好物日記

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チェット・レイモ『夜の魂――天文学逍遥』を読みました

夜の魂―天文学逍遥 (プラネタリー・クラシクス)

夜の魂―天文学逍遥 (プラネタリー・クラシクス)

古本屋で買いました。工作舎の「プラネタリー・クラシクス」は名作ぞろいであることを知っていて買ったわけですが、正直…正直ここまで素晴らしいとは思ってなかった。もうページをめくるたびにうっとりとしていました。一冊まるごと散文詩のような本だった。

チェット・レイモはアメリカの天文学教授で、本書がアメリカで刊行されたのが1985年、なのでそんなに古い本ではない。もちろん当時に比べれば現代の天文学はさらに進んでいるわけだけど、たった34年くらいでは宇宙の謎は解けない、むしろ増えるくらいだ。

本書は全20章に分かれていて、それぞれに小さなタイトルがつけられています。冒頭は「沈黙」。スケートボードと衝突した子供が宙に浮きあがったその瞬間、世界から音が消えたような状態の描写があるのですが、以下に引用するので、まずはちょっと読んでみてください。

子供が空中にいる間、自転する地球は、彼女を半マイルほど東へ運んでいた。また太陽を巡る地球の運動は、逆に四〇マイル西へ運ぶ。太陽系が天の河の星の間を漂う動きは、子供をゆっくりとヴェガ星の方向に二〇マイル移動させる。天の河銀河の回転する腕は、銀河の軸のまわりに巨大な円を描きながら、三〇〇マイル運ぶ。空間をこれだけ飛行してから、子供は地面にぶつかり、ゴムまりのように跳ね返った。彼女は空中にもちあげられ、銀河系を飛び、舗道上で跳ね返ったのである。(P.13-14)

この文章を最初に目にしたときには、その美しさにぞっとしました。本書が傑作であることを確信した瞬間です。この壮大なブランコのような、視点の遠近感。そしてこの後に続く公園の凍り付いた空気の描写と、そこから再び沈黙の宇宙空間へ一瞬で飛び、回り続ける地球と対比させる手腕が素晴らしいんですが、全部書いてたら一冊まるごと写し取らなくちゃいけなくなる。
この部分に限らず、チェット・レイモの見事なまでのミクロとマクロのバランス感覚が、彼の文章の最大の魅力だと思います。人間世界と宇宙空間の圧倒的なスケールの違い。

きのうボストン共有地公園で、子供がひとり空を跳んだのに、空からは何の抗議の声も挙がらなかった。(P.15)

いいですか、ここまででまだ15ページですよ。全部で306ページあるんです。初っ端から私の心を鷲掴みにしたスケールの魔法が、この後も手を変え品を変え、惜しげもなく披露されていくのですよ。こんな贅沢があるでしょうか。あぁ、めまいがする。

チェット・レイモはしばしばソローやリルケの言葉を引用するのですが、彼自身の言葉も実に詩的です。
「夜は形を持っており、それは円錐形である。(P.227)」「地球は夜を魔法使いの帽子のように被っている。(P.228)」と描写される「夜の形」も好きなので少しだけご紹介したい。

地球は夜の円錐の下で自転している。地球は太陽のまわりを巡っている。そしてその赤ら顔の影の帽子が、そのお供をして、いつまでも無限を指さしている。こうした薄暗い帽子の下で、アナグマが溝を掘り、夜行性の蛞蝓や甲虫がうごめく。蝙蝠は空中をバタバタと飛びながら、子供だけに聴こえる甲高い啼き声を立てる。オークの木の梟は月に向かって吠える。こうした薄暗い帽子の下でオポッサムが、狐が、洗熊が、大きな眼の物の怪が、地蛍が、鬼火や狐火が徘徊する。薄暗い帽子の下で、亡霊や幽鬼が、夢魔(インクブス)や女夢魔(スクブス)が、悪鬼や妖女(バンシー)、そして闇の魔王が跳梁跋扈する。天文学者も背の高い椅子によじ登って、望遠鏡をその長い帽子に向け、存在の連鎖を一段一段、一階一階、一列一列と、幸運の島を越え、理想郷を過ぎて、シオンの向こう、星と銀河が手招きし、クェーサーがセント・エルモの火のように脅かしているあの岸辺なき海まで追い求めていくのだ。(P.229)

そもそも自然科学というのは、それそのものが非常に詩的な学問だと思います。中でも天文学は、美辞麗句を費やずとも、事実を事実として述べるだけでその美しさを誇るに事足りる。

宇宙は膨張している。

このたった一文に凝縮されたロマンよ!

本書のみどころを挙げれば、本当にきりがない。
夜が暗いということの不思議(「夜の生物」)、最も遠いところにあるが故に最も古い光であるクェーサーの輝き(「古代の輝き」)、天の河に潜むブラックホールと小川の主とモビー・ディック(「池の中の怪物」)、星の色とその詩的表現(「色彩の甘言」)、いつか来る、そして誰も目にすることのできない宇宙の終わりの考察(「ゆったりとした暗さ」)などなど。
これでもすべてではない。

各章に添えられた版画もいい味を出しています。傑作でした。