好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

現代思想 2020年10月臨時増刊号『総特集 ブラック・ライヴズ・マター』を読みました

2020年10月に臨時増刊号として店頭に並んだ現代思想の「ブラック・ライヴズ・マター」特集。装幀が格好いいなと思ったら、川名潤さんのお仕事でした。
これ、ちゃんと去年のうちに買ってはいたんですけど、ずっと手に取れませんでした。絶対しんどいだろうなと思って勇気が出なかった。ようやく先月くらいから読み始めて、今月読み終えた次第。見て見ぬふりをしているほうが心穏やかに生きられるところを容赦なく突いて来るのでとっても辛くて、インタビューや寄稿を一日一本ずつ読み進めていました。でも5月25日までには読み終えたいと思っていて、それは果たせた。

掲載されている論文の一覧については、下記URLからご確認いただけます。全部でざっと43本ほど。

www.seidosha.co.jp

正直に申し上げますと、私はこの雑誌を買った当時、2020年のブラック・ライヴズ・マター(以下、BLM)運動が具体的に何を要求するものなのかを全く理解していない状態でした。私にはあまり関係のない話だと思っていたし。そして、あまり親しい立場にない人間が拳を振り上げるのって、義憤に駆られるというアトラクションを楽しんでいるように思えて気が引けるので、特に何のアクションもしなかった。ただナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーの『フライデー・ブラック』が凄く良かったのもあって、理解したいという気持ちはずっとあった。なので、現代思想で特集を組んでくれたときには迷わず買いました。

2020年のBLM運動は、5月25日に起きたジョージ・フロイド事件がきっかけとなって起きたものです。被害者の黒人男性フロイドは、偽札使用の疑いで呼び出された警察官に頸部を圧迫されて殺害された。その映像がSNSで拡散されて、世界的な抗議運動になった。
私が認識していたのはせいぜいこのくらいだった。BLM運動が警察の予算削減を訴えるものであることも、パンサー党のことも、BLMというスローガンがいつからあるのかも、クィアフェミニズムの運動と深いつながりがあることも、今回の特集を読んで初めて知りました。あまりに何も知らなさ過ぎたので毎日論文や寄稿を読むたびにいろいろ衝撃を受けては落ち込んでいた。知らなかったことに落ち込んでいたのではなく、これまで見ていなかった、目を逸らしてきた、というのを自覚せざるを得なかったからです。心の底ではちゃんと自覚していたことではあるけど、まぁ、へこむよね。

なのでどれも興味深く読んだのですが、特に印象的だったものをいくつか紹介しておきます。


■川坂和義「全ての人が自由になるまで誰も自由にはなれない――クィア・ムーブメントと人種とジェンダーセクシュアリティの交差」

BLMとクィア・アクティビズムは、別々の運動と見られることも少なくないが、差異よりもむしろ共通点の方が多い。二〇一四年からのBLMの主催者である三人の女性のうち、二人がクィアというアイデンティティを表明している。(中略)だが、一方で双方の共通点を消去する作用も働き続けている。LGBTの運動が主流化していくなかで、人種問題や経済的平等をめぐる問題は優先課題とされてこなかった。BLMの報道に関しても、ジェンダーセクシュアリティの要素が消去されることが多い。(P.58)

ジェンダーセクシュアリティLGBTの問題がBLM運動とどう関わっているかを論じた寄稿。黒人もトランスジェンダーも、社会構造的に取りこぼされやすい立場であること、黒人のトランスジェンダーはさらにその確率が高くなること。
ちなみにこの論文は、フェミニズムとBLM運動の関係を論じた新田啓子の「未踏のホームへ(P.48)」の次に掲載されていて、一連の流れに乗って読めるのも良い。公民権運動で置き去りにされた女性がブラック・フェミニズムを主導した歴史を読んだうえで、ではクィアは? と、文章に入りやすくなっています。


■兼子歩「アメリカの警察暴力と人種・階級・男性性の矛盾」

その結果、警察的男性性は、対決しねじ伏せるべき対象たる危険な男性性を求めつつ、男性性のコンテストに敗北する可能性を過剰なまでに恐れ、対峙した男性性を誇大化して認識するという矛盾を招くことになる。そしてここに人種化された警察暴力が発動する契機がある。この危険な男性性の体現者として選ばれるのが、主に黒人男性だからである。(P.77)

BLMが予算削減を求めるアメリカ警察がどのような経緯で成立したか、そしてアメリカ警察社会の文化風土とはどのようなものかを論じたもの。非常に興味深く読みました。いわゆる「男の世界」というやつ、心地よい人には心地よい、あの独特の雰囲気。そこで女性や非白人はどのような振る舞いをしやすくなるのか。
「郷に入っては郷に従え」という言葉の功罪を考えざるを得ない。でも既存のルールで動いた方が話が早いっていう理屈はわかる。たとえば企業風土、ここではこういう振る舞いをすると評価が上がるよ、といわれたら、じゃあそういう風にしようかなと思うのはよくあることだ。それが譲れない何かとバッティングしなければ、まぁそれくらいならって譲って、その一歩が二歩になり三歩になり、最初がどうだったかわからなくなったりして。でも別に、一つ一つはいちいち戦うほどの事でもないし、でも「ちりつも」で身動きとれないような状況になったりして。
風土を変えるって、ものすごく難しいことなんですよね。その組織が成立した歴史とか、これまでの経緯とか全部積みあがっての「今」だから、それはおかしいって言われたらこれまでのことが全部間違いだったみたいな気にもなってしまうし。もうそういう時代でもないんだよって、頭で分っていても感覚がついて行かないこともある。
ノアの洪水みたいに、一度全部まっさらにした方がいいんだろうか?


■南川文里「制度から考える反人種主義――制度的人種主義批判の射程」

制度的人種主義は、「台本」と「経路」によって無意識の選択が連鎖する状況を、「当たり前」と受け止めるような態度として形作られる。「台本」と「経路」の相互作用は、一見「合理的な」基準によって不可視化され、人種集団のメンバー以外に意識されることは少ない。(P.93)

特定の集団を社会構造の周縁に押し込めて、そこから出ることが困難な状態に固定しておくこと。ディストピア小説なんかでは誰の目にもおかしい世界として描かれることがあるけど、小説の人物たちも大方そうであるように、実際にその社会の中にいると、それが異常かどうかの判断が難しくなる。だから制度的人種主義はなかなかに難しい。
まずは観測して、数値として提示することでおかしな状態であることを共通認識とする必要がある。おかしいね、という認識が共有できたら、それを改善していく。思考停止をせずに、ブラックボックス化させずに実践していくことが大事だと書かれている。そうなんだろうな。確実に物事を進めるには、足元を固めておくべきなんだろう。既存の制度で不利益を被っていない人を説得するのは難しいだろうけど、数字があれば後押しになる。
それでもやっぱり「道がないわけじゃないんだから、本人の努力が足りないんだろう」という意見もあるんだろうな。常識は一夜で変わらないものな。手放す勇気が必要だ。
労働者階級に生れたエリボンが『ランスへの帰郷』で似たようなことを書いていたのを思い出した。


■土屋和代「刑罰国家と「福祉」の解体――「投資‐脱投資」が問うもの」

ブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動は「投資ー脱投資(invest-divest、警察・刑務所・刑事司法制度の予算を削減/脱投資し、教育・雇用・住宅・医療・コミュニティに暮らす人びとのために投資する)」というスローガンを掲げる。BLM運動の共同創設者の一人P・カラーズは、我々に必要なのは「公共の安全性」についての定義を変えることだと語る。「警察力」ではなく人びとの命を支えるコミュニティでの営みこそが安全をもたらすのだと。(P.124)

BLM運動が警察や司法について「予算削減」を求めていることを本書で初めて知ったので、かなり衝撃でした。そんなのありか! というか、そこまで言われるほどの状態なのか! でも日本はそんなことないもんね、なんてちょっと軽々しく口にするのは憚られる。私自身については日本ではマジョリティなので、職質されたことも嫌がらせめいたことされたこともないけど、それは私個人の話でしかない。
アメリカと日本の警察組織をそのまま比較するのもおかしな話ではあるのでそこは置いておくとして、しかし、刑事司法制度を抜本的に見直すことを求めるっていうのは驚きでした。革命的だ。なんていうか、私はこれまで随分小さなスケールで物を見ていたものだな。
この論文以外でも警察権力の解体について触れた文章はいくつかあるのですが、警察という組織そのものをなくす可能性について言及したものもあって、非常に面白く読みました。そういう発想も、そうだよな、アリだよな。そんなこと考えたこともなかった自分に、大いに反省した。


■ジョン・G・ラッセル「黒人の「日本人問題」」

差別する側は差別が存在している現実をできる限り否認したがる。これは、日本人に限ったことではないが、日本では多くの人が人種差別を欧米の問題であり、他人ごとと考える傾向がある。例えば、日本人は人種差別を「アメリカ病」とみる傾向があり、その証拠は日本に黒人奴隷制や人種隔離政策がなかったからだという。しかし、この見解は日本における黒人差別の真実の歴史を無視している。日本にも人種差別が存在し黒人に対する偏見と差別の歴史が長い。(P.160)

日本における黒人差別を、例をあげて論じた文章。おっしゃる通りって感じで、とてもつらい。

ちなみに私が最近困っているのが、では差別的な言動を目の前にしたときにどういう振舞をすればいいのかってことです。道徳の時間こそ「差別はいけないと思います」と発言しながら、チャイムが鳴ったらさっさと忘れてしまう我々が、実生活においてそれを目にした時にどうしたらいいのか? 「それは差別ですよ」というのは一瞬だけど、それで相手に伝わるのか? 恥をかかされたと思われるなどして、相手の中で別の問題にすり替わってしまう恐れもあるのでは? 正しい事実を指摘するのは自分の正義感を満足させるだけで、相手の認識が変わらないと意味ないのではないか。ではどういう言い方をすれば伝わるのか。
実は本書を読んでいる期間に「それはアウトだ」と思う一言を耳にしたことがあったんですが、びっくりして咄嗟に何も言えないうちに話題が変わってしまって、結局何もできなかったことをずっと気にしている。不意を突いた言i動をされると、驚いて何もできず固まってしまう。対処のためのトレーニングが必要だと思うんですよね。でも幸いに日常ではそういう言動を見たり聞いたりすることがほとんどないので練習の機会もなく、咄嗟に身体も口も動かないことの繰り返しになってしまっていて、これはほんとに、なんとかしたい。ワークショップとか探したんですが、見つけられなかった……


■マ・ヴァン+キット・マイヤーズ「アメリカ軍事帝国主義レイシズムの交錯――ジョージ・フロイド殺害におけるトウ・タオの共犯と、アメリカとの同盟を拒否するモン系アメリカ人の抵抗」(佐原彩子・兼子歩訳 )

トウ・タオは国家に承認された殺人者たりうる。彼は、アメリカの警察と帝国の構造が重なり合う地点で、そうなるよう要請されたのだ。この重なり合う構造が、自由の「新しい友人」として、彼に積極的な沈黙を要求した。「新しい友人」は戦争後に難民となった元モン兵士に象徴される。「新しい友人」に自己決定権がないことが、アメリカ帝国の暴力と取り締まりを正当化し、暴力行為そのものに参加するよう強要するのだ。(P.308)

ジョージ・フロイドの頸部を圧迫して殺害したのは白人警察官のデレク・ショーヴィン。しかしその場にいながらショーヴィンを制止しなかった警察官の一人に、モン系アメリカ人警察官のトウ・タオがいた。この論文ではモン系アメリカ人のルーツとアメリカ社会での立ち位置について、そしてモンたちがBLM活動に参加することの意味について論じられている。
この論文でモデルマイノリティ(MM)神話という単語が出てきます。アジア系は白人社会において勤勉さや忍耐強さなどによって成功した例外的なマイノリティであるという説で、「肯定的ステレオタイプ」ともいう(P.309参照)。これはたぶん、郷に入っては郷に従えの完成形だろう。しかし兼子歩の論文の感想でも書いたように、どこまでがセーフでどこからがやりすぎなのかの線引きが難しいところだ。
難民として暮らし始めた土地で、仲間として認めてもらう必要もあるモンたちにとっては辛い立場だ。ほんとこういうとき、どうすればいいんだろうか。自分でちゃんと境界線決めておかないとわからなくなるよな。


他にも興味深い文章ばかりだったのですが、書ききれず残念だ。オバマ元大統領が黒人問題に対して冷淡な態度であったという話や、黒人トランス当事者による記事が本書に掲載されていないという指摘や、在日コリアンのライターによるエッセイのような文章などなど。
読みながらずっと、何もしていないのに疑いの目で見られる辛さとか考えて悲しい気持ちになる一方、見た目で相手が警戒すべき存在かどうかを分類することの効率性についても考えていた。相手の外見だけで警戒する気持ちというのが、私にはわかってしまうのだ。背が高い人とか声が大きい人とか、身体的に圧迫感を与える人に対して反射的に警戒することが、私にもある。何かあってからじゃ遅いし。でもその身を護ろうという反応そのものが差別になるのか?
前にヨーロッパの某国で本屋に行ったときに、店内の巡回スタッフらしいひとが珍しいアジア人の私にぴたっとくっついてきたことがあった。「私はあなたが盗みを働くんじゃないかと警戒してます」って顔に書いてあったし、別に隠そうともしていなかった。これは差別だろうか? 愉快な気分ではなかった。でも店に損害が出てからでは遅いだろう。その行動を、私は理解できる。


この特集を読んで知識をいくつか蓄えることは出来たけど、何か解決したわけではなく、むしろ考える問題が増えた。まぁ当然ではある、そういうふうにつくられた本だ。ものすごく落ち込むけど、家に置いておきたい一冊でした。
BLM運動の後、別に何かが解決したわけでもないので、これからもことあるごとに思い出して考えて行動しなくてはならないのだろう。疲れるけれど。
でも考えているだけではあまり意味がなく、行動しなくてはならないというのは分っている。心の中でどんなに寛容でいても、それだけじゃ仕方ないのだ。
私も完ぺきではないし、この本もすべてをカバーしているわけではないし、社会もおかしなところだらけだけど、少しずつ進んでいくしかないんだろうな。読んでよかったです。

映画『ファーザー』を観てきました

thefather.jp

映画館で予告編を観てこれは行かねばと思っていた『ファーザー』を、ようやく観てきました。あんまり期待しすぎるのもどうかなとも思っていたけど、要らぬ心配でした。実に良かった。

ロンドンで独り暮らしをする老人アンソニーは、娘のアンが派遣する介護人とうまく行かない。アンソニーは手伝ってもらうことなど何もないと思っているし、介護人はいつも、腕時計を始めとする彼の身の回りの物を盗んでいくからだ。これまで父親の世話を続けていたアンが介護人を依頼するようになったのは、結婚してパリで暮らすことになったから。しかしアンソニーは言う。「そうしたら俺はどうなる」「お前は俺を見捨てるのか」
何人目かの介護人ローラは、ようやくアンソニーも気に入ってくれそうな雰囲気。しかしアンソニーの家には謎の男が我が物顔で居座っており、自分はアンと結婚して10年になると言う――。


認知症の老父アンソニーを演じるのがアンソニー・ホプキンスなんですが、もうとにかく彼が素晴らしかった。アカデミー賞主演男優賞受賞したそうですが、納得である。繰り返すけど、素晴らしかった。ちなみに娘アンを演じるのはオリヴィア・コールマン。『女王陛下のお気に入り』、まだ観てないや……。

アンソニーは娘のアンや我々観客から見れば明らかに認知症である。自分が置き忘れたり落としたりして失くしただけのモノを、盗まれたと主張するのはよくある被害妄想のパターン。それに加えて記憶の混濁も見られて、買い物から帰って来た娘が誰か分らずに「誰だ?」と誰何したりする。

この映画の面白いところは、これら記憶の混濁が「アンソニー視点」で映されるところだ。買い物から帰って来て「アンはここよ」と自分を指す女性は、数分前の場面で彼と話をしていた女性ではない。アンソニーは、自分をアンだと主張するその人物のことを、アンソニーが認識している「アン」ではない人間の姿として見ている。彼にとっては「アンではない」が真実なのだ。
でも「アンはどこだ?」「アンはここよ」と言われると、アンソニーはもうそれ以上言い返せない。彼は、自分が間違っている可能性のほうが高いことを自分でわかっている。わかっているけれど、頼りになるのは彼が見ていると思っているものだけ。だから彼は見ることをやめないし、でも混乱は続く。「言ったでしょう」「話してあったでしょう」「もう一週間になります」とか言われた時、彼は黙って引き下がるのだ。けどその表情に浮ぶ戸惑い、不安、混乱を、アンソニー・ホプキンスは、それはもう実によく表現している。俳優って凄い。

アンソニー視点のカメラであることが観客に明らかになった後は、登場人物たちの顔と役割がいっそう不安定になる。時は遡ったり繰り返したり、同じ名前を複数の人間が名乗ったり。思い出したのは映画『去年マリエンバートで』で、あの映画も時系列やストーリーが錯綜していた。この映画では、最後まで観ればあの時のあれはここが間違ってて、とかがちゃんとわかるようになっています。


そしてこういう映像を見てしまうと、自分のことを考えるのが人の常である。
私の両親はまだ認知症の気配はなく、父親の耳が遠くなったくらいだ。けどいずれこういう時がくるかもしれない。私が中学生のときに亡くなった祖母はずっと元気な人だったし、認知症にはならなかった。けれど病気をして入院してからぐっと元気がなくなって、被害妄想の症状が出たのをよく覚えている。それまで人の悪口なんて全然言わない人だったのに、同じ病室の隣のベッドの人が物を盗んだということがあって、まだ中学生だった私はかなりショックだった。祖母自身、年齢の割に元気であることを誇りにしていたので、入院なんてことになって一気に自信がなくなったのだろう。数か月であっという間に亡くなってしまった。


映画を観ているときは、アンソニーの心情を思うと辛くてやりきれなかった。新しい介護人ローラに良いところを見せようとしたアンソニーが「私は昔ダンサーでね」みたいなことをいう場面があるのですが、そこでアンが突っ込むのです。「エンジニアでしょう?」
エンジニア!! これまで頭を使って論理的な思考で仕事をしてきたひとが、記憶が曖昧になっていくのは恐怖だろうな。昔はバリバリ仕事をして、周りからも頼られていたのに、「話しておいたでしょ?」とか言われて憐れみのこもった目で見られるようになるのだ。辛すぎる。
私の父親もエンジニアだったし、私もエンジニア系なので、他人事ではないのだ。私はずっと一人暮らしのつもりだけど、認知症になったら自分でちゃんと気付けるだろうか? 日記でもつけておいたら振り返れるかな。おかしくなったら誰か教えてくれるだろうか。私の現在の娯楽の多くが視覚に頼るものだから、目が見えなくなったりしたらどうやって生きて行こうかというのは、たまに考えることがある。

そういえば映画の中でアンソニーがヘッドホンで聞いていたオペラ、聞いたことあるけどタイトルを知らなくて、調べたらビゼーの「耳に残るは君の歌声」でした。全体的に音楽が良かったです。音楽担当はルドヴィコ・エイナウディとのこと、憶えておこう。


この映画を観た人が、アンソニーとアンのどちらに心を寄せて観ていたのかは多分それまでのその人の経験によって違うのかもしれないなと思いました。私は9割方アンソニー寄りの立場で観ていたけど(カメラトリックの影響もある)、実際に介護をした人やしている人はアンの立場で観るのだろうか。ちょっとお聞きしてみたい。

以下、映画の結末に触れるので隠しておきます。

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文楽「生写朝顔話」を観てきました

www.ntj.jac.go.jp

令和3年5月の文楽東京公演、第二部を観てきました。演目は「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)」です。
文楽の東京公演はなるべく行くようにしているのですが、ブログ記事を振り返ったら2020年秋から行っていなかった。冬に行きそびれたから、ずいぶん久しぶりになってしまった。
実は今回も緊急事態宣言を受けて、5/9~5/11は休演となっていました。私は幸い5/12以降のチケットを買っていたので無事に観られましたが。不安のある人は払い戻しするのでご無理はなさらず、というスタンスでしたが、それなりに人が入っていたから、辞退者はあまりいなかったと思われる。

生写朝顔話は初めて見る演目でした。若い男女のラブストーリーで、良家の若い男女が互いに一目惚れして結婚しようとするけれど、いろいろあってすれ違い続ける話。今回上演されたのは「宇治川蛍狩りの段」「明石浦船別れの段」「宿屋の段」「大井川の段」。間にあるはずの話が少し飛ばされているのでよく分らない部分もあり、観終わってから少し復習しました。でもよくわからないままの部分もある……。
登場人物の行動原理が江戸時代仕様なので納得いかないところはあるけれども、それでも文楽は観ていて楽しい。ただ座席が今回少し後ろになってしまったので、次からはもっと前の席が良いな。これは単純に、私の視力の問題です。

おおまかな話の流れは以下の通りです。
宇治川蛍狩りの段」は武士・阿曾次郎と良家の娘・深雪の出会いの場面。阿曾次郎が戯れに書きつけた歌の短冊が風で飛ばされて、深雪が乗っていた船に吹き込む。まぁ素敵な歌、と乳母と共に感心していたところで酔っ払いに絡まれ、阿曾次郎に助けられてお互いに恋に落ちる。雅ですね。しかし阿曾次郎は仕事の呼び出しで行かねばならず、朝顔の歌を書きつけた扇子を深雪に贈り、二人は一旦離れ離れに。
「明石浦船別れの段」は明石浦で停泊中の大きな船に乗った深雪と、小舟に乗った阿曾次郎が月夜の下で再開する場面。感極まった深雪はもう離れないわ!とか言うのですが、阿曾次郎は大事な仕事があるので今は駄目だと説得しようとする。しかし深雪は連れて行ってくれないならここで身投げする!とか言うのだ。お嬢さん、仕事がある人を困らせちゃいけません。仕方がないので阿曾次郎は深雪を連れて行く決心をし、両親に置手紙をするため深雪は一旦船に戻る。しかしちょうどそのタイミングで深雪を乗せた船が出航し、二人は再び離れ離れになるのでした。
その後、今回の公演に含まれない場面が続きます。深雪の両親がせっかく阿曾次郎との結婚をセッティングしてくれたのに、阿曾次郎が駒沢次郎左衛門と改名していたために相手が自分の愛する人と気付かず深雪が家出。深雪を探しに出た乳母と再会するもその乳母も亡くなり、泣き暮らした深雪は盲目となる。深雪は朝顔と名乗る旅芸人となり、阿曾次郎を探して旅をする。一方阿曾次郎あらため駒沢次郎は善人である宿屋の主人の協力のもと、悪人らしい連れとひと悶着あった模様(笑い薬がどうとか言っていた)。
そして今回上演された「宿屋の段」で、駒沢次郎と深雪(朝顔)は二度目の再会を果たすのでした。深雪は宿屋に呼ばれ、駒沢次郎の目の前で琴を弾くのですが、盲目であるため自分を呼んだ宿屋の客が自分の探し人とは気づかない。駒沢次郎の連れに請われて語った身の上話から、ああこれはあのときの深雪だと駒沢次郎は確信するくせに、何かの理由があってその場では正体を明かさない。後から演奏の褒美を貰い、宿の主人に書きつけを読んでもらって初めて駒沢次郎の正体に気が付いた深雪は、半狂乱になってあとを追いかけるのでした。
そして最後の「大井川の段」で一足早く大井川を越えた駒沢次郎を追いかけながらも、増水しているために川を渡れず足止めされて悔しがる深雪。そこへ宿の主人が追いついてくる。ちなみに駒沢次郎は深雪への褒美にとある目薬を入れていたんだけど、これに特定の生まれ年の人の生き血を足すとどんな病もたちどころに癒えるのだとか。そして宿屋の主人が大井川の手前でいきなり切腹する。彼はちょうどその年の生まれで、実は深雪の乳母が宿屋の主人の娘であり、彼は深雪の両親に恩があったのである! 駒沢次郎が深雪に贈った目薬と宿の主人が切腹して流した生き血によって、朝顔=深雪の視力は戻るのであった……。うーん、これはハッピーエンドなのか。


今回この第二部を観ることにしたのは、咲太夫&燕三ペアが切り場を演じるからで、「宿屋の段」がこの話の切場、クライマックスに当たります。盲目の深雪(朝顔)が駒沢次郎(阿曾次郎)の前で琴を弾き、あとから駒沢次郎=阿曾次郎であることを知って「気付かなんだ!!」と泣き叫ぶ場面。
深雪の人形の遣い手は豊松清十郎さんだったのですが、琴を演奏する場面が凄くて、じっと凝視してしまった。人形が劇中で楽器を演奏するときって、手の動きが実際に演奏する時の動きに忠実なんですよね。舞台の横で実際に琴が演奏されるので、遠目に指遣いも見えるんですが、ほんとに、人形の手と奏者さんの手の動きが同じなんですよ。時差なんかないシンクロっぷりで、それを涼しい顔して、何でもないですよ、って感じでこなすのだ。人形遣いの人は皆、実際の琴奏者さんと一緒に弾いてる感覚なんだろうな。
あと深雪は零落して乞食のような身なりになっても元々の良家のお嬢さんらしさもあるのですが、ひとたび阿曾次郎のことになると半狂乱になるギャップが実に凄かった。咲太夫さんの語りの気迫よ……三味線の盛り上げも素晴らしかったです。

しかし、駒沢次郎が深雪と再会したときに名乗り出なかった理由が私にはよくわからないままだ。多分仕事があるからとか何か理由があるのだろうけれど、言ってあげればよいのにねぇと思ってしまうのは現代の感覚なのかな。名乗り出ない説明は特に無かったはずなので、当時の観客から見れば当然の対応なのかもしれない。「深雪」時代には深雪のほうが阿曾次郎よりも身分が上で、「朝顔」時代には阿曾次郎(駒沢)の方が(傍から見れば)深雪よりも身分が上になるというのもポイントなのかもしれない。あの場に悪人面の連れがいなければ話は別だったのだろうか。うーん、わからん。しかし駒沢次郎は真面目に仕事をこなし、上司の覚えもめでたく、美男という設定で、深雪以外の女と結婚もせず、ちょっといい人すぎるぞ。とはいえ自分のために全てを捨てて追いかけてきた良家の娘が今は旅芸人に身をやつしていることを知りながら、盲目になった彼女を置きざりにしてさっさと大井川渡ったりするあたり、なかなか地に足のついた良い性格をしているな。深雪ちゃんはちょっと直情径行が過ぎるようだけど、駒沢次郎の将来は大丈夫だろうか。上司の娘と結婚して、仕事のたびについてこられたりしたら大変だぞ……頑張ってね……。

久しぶりの文楽、楽しかったです。次はもっと前の席で見るぞ。

「2022年の『ユリシーズ』」の読書会(第十一回:第十一挿話)に参加しました

www.stephens-workshop.com

2021年4月25日にZoom上で開催された「2022年の『ユリシーズ』」の読書会、第十一回目に参加しました。

2019年に始まったこの読書会は『ユリシーズ』刊行100周年である2022年まで、3年かけて『ユリシーズ』を読んでいこうという壮大な企画で、ジェイムズ・ジョイスの研究者である南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんの3名が主催されているものです。なお読書会共通のテキストとして使用しているのは柳瀬訳です。
この記事では一参加者としての個人的な第十一挿話の感想について記載していますが、作品解説やあらすじ紹介のようなものはありません。内容が気になる方は上記URLにて公開される資料をご覧ください。


さて、第十一挿話は「セイレン」。オーモンド・ホテルでサイモン・デッダラスらが歌い、ブルームがリッチーと食事をしながら歌を聞き、その間にボイランが馬車を走らせる場面です。

あの、しかし、早めに正直に書いておきますけど、私は第十一挿話が嫌いです。もう全然楽しくなかった! だって全然わからないんだ! そして今もわからない! 文字を追うのが辛すぎる!

ということで、何故十一挿話がこんなに嫌いなのかを考えてみたわけですけども、理由はだいたいわかっています。語順がぐちゃぐちゃで読みにくいったらないのだ。

 甘いお茶をケネディ嬢は注いでミルクを入れてから両手の小指で耳栓をした。(P.439)

上の文章なんか、お手本のような悪文である。読みやすくするなら「ケネディ嬢は甘いお茶を注いでミルクを入れてから、両手の小指で耳栓をした」という語順になるはずなのだ。
ちなみに私は『ユリシーズ』を読むときに、英語の原文と柳瀬訳を対訳のような形で Word でタイプしている(写経)のですが、上記柳瀬訳は英語原文の語順に忠実で、英文も「Sweet tea」から始まっています。つまり、原文でも「お茶」から文章が始まる読みづらい文章なのです。しかしもう一つの有名な日本語版『ユリシーズ』である丸谷才一らの訳(以下、鼎訳)では「ミス・ケネディはおいしいお茶とミルクを入れてから…(単行本版2巻 P.21)」となっているので、読みやすいように語順を変えたようでした。
訳文は解釈の問題なので、どちらの訳が適切かという点についてはここでは触れないでおく。しかし少なくとも、柳瀬訳と原文の読みにくい語順は「わざと」だ。となると、ジョイスはなんでわざわざこんな語順にしたんだ?
きっと何かジョイスなりの理由があるんだろう。この語順でなければならない理由が。でも読者である私に一ミリも伝わってないんですけど。私の修行が足りないという可能性が濃厚ではあるけど、ジョイスは読者に何を求めてるんだ。

とはいえ、これはまだいい方です。ちゃんと読めば何が書いてあるかわかる文章だし。
問題は以下のような部分。

 やんわりとブルームは肝無しベイコンの向うに強張った表情の歪む律動を見た。腰痛だ。ブライト病のぎらぎら眼。プログラムの次なる曲は。支払い増え笛の曲折。丸薬、パン屑弾奏製、値一箱一ギニー。しばしの休止符。耳鳴りも。五人囃子が死んじゃった。おあつらえ向き。腎臓パイ。美しい花を美し。あまり儲っていない。で値頃最高。いかにもこの男らしい。パワーか。飲むものにはうるさいからな。グラスに傷があるだの、新鮮なヴァートリ水だのと。カウンターからマッチをくすねて倹約。そうして一ポンド金貨をちょびりちょびりと散財する。で、当てにされるときには一銭も出さない。酔っぱらうと馬車賃も踏み倒す。変り種。(P.462)

ブルームとリッチーが歌を聞きながら食事をする場面です。歌声を聞きながら、ブルームが対面に座るリッチーについて何か考えてるんだろうなとは思うけれど。思うけれど! 意味がわからない! 原文を見てもやっぱりわからない。鼎訳の註を見て細かい語彙の知識はついても、根本的な疑問は何も解決しない。「パン屑弾奏製(pounded bread)」って、何故そんな単語がここで出て来るんだ。テーブルの上にパン屑でも落ちていたのか。しかしなんでこんな単語になるの?

そんな感じでまるでわからない文章がごろごろ出て来るので、ずっとイライラして読んでました。第十一挿話なんか嫌いだ。

でも読書会であらすじを聞き、他の参加者の感想なども聞いて少し落ち着きました。『ユリシーズ』二周目以降なら、もうすこし分かり合えるかもしれない、などと淡い期待を抱いている。一周目では、これは無理だ。


読書会では、第十一挿話の冒頭部分について盛り上がったのが非常に面白かったです。
そう、冒頭部分! 柳瀬訳P.433~P.436の「開始!」までの部分です。この「冒頭部分」が第十一挿話に存在する意味は何なのか。それによってどんな効果があるのか。
冒頭部分を初めて読んだときはあまりの意味不明さに「わからーん!」と心の中でちゃぶ台を100回くらいひっくり返したくなったし、私が第十一挿話を嫌いな理由の一つでもある。前述の二つの抜粋部分など比べ物にならないくらいわけのわからん部分。散々惑わされてこれがセイレーンの歌声か……とも思った。だって「こなまこしゃくしゃくしゃくしゃ。(P.433)」なんて、初読でわかるわけがないのだ。でも第十一挿話を一通り読み終えると、挿話で書かれたあれこれをつまみ出して並べていることに気づく。気づきはするけど、意味はわからない。
読者が初読じゃ理解できないことをジョイス自身は当然わかっていて、狙ってやってるのだ。この冒頭部分をここに書こうとしたときの、そして仕上げた時のジョイスの顔が見てみたいものである。さぞ悪い顔をしていたことだろう。
第十一挿話のテーマは音楽、音、楽曲であって、この冒頭部分が第十一挿話の「序曲」にあたるというのは、まぁ理解はできる。序曲だから冒頭じゃなきゃいけないんだ、というのは理性的な説明だ。
だけどそれだけじゃなくて、最後に置いたらどうなる? とか、この部分が無かったら挿話全体としてどうなるだろうか? という話題がこの読書会ではごく自然に出てきて、それでzoomのコメント欄が盛り上がっていた。これがこの読書会の凄いところだと思います。読んでいて意味がわからなくても、読書会があるからとりあえず目を通すだけでもしておこう、という気になれる。一人で読み進めるだけだったら、私はきっと第十一挿話で脱落していたことでしょう。


なお第十二挿話「キュクロープス」の読書会は6月下旬。すでに写経(英文と柳瀬訳の対訳まとめ)を進めていますが、分量は長いものの、第十一挿話よりずっと読みやすくて面白いです。第十二挿話は、柳瀬訳で読む最後の挿話だ。次回の読書会も楽しみにしてます。

ローレン・アイズリー『星投げびと コスタベルの浜辺から』(千葉茂樹 訳)を読みました

星投げびと―コスタベルの浜辺から

星投げびと―コスタベルの浜辺から

古本屋で工作舎の自然科学系エッセイを見かけたときは、できるだけ買うようにしている。外れがないからだ。
この本も、古本屋で見つけて買った一冊です。著者のアイズリーの名前は知らなかったけど、タイトルが良いし、目次にずらりと並んだ章タイトルが非常に好みだったので。「鳥たちの裁判」「惑星を一変させた花」「最後のネアンデルタール人」……はい、これは好きなやつ!

実際読んでみると結構がっつりめの自然科学エッセイ(ネイチャーライティングとも呼ぶらしい)で、しっかり目を覚まして文字を追わないと頭に入ってこないタイプの本でした。なので一ヵ月ほどかけて、ゆっくり読みました。
硬派な文章だし、ところどころ頑固そうな雰囲気も感じられはするものの、アイズリーがものを見つめる目が愛に溢れているのが感じられて、とても良かったです。世界も捨てたものではないと感じられる。多くの人が素通りするものをわざわざ立ち止ってじっと見つめるタイプの人だというのが。行間からしっかりと伝わってきました。アイズリーは、ニューヨークにいても、化石を掘るために地方の田舎にいても、そこで生きるあらゆる生物を愛をもって見つめる人だ。神のようだ、と言ったら本人は嫌がるだろうな。

アイズリーが出会った生き物エピソードはどれも好きだけれど、特に冒頭に置かれた「鳥たちの裁判」は印象的でした。私が鳥が好きだからというのと、初めて読んだアイズリーだったということと、両方がその理由だと思う。
「鳥たちの裁判」で描かれるのは、ニューヨークのホテルの二十階で見た鳩たちの旋回、霧の深い朝に家の近くで鉢合わせしたカラス、砂漠で出会った化学物質の飛行。それから、ヒナをひと呑みにしてしまったカラスを小鳥たちが取り巻き、鳴き喚いているのをアイズリーが偶然目撃した事件のこと。

 あえてカラスに攻撃を挑むものはいない。しかし、鳥たちは家族を奪われたものによせる本能的な共感の声をあげた。空き地は、鳥たちのやわらかな羽ばたきの音と鳴き声で満たされた。その翼で殺人者をさし示すかのように羽ばたいた。おかしてはならない漠とした倫理をカラスが破ってしまったことを、彼らは知っているのだ。そのカラスは死の鳥なのだった。
 そして、生の核心にあるかの殺人者たるカラスは、おなじ光に羽を輝かせ、ふてぶてしく、身じろぎもせず、おちつきはらって、ほかをよせつけずに座っていた。
 ため息は完全に静まった。そして、そのとき、私は審判がくだされるのを見たのだ。審判の結果は死ではなく生だった。あれほど力のこもった判決を二度と見ることはないだろう。あの痛ましいほど長くひき延ばされた声音を聞くことは二度とないだろう。抗議の嵐のただなかで、彼らは暴力を水に流したのだ。まず最初に、ウタスズメのためらいがちな、しかし、クリスタルのように透明な鳴き声がひびきわたった。そして、はげしい羽ばたきのすえに、最初は疑わしげに、やがて、つぎからつぎへと歌いつがれていって、邪悪なできごとは徐々に忘れ去られていったのだ。鳴鳥たちは奮い立って、歓喜の声で喉をふるわせた。生きていることは甘やかで、陽ざしは美しい。だから彼らは歌うのだ。彼らはカラスの重くたちこめる影のもとで歌った。カラスの存在を忘れてしまったのだ。彼らは死ではなく生を歌いあげる歌姫たちなのだから。(P.36-37、「鳥たちの裁判」)

アイズリーが見つめる「自然」というのは、きっとこういうものなんだろう。厳しくて、優しくて、薄情で、冷酷で。夜の後には朝が来て、冬の後には春が来るけど、それを迎える側は朝や春にはもうこの世にいないということは、十分にありうる。生きとし生けるものすべてがそれを知っている。

アイズリーはソローやエマソンを引用し、自身をナチュラリストと呼び、人間中心主義には冷淡な態度ではあるけれど、自分が人間であることを自覚しているところが好きだ。ナチュラリストには孤独が必要であると言い、彼自身孤独を愛しているけれど、人間が嫌いなわけではない。「自然」という言葉の曖昧さも自覚している。
ナチュラリスト」は極端な主義主張の人をも含むので胡散臭い印象を持っているのだけれど、アイズリーは善き科学者という感じで安心する。倫理をもって科学技術を使役することができる冷静さを持っていそう。過度に技術を恐れることもなく、中道を行ってくれそうな人。

でもやっぱり、彼の中にはぽっかりと浮かぶような孤独があって、時々ものすごく寂しい気持ちになったりしたんじゃないだろうか、とも思う。それがアイズリーの魅力でもあるのだと思うけど。

 この宇宙には人間ほど孤独な存在はない。ともに暮らす動物たちとは、社会的記憶や経験において茫漠たる溝によってへだてられている。そして、そのことを知るだけの知性をそなえているがゆえに、人間は孤独なのだ。(P.42、「長い孤独」)


基本的にエッセイ集ではあるのだけれど、中には小説仕立ての章もあって、そのひとつである「蛙のダンス」がとても好きでした。一緒に魔法にかかったような気持で読んでいた。ネタバレになるので詳しくは書きませんが、「その瞬間」が来た時の感覚の描き方が素晴らしかった。別に似たようなことを体験したことがあるわけでもないのに、ぞっとするような感覚を私も感じた。踏みとどまれなかった場合にはその体験を語る機会が永遠に失われてしまう類の魔法だ。アイズリー、何なんだこの筆力……。

好きなエピソードを並べ出したら頭から終わりまで全部触れなくちゃいけないので、この辺りにしておきます。
ホイットマンや『白鯨』、ダーウィンフロイトの言葉を引用して、アイズリーは彼が目にした世界を語るのだ。その世界が大きすぎることもなく、小さすぎることもないのは、彼自身がしっかりと目を開いてものを見ているからだろう。
アイズリー、とても好きな雰囲気でした。『夜の国』も読みたい。

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』(脇功 訳)を読みました

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

ずっと本棚に飾っていたブッツァーティの『タタール人の砂漠』を遂に読みました。いろんなところで良い評判を聞いていた小説でした。これが噂の!

内容をあまり知らずに読み始めたので、タイトルから砂漠を旅する物語だと思っていたのですが、全然違った。主人公の男は、砂漠には一歩たりとも足を踏み入れなかった……
カバーの折り返しには「二十世紀幻想文学の古典」と書かれているのですが、読んだ印象としては幻想文学って感じではなかったです。カフカ的というのはわかるけど、カフカ幻想文学じゃないよな。まぁ小説のジャンルというのはグラデーションであって、厳密な境界線があるわけではないけれど……。

この小説はごくごくおおざっぱに言うと、将校に任官した青年ジョヴァンニ・ドローゴが、初めての赴任地であるバスティアーニ砦で日々を過ごす話です。
バスティアーニ砦は北の国境に位置する砦で、隣国との間には大きな砂漠が広がっている。その砂漠を、砦の面々は「タタール人の砂漠」と呼んでいる。砂漠と、砦と、他には何もない。自慢できるのは料理だけ。
将校になったばかりのドローゴはごく一般的な若者なので、非番の日には町に出て女の子と遊んだりしたい。しかし赴任先の砦は町から遠く離れており、これといった娯楽もない。せっかく将校になったというのに、こんなはずではなかった! 別に志願してやって来た赴任地でもない。別の場所に配置換えしてもらおう。上官に挨拶をした際に配置換えを打診したドローゴは、しかし言いくるめられて四か月後の健康診断を待つことになる。


以下、小説の結末などに触れた文章となりますので隠しておきます。未読の方はご注意ください。

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J・シュペルヴィエル『ノアの方舟』(堀口大學 訳)を読みました

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シュペルヴィエルノアの方舟堀口大學訳、青銅社、1977年

古本屋でシュペルヴィエルの本を見つけたので、買って読みました。普段はAmazonのリンクを記事冒頭に載せるのですが、ISBNがついていない本だったので、代わりにセルフ書影を掲げておきます。
青銅社の函入りで、函から出した表紙の鮮やかな青も美しい。マリアブルーっぽい。実は扉にサインが入っているやつでして、サインの宛名は小林ドンゲ! なのに普通にお安くて、いいのか……と思いながら素知らぬ顔でお会計してもらいました。加えて飯島耕一の栞(リーフレット)も挟まれていて、お得感が凄い。嬉しい。

とはいえ買った理由はサインではなく、堀口大學訳のシュペルヴィエルを読みたかったからです。シュペルヴィエルのことは『世界文学アンソロジー』で「沖合の少女」を読んで以来気になっていたのですが、他の作品を読めていませんでした。古本屋で見つけて、これは買わねばと思った。

全7編の短編集で、内容は以下の通り。

ノアの方舟
「エジプトへの逃亡」
「砂漠のアントワーヌ」
「少女」
「牛乳の椀」
「蠟人形」
「また見る妻」

堀口大學訳の本書は第一書房から1939年に出たのが初版らしく、この青銅社版は再再版になる模様。私にとっては、どれも初読でした。「砂漠のアントワーヌ」までは直接的にキリスト教の聖書にでてくるエピソードをもとにした話です。
シュペルヴィエル、全体的に飄々とした雰囲気で、好みでした。足元からすすすっと忍び寄ってきて何事かを囁くような感じ。神話世界のように、動物も普通に喋ったりするのですが、ごくごく自然にそれをこなすのでなんの違和感もない、でもファンタジーでもない。こういうのを寓話的と言うんだろうか。でも寓話的小説にしては説教臭くないのが良い。
ノアの方舟」はもうモチーフからして大好物なのですが(石川宗生の「恥辱」も良かった)、ほかにも「牛乳の椀」「蠟人形」が特に好みでした。

ノアの方舟」は、飯島耕一が栞にも書いている通り、出だしがとにかく抜群に良い。

 宿題が出来上って乾かそうとした途端、大洪水以前の一人の小娘は気がつくのだった、自分の吸取紙がぐしょぐしょに濡れてしまっていることに。この紙、ふだんはいつも喉を渇ききらしている性分のこの紙が、水を吐くとはいったいどうしたというのだ! クラスでも成績きわめて優秀なこの小娘は、自分に言って聞かせるのだった、ともするとこの吸取紙は何か素敵な病気に罹っているのかも知れないと。吸取紙をもう一枚買うには、あまりにも貧しすぎる彼女だったので、その桃色の紙を日向へ出して干すことにした。ところが吸取紙にはどうしてもその悲しい湿り気を払いのけることが出来ないのだった。一方また、宿題のインキも、いっかな乾こうとはしないのだ!(P.8、「ノアの方舟」)

タイトルが「ノアの方舟」である時点で、この小説で大洪水が起きることを読者は予測できるわけですが、大洪水の予兆が渇かない吸取紙から始めるところに痺れる。そしてこの後「脳や腹部に水の溜る病気」で人々が死ぬようになり、ついには「砂漠の砂の粒までが」水を吐き出すに至る。そして読者の誰もが最初から知っている通り、ノアは方舟を作り、それに乗り込むことができた動物のつがいは生き延びることに成功する。
ノアの方舟というモチーフの面白いところは、選ばれるものと選ばれないものが歴然と区別されることです。聖書的には、人々があまりにも堕落したために全部水に流してもう一度やり直すことにしたというのが大義名分だけれど、運よく方舟に乗れた「つがい」以外の動植物に対する慈悲は皆無である。人間はまぁいいとしても、堕落した人類に巻き込まれる動植物はたまったものではなかろう。
この小説でも、方舟に乗れなかった動物たちは「大洪水以前の動物」として滅びの運命を甘受するしかないことになっているのですが、そういう不条理を軽やかに笑いながらチクリと示してくるところが良い。「ノアの方舟」に限らず、ユーモアに包んで毒を差し出すところがシュペルヴィエルの面白いところでした。

 大洪水以前の動物の一団が会合し、転覆させようとして果さなかったノアの舟に対して、邪魔をしようと計画した。彼らは鯨に参加するようにと慫慂したが、もともと正統派ではあり、また自分が生き残ると確信している鯨は、子鯨どもを引き連れて、「後ろを向いてはいけないよ、やつらはみんな無政府主義者どもだから」と言いながら、さっさと行ってしまうのであった。(P.14、「ノアの方舟」)


「牛乳の椀」はたった3ページの短編なのですが、これがまたかなり印象的な作品で、非常に好きです。お椀になみなみと注いだ一杯の牛乳を、母親のために毎朝歩いて運ぶ青年の話。ただそれだけです。飯島耕一の栞に、フランス語の教科書に載っていたとの記載があったけれど、これを題材にした授業は面白そうだ。

 諸君が往来ですれ違う男たち、彼らが必ずしも市内の一点から他の点へと、あのように歩いているにふさわしい理由を常に持っていると、諸君は思うだろうか?(P.80、「牛乳の椀」)


いやしかし極めつけは「蠟人形」ですよ! この作品もまた、出だしが素晴らしい。

 その劇場の支配人は、たいそう親切な人物だった。そのため、彼が作者の目の前で、原稿の片隅を引き裂いて、小さな団子を作ったりしても、それがいかにも楽しそうなので、作者はこの身振りの中に、むしろ他ならぬ心づくし、わが脚本に対する多少とも異常な関心を見るにすぎないのだった。(P.82、「蠟人形」)

もう明らかに曲者の気配漂う支配人の描写! こういう描き方で支配人の人となりを言い表すところ、巧いなぁ。
そして、そんな慇懃無礼を極めたような支配人の劇場には、客の入りが悪い時に観客席に配置される蠟人形がいる。

それで支配人は、彼のために、説明しなければならなかった、近頃、諸方の劇場で、前売りが少なすぎる時には、倉庫から、観客の補充を引っぱり出すのだと。彼らは完全に似せて作ってあった。いかにも人間らしい見事な仕上げで、亜麻いろの頭髪だとか栗いろの頭髪だとか、肥っているとか痩せているとかいう、単純な差別では満足しなかった。(中略)
 幕あきの一時間前に、これらの人形は配置されるのだった。彼らは待つのは平気だった。また彼らの中の或る者は、適当な折に拍手することも心得ていた。巧みに装置された電線が、彼らの拍手の時機を教えるのだった。(P.88-89、「蠟人形」)

客の入りの少ない劇を書いた作者自身は、この人ならざる観客が気に食わない。一番の理解者みたいな顔をした支配人に言いくるめられてしまうけれど、どうしても納得できない。
話の結末をここで書くことはしませんが、この結びも、出だしに劣らず印象的ですごく良かった。事実を述べるだけで、背後にあるだろうあれやこれやを浮きかび上がらせる。けど明言はしないので想像の余地が果てしなく広がる。


シュペルヴィエルは詩人でもあるそうなので、詩のほうも読んでみたいです。その前に、もう一つの短編集『沖の小娘』も読みたいなぁ。青銅社、もう存在しない版元らしいので、古本屋でうまいこと見つけたらすかさず買わなくては。