした仲間からのコメントというのは、娘が資料をみて書いた文章とはまた違う視点で語られているので読みごたえがある。インタビューは安倍公房の全集を出すときに実施したらしいのですが、今ではもう亡くなっている方がかなりいるはず。同業者だけではなく、学生時代の同級生などにもインタビューしているのが面白い。

安部公房の子供時代についての記述は伝記部分にあたるので、エピソードも多くてかなり充実しています。一番面白かったのが「宮武先生」という小見出しの部分で、奉天で過ごした小学校時代のエピソード。書かれている授業内容が非常にユニークで面白いです。

また、生徒自ら歴史上の人物になって檀上で論争をし、人間の作り出した生きた歴史を学んだ。のちに中央大学工学部の教授となる武藤英一は、公房が教壇に立ち勝海舟となって、江戸城を明け渡すかわりに、江戸への総攻撃を思いとどまるよう新政府側の西郷隆盛役の生徒を説得したことを覚えている。

当時満州に移住したのって、エリートが多かったんでしょうか。ほかにもいろいろな授業の手法が書かれているのですが、かなり高度なことをしている。おそらく当時は授業の進め方が現代ほど均一化されていなかったと思うので、先生次第で授業の質が極端に変わったりしたのだろうなぁ。それは博打要素が強いということにもなるので、一概にどちらがいいとは簡単に言えませんが、でもやっぱり、面白そうだな。

仕事を始めてからの部分は著者が大事だと思ったところをピックアップして記載しているので、俯瞰した見方ではないのがちょっと残念です。今気づいたのですが、年表がついていないですね、この本。安倍公房はマルチに仕事をしているので、全部の仕事を拾おうと思ったら1冊では収まらないはず。そういう話が知りたいひとは全集があるからそっちを見てね、という意図があるのかもしれません。

ただ仕事をはじめてからの安部公房論には著者自身の思想や思い出も色濃く出ているので、純粋に安倍公房についての評論というのとはちょっと違うなという印象が拭えません。娘という立場を捨てきれなかったというか、研究者になるには距離が近すぎたのか、別にそういうつもりで書いた本ではないのか。安倍公房研究をするのであれば、身内とはいえある程度ドライな視点が必要だろうと思うのですが、彼女にはそれができなかったのかもしれない。父親である安倍公房のことを尊敬している気持ちが行間からひしひしと伝わってくるし。
著者自身が生まれる前のことについては客観的な文章で書いているので、やっぱり知っていることや身近で見ていたことについて書くときに自我が出てしまうのかもしれません。研究って難しいなぁ。

とはいえ安倍公房の一生についてしっかりまとまった公式ガイドブックという感じで、文章も読みやすく内容も面白かったです。