好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

遠藤周作『聖書のなかの女性たち』を読みました

聖書のなかの女性たち (講談社文庫)

聖書のなかの女性たち (講談社文庫)

元々姉が持っていた本だったのですが、実家の引っ越しに伴い私のものになりました。聖書に出てくる女性たちについて語られている本です。薄いのですぐに読めるのですが、じわじわくる良い本でした。

聖書は世界で一番読まれていると名高い本で、幼稚園や学校がキリスト教だったことがある私にとっても新約聖書は割と馴染み深い本です。しかし日本ではキリスト系の学校などに行かない限り、やはりあまり馴染みはないようです。とはいえ宗教は生活習慣に根差すものなので、それも当然でしょう。日本にとってキリスト教が宗教として多数派になったことはないわけですし。1000年以上前から定着している仏教ですら、詳細な知識となるとあまり知られていないのですし。

とはいえキリストの言行録である新約聖書福音書は非常によくできているので、興味があるならぜひ読んでみてほしいです。聖書自体は分厚いですが、一つ一つの福音書はそんなに長くないですし、キリスト教がグローバルな宗教になった理由がよくわかりますので。
しかしいきなり聖書を読むのはなんだか気が引ける、という方にこそ、本書をぜひともお勧めしたい。そんな構えなくても、書かれていることは人間の暮らしですから、2000年経っていようと共感できる部分に変わりはありません。

キリスト教の核とは何か、というのはちょっと壮大すぎるテーマのようですが、遠藤周作は「苦しみの連帯」について重点的に描いていて、ここが核だと考えていたと思われます。相手のつらさ、苦しさ、痛みに寄り添うこと。あなたが悲しいと私も悲しい、ということ。だからこそキリストは社会的に弱い立場の人に特に目をかけて、あなたが苦しんでいることを私は知っていますよ、と伝えることで相手を救った。
それだけ?という気もしますが、これって最大の現世利益かもしれない。苦しみが取り除かれれば一番良いのでしょうが(「奇蹟」という形で取り除かれることもありますが)、治ったという事実よりも「私の苦しみをあの人は理解してくれている」と実感できることこそ宗教という形で思想が広まる所以だと思うし、信者が救われたと感じる理由のように思います。多分、ただ「苦しみが消える」だけではきっとここまでの宗教には育たなかった。
例えば車で暴走したり銃を乱射したりする無差別殺人で、動機として「社会への恨み」が挙げられることがあります。「生きるのが辛いからひと暴れしてから死のうと思った」旨の供述に「一人で死ねよ」というコメントが付くことがありますが、きっとそういうんじゃないんだ。自分がこれだけ苦しんでいるんだというのを、たぶん彼らは誰かに、できればたくさんのひとに知ってほしいのではないかというのは、私がそういうニュースを耳にするたびにずっと感じていたことでもあります。ひとりで苦しみを抱えて死ぬなんて寂しすぎる。世界は自分の苦しみなど存在しないかのように続いていく。こんなに苦しんでいる自分がここにいるんだ、という意思表示として犯行に走ってしまったなら(だから責められない、許されるという話ではもちろんなくて)、見てくれるひとはどこかに必要なのだということです。本当は一人で完結できるのが理想だけど、やはり他者を必要とする、欲求として必要としてしまう。見ていますよ、頑張っているね、と声をかけられることで張り合いが出るように、つらいときに誰かが見守っていてくれるだけでかなり救われるのではないですかね。いつでも神様が見守ってくれている、ということを信じることができるなら、それは絶対無敵の味方になるでしょう。

私は福音書で書かれるキリストの言動や道徳律には賛同するし、キリスト教から派生した光の部分も善いものはたくさんあると思っています。でも信者ではないのは、ひとえにキリストを神として信じることができないからです。生まれ育った環境が信仰心をベースに持って動いていたなら、生活様式レベルで信仰心が行動にしみ込んでいるだろうから、自身も信者になったかもしれない。しかし現代の東京で、明示的になんらかの宗教を信仰するというのはかなり難しいですよね。道徳律としてのキリスト教はうなずける部分も多いんですけどね。宗教としては難しい。宗教というもの自体が難しい…
よって「自分のことを見守ってくれている誰か」を神に求めることは現実的ではないので、必要なら誰かを自力で見つけなくてはいけないようです。逆に、「誰かのことを見守る自分」になることは比較的現実的です。実際宗教活動の一環として慈善活動をするのは「つらい立場のあなたがいることを私たちは認識していますよ」という意思表示になるでしょう。神を信じなさい、神が救ってくれるでしょう、という主張よりはよほど建設的だし信頼できます。きっとこれからの宗教はそういう活動に軸足を置いて展開していくことになりそうですね。

ちなみにこの本は1960年に刊行されたものなので、現代とは世界情勢も変わっているのですが、当時イスラエルとヨルダンに分断されていた聖地エルサレムを訪れた時の手記が収録されていて興味深かったです。キリストが処刑されたゴルゴダの丘が観光地化されていたりして、このころからこのありさまでは今はどんな・・・機会があったら行ってみたい気もします。