好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

藤沢周平『麦屋町昼下がり』を読みました

麦屋町昼下がり (文春文庫)

麦屋町昼下がり (文春文庫)

実家の引っ越しのごたごたでいつの間にか我が家に来ていた本。こういうの読むのは、祖母かなぁ。時代小説は自分からはあまり読まないので新鮮でした。
全4編の時代小説短編集です。ミステリっぽい要素もあるけれど、ミステリにカテゴライズするほどミステリでもない。多分ストーリーを引き締めるための謎成分なのでしょう。
ひょんなことから藩内で最も強いといわれる剣の遣い手に目を付けられる表題作「麦屋町昼下がり」、昔は剣の名手で鳴らしたが今は酒浸りの日々を送る男に護衛の仕事が回ってくる「三ノ丸広場下城どき」、切腹した友人の遺書から藩の後ろ暗いあれこれに巻き込まれてゆく「山姥橋夜五ツ」、夫の出世問題で幼馴染と水面下の戦いをする「榎屋敷宵の春月」。
人って弱いものだよなぁ、というところに焦点を当てているので、社会背景の違いはあってもすいすい読めます。

どれか一つ選ぶなら、「三ノ丸広場下城どき」が好きでした。上記の通り主人公・粒来重兵衛は元は名手で鳴らした剣の使い手なのですが、最近はすっかり稽古もさぼっておなかもポッコリしてきている。そんな重兵衛がいつものように町で飲んでいると、すすっと寄り添う男がひとり。

「粒来どのは、無外流の名人であられるそうですな」
 突然に、市之進が重兵衛の耳もとでささやいた。何を大げさなことを言うか、と思ったが、重兵衛は阿るような市之進のささやきが、ひさしく埃をかぶっていたむかしの矜持を気持よく刺戟したのを感じた。
 重兵衛はむかしの光栄を思い出させた男をじっと見た。そしてわざと磊落を装って言った。
「なあに、むかしのことでござる」(P.98)

こういう心の動きの描写がうまいなぁと思います。あるある、わかる、という感じ。
今は太鼓腹の重兵衛に護衛の話が来るのは、何かあっても碌に護衛ができないことがわかっていて「都合のいいいやつ」として名指しされたのだということを、読者はこの短編の冒頭ですでに知っています。そして重兵衛は思惑通り失敗する。
実は重兵衛は何かあっても腕に覚えのある自分ならなんとかできると思っていたのです。しかしできるつもりだったのに、できなかった。できなかった事実を目の前にまざまざと突きつけられたときの絶望と恥と後悔は、知ってる人なら知ってるはずです。あのしんどさ。
失敗はリカバリが本番です。やっちまったことは戻らないので、いかにリカバリするかで真価が問われる。つらいんですけどね。腹を切れば自分だけは現実世界から逃げられるんですけどね。重兵衛はどうするのか。

時代小説とはいえ、人の心は数百年ではたいして変わらないので、舞台が多少変わった世界ってだけで、ある意味一種のファンタジーかもしれない。
良い息抜きになりました。