好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

ポール・シャピロ『クリーンミート 培養肉が世界を変える』(鈴木素子 訳)を読みました

クリーンミート 培養肉が世界を変える

クリーンミート 培養肉が世界を変える

面白かったという話を聞いて図書館で借りて読んだのですが……めちゃくちゃ面白かったので後日改めて買います!
「クリーンミート」=培養肉という、名前は聞いたことがあるけどよく知らないモノだったのが、なんとなくイメージがつくようになった。うーん、これは凄い、凄いぞ。

そもそも培養肉というのは何なのかというと、これが文字通り「培養された肉」なのです。動物の身体の外で、細胞レベルから培養して育てた肉。
言わずもがなのことではあるけれど、私たちが普段食べている牛肉や鶏肉というのは、元となる牛や鶏を屠殺して解体し、食べたい部位の肉を抽出したものです。しかし培養肉は、牛肉を手に入れるのに牛を必要としない。鶏肉を手に入れるのに、元となる鶏という生き物の存在を必要としない。腿肉が食べたいときには、腿の部分の肉だけを培養して創り出すのです。

 食肉のうち最も効率良く生産されている鶏肉でさえ、植物性タンパク質と比べるとやはり分が悪い。鶏の飼育には大量の穀物が必要で、1キロカロリーの肉を得るのに9キロカロリーの餌が必要だ。それですら、食肉の中では最高に効率が良いのだ。餌から得られるカロリーの多くは、くちばしの成長、呼吸、消化など、私たちにはあまり関心のない生物学的なプロセスに使われる。欲しいのは肉だけなのに、肉を得るには食物を山ほど無駄にしなければならない。(P.32)

鶏肉を手に入れるのに鶏を育てるところから始めると、時間もお金もかかる。それなら肉だけ培養すればいいじゃないか、という話です。凄い発想……写真は無いのですが、想像するだけでSF感が凄い。でも現実だっていうのが余計に凄い!
正直どちらが効率がいいのかという話は、なんとも言えないような気もする。上の引用で不要と見做されている「くちばし」が資源として流用されるルートがあるなら(あるいはこれからそういう需要が生まれるなら)、鶏ごと育てたほうが儲かるかもしれない。捨てるところがないというので有名な豚などは、肉だけ培養するほうが高くつくかもしれない。でも、本当に肉「だけ」欲しいのだとしたら、それは培養したほうが安上がりで、ごみも少ないのかもしれない。
全部「かもしれない」だ。でもその方法があるなら、やらない理由がどこにある?

動物愛護運動に長い間携わってきた著者は、培養肉の利点として現代の工業的な畜産業の犠牲者となっている動物たちをその苦役から救えるということをメリットのひとつとして強調しています。培養肉は意識を持った動物の殺生を伴わない肉の入手方法だと。
私は雑食性の動物である人間が他の生物の命を奪って栄養とすることに罪悪感を覚えたことがないし、菜食主義になろうとしたこともない。しかしこの本を読んで、現代の畜産業の在り方にNOと言うことを目的に肉を食べないという選択をしている人がいることを知りました。そういう理由で肉を食べない人がいるんですね。その事実が私にとっては非常に新鮮でした。
殺生が嫌だという理由で肉食を忌避する人の気持ちは、多分私は一生わからない。動物として、他者のいのちを食べるという罪を背負わずに生きていくのってどうよと思う(というか植物なら良いくせに動物ならNGというのがそもそも私の感覚とは相容れない)し、そんな小手先の技で罪を回避したような顔をされるのも正直腹立たしい。けれど工業的畜産業における動物虐待の現実をなんとかすべきだという意見には同意したい。とはいえ世界の食肉人口は増え続けているし、のびのびと育った動物の肉は高くつく。それなら、培養肉ってありじゃん!? というのは、わかる。ものすごくわかる。
とはいえ培養肉に本能的な嫌悪感を感じるのも、感覚としては想像がつく。殺生を伴わない動物性たんぱく質の摂取というのは多分ものすごく不自然なものだと思うし。身体に入るものだものなぁ。よくわからないものへの警戒心は、生物として順当な感覚だ。

ちなみに本書で培養肉のメリットとしてもうひとつ強く推されているのが安全性です。曰く、培養肉は非常に清潔で細菌(特に糞尿など)による汚染がないため、傷むのも遅い(つまり賞味期限が長くなる)し、食中毒の危険も低くなると。なるほどー。これはビジネス的に有利だ。
無菌であることが常に良いとは限らないと思うけど、清潔であることは基本的に良いことだろう。多分培養肉は、生肉として直接スーパーで売られる前に、加工肉の原材料としてBtoBで取引されるようになるのが先だろう。本書には肉以外にも牛乳や卵白などの培養についても触れられていました。2018年にアメリカで出版された本なので、今はもっと進んでいるんだろうな。培養といえば日本では医療活用が強そうだけど(ips細胞も細胞を培養する機能だ)、食用となると世間がどう対応するのか興味はある。

いやしかし、やっぱり一番の理由は「何それ凄い!」なんだなぁ。3Dプリンターで食事をする未来に近づいているじゃないか。技術的には可能、というやつだ。テンション上がる。
フェイクミートかクリーンミートか、という二択ではなく、両方いけばいいじゃん! と、気軽に思ってしまう。選択肢は多いほうがいいと思う。生きた牛から得た牛肉も、植物性たんぱく質から再現した肉っぽいもの(フェイクミート)も、培養の牛肉も、全部あればいいじゃん。
口にするものについては宗教的な制限とか、個人の感覚的な嫌悪感とかもあると思うので、多分万人に受け入れられるものではないと思う。ただ、人間がこれからも増えていくことを想定したときに、そういう手段を引き出しの中に持っておくって、大事なことだと思うのだ。動物が生きられないような環境でも「肉を食べる」という欲求を満たす手段になれるってことですもんね。


ところで2020年にオープン予定だった3Dプリンター寿司レストラン「SUSHI SINGULARITY」どうなったんだろうと思い出してサイトに行ってみたら、202X年開店予定になってました。無事にオープンされるといいなぁ。

www.open-meals.com

松本清張『昭和史発掘 11』を読みました

父親のお下がりの文春文庫の古い版で読んでいる『昭和史発掘』11巻を読み終わりました。ISBNがついていなくて、新版は収録内容が違うので、リンクは無しで。

10巻でついに決行されてしまった二・二六事件、11巻では蹶起部隊の撤退の様子が描かれます。

二・二六事件 五
・占拠と戒厳令
・奉勅命令
・崩壊


蹶起サイドの年長組として北一輝がいるんですが、彼は辛亥革命で一度クーデターをその目で見たことがある人なんですよね。そして彼は、自分が足を突っ込んだこの蹶起が負け戦であることを、比較的早い段階で悟っていたらしい。

 北が青年将校皇道派の将軍連との間に連絡がなかったことを知って「しまった」と思ったのは、決行が青年将校の独走と知ったからである。革命は上下の全体的な計画のもとに行わなければ成功しないことを、彼は中国革命(辛亥革命)で見てきている。今度の場合、一般民衆の蜂起は考えられないのだ。中国の革命は、地方軍閥の一部の反政府運動が農民の参加によって革命運動にまで発展した。だが、青年将校昭和維新運動には民衆の直接参加がない。その主張には、相沢公判闘争を通じての宣伝で共感する者はあっても、その運動が民衆蜂起を誘発するだけの熟した条件はなかった。(P.56)

しかし無関係で済ませるには足を突っ込みすぎていた。北一輝、最後は法華経とか読んじゃってご神託とかしちゃってとっても山師っぽくて非常に興味深いので、そのうち伝記とか読みたいです。奇人なんだけど、その奇人ぶりを全うできる器があるというところが。

その後の日本史を知っている私にとっては最初から彼らの行動は負け戦だってわかっていたわけですが、当然当時の彼らは事象の最中にいるわけで、勝ちに行くつもりでいたのだ。蹶起部隊の中心人物たちはまぁ確かに読みが甘かったけど自分たちでやる気になって計画した結果なのだからまぁ仕方がない。それよりも、上官に言われて雪の中行軍をして、何をするのかよく知らないまま銃を構えた新年兵たちが私は気の毒でならなかったです。罪に問われるとか問われないとかじゃなくて、何も説明されないまま形の上だけでも反乱部隊に数えられてしまったことが、もう……。遺書とか出て来るんですよ。もう……


蹶起部隊が賊軍となったのは、この事件に対して天皇が徹底的に不快感を示したことが決定的な要因であるわけですが、そのご不興を知って蹶起部隊に同情的だった人々が次々と離れていくのがリアルだった。そうだよなぁ。そんなもんだよなぁ。でもつらい。
若い将校たちが農民が苦しい生活を強いられている現状を正として認めず立ち上がるのは立派だったと思うんだけど、天皇の神聖性を保持したまま世直ししようとした時点で、理論的に立ちいかなくなるものだったんだろうか。天皇が側近の悪い奴らに目を曇らされた状態でいるのを「晴らして差し上げる」という名目で立ち上ったのに、天皇自身が現状を進んで善しとしている状況って、しんどいよなぁ。まぁ11巻ではまだ彼らはそこまではっきりと天皇の意志を知らないのですが、もともと味方だと思っていた上官や皇族から見放される結果にはなっていて、もう、この時点で敗北へのカウントダウンが始まっていたんだな。


反乱部隊も皇軍、鎮圧部隊も皇軍。なんとしても相討ちだけは避けなければという緊張の数日間が続きます。蹶起部隊には上官命令で出動した多数の新兵たちがいて、彼らの命を無下に散らすのは、蹶起部隊の上官からしても、政府側の役人からしても忍びない。
そこで一般の兵に向けた呼びかけを書いたビラを撒くという対策が取られたらしいのですが、これが非常に印象的でした。

「……正しいことをして居ると信じていたのに、それが間違って居たと知ったならば、徒らに今迄の行懸りや義理上から何時までも反抗的態度を取って、天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久に受けるような事があってはならない。
 今からでも決して遅くないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰する様にせよ、そうしたら今までの罪も許されるのである。
 お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを心から祈って居るのである。速かに現在の位置を捨てて帰って来い」(P.229)

この呼びかけの内容や意義が正しいものかどうかというのは、多分もうこんな状況では問題ではないだろう。なんだかわからないうちに逆賊の汚名を着せられて、ああ田舎の家族はなんと思うだろうなんて思っている兵にこの呼びかけをすることの効果は凄かっただろうと思う。こんなんぐらっとくるだろう、「帰って来い」なんて言われたらさぁ。

こういう状況に限らず現代においても、自分が立つ位置というのを自分で選べる余地は少ないものだと思っている。自由に何にでもなれるって呼びかけは世間に溢れているけど、別に私は自分で選んで日本人なわけではないし、生れ育った土地だって自分では選べないし、しかしその選べない環境で身に着けた価値観が個の選択に大きな影響を与えるんだとしたら、自由意志なんて微々たるものだ。自由意志が必ずしも良いものというわけでもないので、そういった状況が良いか悪いかというのはまた別の話だとも思うけれども、なんだか空しくなってくることがないわけでもないです。流されて生きていくのを楽しむのも一興なのかな。

上官命令で出動した兵士たちは一応刑務所に入ったり営倉入りしたりという罰は受けたらしいのですが、そこで憲兵が言ったという言葉が凄い。

お前たちが悪いのではない、ただ上官が大義名分を誤っただけである。これからもあることだ、上官の命令は決して疑ってはならない、わが国の軍隊の強いのはここにある、お前たちには何ら罪はないから安心せよ、といった。(P.305)

まぁわが国に限らず、それが軍隊なのだろう。しかしすごい言葉だ。そういうことだったわけだ。ふぅん……

そして次の巻では、大義名分を誤った上官たちのその後の処置が描かれるはず。どんどん辛くなっていくけど読みます。

ねじれ双角錐群『来たるべき因習』を読みました

https://nejiresoukakusuigun.tumblr.com/post/632304404947681280/%E6%9D%A5%E3%81%9F%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8D%E5%9B%A0%E7%BF%92-strange-festival-speculative-fiction
nejiresoukakusuigun.tumblr.com

2020年秋の文学フリマで手に入れた一冊を読み終えました。文芸同人・ねじれ双角錐群によるアンソロジーです。6名による6作品。著者名・タイトル・あらすじは上記公式サイトに記載があります。

前にも別記事で書きましたが、2020年が私の文フリ……というかこういう物販イベント自体が初参加でした。ブースの周り方とか全然効率的じゃなかったし、そもそも気になるブースを全然チェックできていなかった。それでも事前の噂でねじれ双角錐群の本は良いらしいと聞き、気になっていました。表紙も裏表紙も素敵だったし。
早くしないと売り切れちゃうかも、とも聞いていたので、なにはともあれ真っ先にねじれ双角錐群のブースに向かいました。多分一番乗りだったんじゃないだろうか。おかげで無事に本書を手に入れることができました。表紙の手触りがすべすべで好きだ……

『来たるべき因習』では「奇祭SF」がテーマになっているとのことです。奇祭! いい響きだ。直接的に祭りを扱ったものもあれば、イベントという意味で扱ったものもあって、言葉の解釈の仕方が面白い。もちろん書く人によってがらっと作風も変わるし、とても面白かったです。なんていうか、総じて完成度が高い。
ちなみに記事を書くにあたって本書をググったら、kindle版が出ていました。Kindle Unlimited 会員の方は追加料金なしで読めるようです。気になる方はぜひ。

せっかくなので全編簡単に感想を書いておきます。6番目の『忘れられた文字』だけどうしてもネタバレ入ってしまうので、隠しています。
他の作品についてはネタバレは回避したつもりですが、内容にはがっつり触れていますので、未読の方はご注意ください。
障りのないあらすじが知りたい方は、記事冒頭のリンクから公式HPをご覧になることをお勧めします。




以下、未読の方はご注意ください。

1. cydonianbanana『UMC 2273 テイスティングレポート』

およそ17年に一度、汎地球規模で開かれるウイスキーの品評会についてのテイスティングレポート、という体裁をとった小説。ウイスキー好きとしては初っ端からテンション上がりました。
語られる銘柄は全8種。銘柄名、色、香り、味わい、余韻がそれぞれの冒頭にレポートされていてたまらない。さらに銘柄の名前も実によくて、東ハイランドの「グレンローワン 一二年」なんてまさにありそうな名前ではないですか! 私はスモーキーなのが好きだから、「倶多楽九年ミッシング・カスクス」あたりが好みっぽいかな? 台風によって貯蔵庫から転がり出て、火口群で熟成されたことをきっかけに生まれた銘柄という逸話も良い。
後半になるにつれてSF感が増していくのもテンション上がりますね。仮想現実にのみ存在する「ベンオリンポス 22.4.0」とか、地球の十七分の一の速さで時間が進む惑星フェンリルで作られる「カリアック 一六七年」などなど。あぁ、最高……。
架空ウイスキー図鑑としても楽しめるのですが、この作品が本当に凄いなと思ったのは、やっぱりラストでしょう。

 ウイスキーによって呼び覚まされる記憶は様々で、中には飲み手が経験していない記憶までもが含まれている。ここにおいてウイスキーはある種の記憶装置であり、その香りと味わいによって構成された記憶という名の物語そのものであるとも言える。(P.32)

これまでのテイスティングレポートが一気に収束して、一つの点になってぽんと目の前に差し出される感じ。あ、そうきたか。やばいなこれ。やられました。すごく好き。


2. 笹帽子『ハレの日の茉莉花

直球のお祭り小説。富ヶ谷キャンパスで開かれる文化祭の話。
最初は、おお学園ものか、と思いながら読んでいたのですが、ちょっと様子がおかしい。「闇霊が侵入しています」あたりであれ? となって、「魔術師か」とかいって特に驚きもせずにバトルに入ったところで、そっち系の話か! という事に気づく。でもさらにあともう何回か、ストーリーが急カーブした印象です。話のモードが思いっきりぐるんぐるん回るので、途中で振り落とされるかと思った。こういうの嫌いじゃないです。
オンラインゲームは全然やらないのですが、学校って確かにダンジョンぽいのはわかるかも。時計台とかあるとドラマチックで良いですね。茉莉花と御子柴さんのバトルが非常に良かったです。ライトな語りが文化祭という独特の雰囲気に合っている。
しかし御子柴さん、恰好良いな。


3. 小林貫『ハイパーライト

地球に天使……と人間から呼ばれるようになる自律型播種機械体(オートマタ)が舞い下りる話。
天使の薦めに従い、肉体を捨ててデータパターンとして存在することを選んだ人間たちの前夜を覗き見て、その末の人間(だったもの?)のその後までを描く。これという明確な祭の描写はないものの、この天使の降誕自体が地球にとっての祭なのか、あるいは肉体を捨てるというビックイベントの前夜の風景を前夜祭と見立てているのか。直接的に祭じゃないところが、むしろテーマの広がりを感じられて好きです。寓話的な印象。
しかし≪猿≫がいいよなぁ。このパートがあるのとないのとでは、大違いだ。なにか元ネタありそうな気もしましたが、わからなかった……


4. murashit『追善供養のおんために』

伯父がはまっている新興宗教について書こうとする「ぼく」の手記。
匿名でネットに公開されているという体裁で、身バレを防ぐためにフェイクを入れますと宣言しているところとか、文体が話し言葉そのままでSNSっぽいところとか、細かい部分で芸が細かくて好き。謎の風習とかそこんとこもうちょっと詳しく! と思いながら読んでいた。SNS文体がラストに効いてくる。
そして物語理論についてより詳しく学びたい私は、『廻廊』も読んだ方がいいのかもしれない。うーん、電子書籍かー。


5. 鴻上怜『花青素』

お盆に集まった「姉たち」の一人が酒の肴として世界樹の寄生蟲について語る話。めっちゃ好みでした。幾層にも重ねられた物語世界という構造からしてもう私好み。不思議世界をさらりと描くところが、いいなぁ、好きだ。

 危篤の報せを受けると、姉は愛車(ナナハン)を飛ばして世界樹神奈備へ急行した。国道沿いのスタンドでフゾンを補給し、目の前を横切る聖杯探索中の不死者を轢き殺し、ロードキルの恨み骨髄とばかりにちぎれた不死者の生首が執念深くバイクのマフラーを咬んでしがみつくので仕方なく示談を済ませると、ようやく世界樹の根もとへ到着したのは十数年後である。(P.128)

作品世界の造語もぐっとくるんですが、ちょくちょくネタ的なユーモアが混じっているのがさらに良い。「禁蟲並庶幾諸法度(インセクトゥム・コーデックス)」とか「断捨離(コン・マリ)」とか、めっちゃツボでした。<友愛機構>管理の世界で暮らす姉の話が好みでしたが、そこから流れるように庶幾蟲の王の世界に戻るところ、そして戻った後の展開がすごく好き。コメディなオチと、文語体の美しい言葉遣いの落差が良い。148ページ最高でした。


最後、石井僚一『忘れられた文字』の感想だけ、ちょっと隠しますね。ネタバレ防止。

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恭賀新年、そして2020年の振り返り

明けましておめでとうございます。
2020年は大変お世話になりました。2021年もどうぞよろしくお願いいたします。
ブログを続けていられるのも、読んでくださる皆様のおかげです! いいねやスター、twitterやFBでのコメントなど、いつも励まされています。
2020年も無事に過ごせましたので、去年を振り返って今年のエネルギーにしたいと思います。

まずは本の話から。
読書メーターによれば、2020年は本を110冊読んだそうです。これは、2019年の読書冊数である136冊と比べても分かる通り、私にしては少ないほうです。
しかしまぁ、コロナで引きこもっていた都合上、家に居ても読める分厚い本に手を出した結果でしょう。それに、満足度は総じて高かった。

というわけで! 突然ですがここで、kinoベス2020を発表いたします!
某大型書店のベストとは何の関係もありません。ルールは「2020年に読み終えた本」「再読本は除く」の2つ。掲載順序は読み終えた順であって、ベストの順位を意味するものではありません。本ブログで記事を書いたものについては、リンクを貼っておきます。
では張り切って行きましょう。

【kinoベス フィクション部門 BEST10】
グレッグ・イーガン『万物理論』山岸真 訳
ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フライデー・ブラック』押野素子 訳
藤野可織『ドレス』
W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』鈴木仁子 訳
シャルル・バルバラ 『蝶を飼う男:シャルル・バルバラ幻想作品集』亀谷乃里 訳
ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』若島正 訳
D.H. ロレンス『完訳 チャタレイ夫人の恋人』伊藤整、伊藤礼 訳
ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』高橋啓 訳
石川宗生『ホテル・アルカディア』
川野芽生『Lilith』

まずはフィクション部門です。古典作品がいろいろ読めて満足でした。そしてやっぱり名作揃いでした。さすが古典と呼ばれ生き残ってきただけある。『レベッカ』も面白かったなぁ。2020年の新刊は少ないですが、2019年の刊行本を含めれば過半数になりそう。
そして2020年はなんといっても、ゼーバルトという作家と出会えたのが、私にとっては大収穫でした。ありがとう白水社。そして鈴木仁子さんの訳がまたすごく良いのだ……まだ読んでない本もキープしてあるので、今年も味わえる。
2020年はアンソロジーも面白いのがいろいろあって、短編部門も作ろうかと思ったのですが、ちょっと収集つかなくなるので断念しました『シオンズ・フィクション』を出してくれた竹書房が、2021年にはどんな面白い本を出してくれるか楽しみです。あと東京創元社は銀英伝トリビュートの続刊待ってますので、よろしく。
ちなみに2021年は『イリアス』と『白鯨』を読み切るつもりです。

【kinoベス ノンフィクション・エッセイ部門 BEST5】
エドゥアルド・ガレアーノ『日々の子どもたち: あるいは366篇の世界史』久野量一 訳
鹿島茂『19世紀パリ・イマジネール 馬車が買いたい!』
フィリップ・ウィルキンソン『まぼろしの奇想建築 天才が夢みた不可能な挑戦』
『現代思想2020年6月号 特集=汎心論――21世紀の心の哲学』
管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』

ノンフィクション・エッセイ部門です。
ノンフィクションは苦手といいながら、2020年はわりと読んでいました。でもエッセイは少なくて、評論が多かった。でも10冊選ぶには母数が足りないので、ベスト5で。
ガレアーノと管啓次郎はちょっと雰囲気が似ていて、文体から視点から、すごく好みでした。今年も彼らの著作を何か読もう。
ちなみに私が大好きな随筆家といえばロジェ・グルニエがいるのですが、振り返ってみたら2020年は一冊も読んでいなかった……なんということでしょう! 今年は読むぞ! なかなか手に入らないので、読破してしまう時を怖れてついつい後に取っておいてしまうんですよね。でも年に一冊くらいは読みたいよな。グルニエの訳をしてくれる宮下志朗山田稔も、2020年は読んでいなかった。分厚い本を優先していたからだろうなぁ。
あと『現代思想』はほんと面白かったです。最近ちょっと追いつけてないけど、読みますよ。


さて、続いて映画の話をしましょう。
コロナ禍で引きこもり生活を送っていたとき、U-NEXTとAmazonPrimeの無料キャンペーンで映画をいろいろ観ていました。無料だったのでなんとなくブログに書くのは気が引けて記事にしてなかったのですが、数えてみたら2020年は33本の映画を観ていました。うち、映画館で観たのは9本。セルゲイ・ロズニツァ監督だけで3本ですね。
せっかくなのでオンライン・映画館まぜこぜで、ベスト5を選んでみました。公開年は日本基準です。順番は観た順。

【kinoベス 映画部門 BEST5】
トッド・フィリップス監督『ジョーカー』(2019年公開、映画館鑑賞)
ノーマン・ジュイソン監督『華麗なる賭け』(1968年公開、オンライン鑑賞)
・ラージクマール・ヒラニ監督『きっと、うまくいく』(2013年、オンライン鑑賞)
トム・ムーア監督『ブレンダンとケルズの秘密』(2017年、オンライン鑑賞)
ヴァーツラフ・マルホウル監督『異端の鳥』(2020年、映画館鑑賞)

そういえば2020年の元日は『ジョーカー』を観に行っていたんだった。これやっぱりぶっちぎりの名作でしたね。『華麗なる賭け』はまた古い映画なんですけど、私、スティーヴ・マックイーンが好きで……映画全体のおしゃれ感にやられました。『きっと、うまくいく』は前に友人から勧められてからずっと気になってたんですが、長さに怖気づいて観そびれていたもの。めっちゃ良かった……『いまを生きる』をちょっと思い出しました。私はああいうの弱いんだ。
今年はネトフリ+Oculusで映画三昧を企てているので、いろいろ観るつもりです。ブログに感想も上げれたらいいいな。


2020年は美術館・博物館はあまり行けなかった…けれど、振り返ったらそれでも結構行っていた。今年も平日昼間を狙って、積極的に目の保養をしていきたいと思います。


今年もよろしくお願いいたします。
2021年が皆さまにとって素敵な一年になりますように。

管啓次郎『本は読めないものだから心配するな 新装版』を読みました

本は読めないものだから心配するな〈新装版〉

本は読めないものだから心配するな〈新装版〉

  • 作者:管 啓次郎
  • 発売日: 2011/05/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

2020年の終わりを締めくくる記事が、とても素敵な本の感想となることを嬉しく思います。詩人であり人類学者であり翻訳家であり、な管啓次郎の著作。随筆や書評など、いろんな雑誌に書いた短文をまとめて一つにしたものであるらしい。

この本を読む前の私は、管啓次郎という人については、エイミー・ベンダーの訳者としての一面しか知りませんでした。彼の著作である『狼が連れだって走る月』が良いというのも聞いてはいたのですが、なんとなくこれまで機会がなくて、彼自身の文章というものは読んでいなかった。ただ気にはなっていたためにこの本が手元にあった。
ということで文筆家としての彼には本書で初めて出会ったのですが、冒頭のエッセイ「本は読めないものだから心配するな」からしてノックアウトされました。タイトルと同じ一文で始まるこのエッセイでは、読書についての彼の考えが語られています。

本に「冊」という単位はない。あらゆる本はあらゆる本へと、あらゆるページはあらゆるページへと、瞬時のうちに連結されてはまた離れることをくりかえしている。一冊一冊の本が番号をふられて書棚におさまってゆくようすは、銀行の窓口に辛抱強く並ぶ顧客たちを思わせる。そうではなく、整列をくずし、本たちを街路に出し、そこでリズミカルに踊らせ、あるいは暴動を起こし、ついにはそのまま連れだって深い森や荒野の未踏の地帯へとむかわせなくてはならないのだ。ヒトではじまりレミングの群れとなり狼の群れとなって終わる。あるいは、終わらない。どこまでもゆく。そんなふうに連係的・運動的に、さまざまな本から逃げだしたいろんな顔つきのページたちを組織する。そして読み、読みつつ走り、走りつつ転身する。それが「テクスト」であり、時間の経過の中ではじめて編み上げられてゆく「テクスト」という概念は、もともと運動的なものだ。(P.8-9、「本は読めないものだから心配するな」)

……何だこの言葉の濃密さ、力強さ。
書架に整然と収められていた分厚い本が次々に床に落ちてページが捲れ、文字として印刷された「ことば」がそこから浮き上がって奔流のようにあふれ出し、空調が適切に保たれた部屋から直射日光の屋外へ転がるように飛び出し、黒い塊の群れとなってあっという間にどこかへ行ってしまうような、そんな強烈なイメージが、このページの上にあった。まるで蝗の大群のように瞬間的に空を覆って、またどこかへ行ってしまう「テクスト」。あれはなんだったのか、よくわからなかったけど、なんかすごいの通ったね。同じ「テクスト」の群れを見た人とそんな会話を交わしたりして。
それはまさしく読書だ。よくわからなかったけど、うまく説明できないんだけど、なんかすごいの読んじゃったっていう確信。

おそらく著者自身が常に気を配っているんだろうな、と想像されるものは、繰り返しテーマとして登場する。「言葉」「旅」「翻訳」「多様性」など。そしてそこここに差し挟まれる誰かの言葉や著者自身の記憶をもとにしたエピソードが、その語り口がまたすごく良い。

好きな箇所を抜粋してたらキリがないのですが、年末年始にぴったりな部分があったので引用します。

 大晦日の暗さ、それは「過去のある時点で自分が望んだ未来がいかにわずかにしか果たされていないか」という事実をつきつけられたことで生まれた、悔恨だ。ディドロバルザックもマルローもプルーストも、おやおやこんなに持っているのに、結局まるで読んでいない。でも元旦の明るさ、それは迷いから突然に覚めた明るさだ。過去の自分との約束は果たせなかった、それは認めよう。でもそれはただ無謀な夢想にふけっていただけで、これからはずっと現実的な目標を立てて、少しずつこなしていけばいい。そのための資源が、ほら、こんなに手元にあるんだから。もう体裁を気にしていられるだけの時間は、自分には残されていない。一歩ずつ進めば、それでいい。(P.255、「声の花と眠る書物」)

ちょうどこれを読んだのが大晦日。今年の振り返りをして、来年から真面目に生きようって思っていたときだった。今年は全然、本を読んでないなって思っていたとき。あるいは読んだという手ごたえが、年々感じにくくなっているのか。

だいたい読書というものは、読み終わってからが本番である。本を読んでいる最中というのは、紙面(あるいは画面)に書かれた文字を体内に取り込む作業をしている時間であり、それはそれで喉を通る時に甘かったり苦かったりして楽しめるものではあるんだけれど、本番はそのあと。言葉が体に入り込んで消化されてから。
管啓次郎もこの本で書いている通り、多分読んだものの大方は排出され忘れてしまうのだ。でもたまにものすごい劇薬がその読書体験に含まれていると、数年後か、場合によっては数十年後くらいに、何かのきっかけで頭をもたげて唐突にその読者を揺さぶる。あるいはもっとシンプルに、たった一つの場面だけがちょっとした拍子に思い出されたりする。この、後からやってくるものまで含めてが読書だろうと思う。だからそれは死ぬまで続く。
「読み終わる」というのは、確かに「読み始める」の対になるポイントではあるのだろうけど、そこで「終わり」ではないはずだ。ということが、最近ようやくわかるようになってきた気がする。ある程度振り返る蓄積がないと体感できないものなんだろうなぁ。大人になるのも悪くはないものだ。


ともあれ、とても良い本でした。管啓次郎はやっぱり言葉に真摯な人なんだな。文筆家としての管啓次郎もすごく好きになりました。嬉しい。来年も楽しみだ。

ラヴィ・ティドハー『金星は花に満ちて』を読みました

www.hal-con.net

日本のSF界には、はるこんという行事があります。春に行われるコンベンションだから、はるこん。ゲスト・オブ・オナーとして海外作家を招いたり、ディーラーズルームで即売会をしたりというお祭り……なのですが、実は行ったことがありません。なんだか毎回都合が悪くて行きそびれている。
はるこんでは毎年ゲスト・オブ・オナーの未邦訳作品を短編集の形にまとめ、「ハルコン・SF・シリーズ」として配本してくれているのですが、はるこんに参加したことのない私は当然買ったことがありませんでした。
しかし! 今年の文学フリマに行ったときにはるこんがブースを出していて、2019年版の配本を販売していたのです! ラヴィ・ティドハーは気になってたので、つい買ってしまいました。手に入って嬉しい。ありがとうございます!

本書には表題作含む5つの短編と、橋本輝幸さんの解説、著者あとがきが含まれています。ラヴィ・ティドハー自身が選んだという短編の内訳は以下の通り。

『金星は花に満ちて』(崎田和香子 訳)
『地球の出』(大串京子 訳)
『世界の果てで仮想人格(ゴースト)と話す』(木村侑加・大串京子 訳)
『ネオム』(山本さをり 訳)
『ターミナル』(兵頭浩佑 訳)

表題作は英語版も入っていて嬉しい。ラヴィ・ティドハーはイスラエルキブツ育ちですが、小説は英語で書く作家なんですよね。『シオンズ・フィクション』に掲載された短編しか読んだことがなかったのですが、作品のところどころで中東の香りが感じられるのが楽しい。私にとって馴染みのない文化のひとつなので、エキゾチックな印象を受けるのです。

橋本輝幸さんの解説によれば、5つの短編のうち冒頭の3つは同じ《コンティニュイティ》シリーズに属するとのこと。同じ単語を使っていたのでシリーズなのだろうと思って読んでいたけど、むしろ5つ全部同じ世界観なのかとも思っていた。後ろの2つは違うらしい。でもいずれも人類が宇宙空間に進出した後の世界を描いている点では共通しています。そして地球ではない場所で、「生きる」ではなく「暮らす」を志向しているところが好き。

しかし《コンティニュイティ》シリーズ、これめっちゃいいですね……。シリーズ作品の短編集だという"Central Station"の邦訳、してくれないかなぁ。冒頭の『金星は花に満ちて』は死んだ祖父を悼む話なのですが、祖父を喪って悲しむ女性にそっと寄り添うロボット、R・ブラザー・メケムがすごく良い。彼(と敢えて呼ぼう)、ロボットでありながら聖職者でもあるという、その設定だけでもうたまらない。

(前略)生き残るために人々は恐ろしいことを行なった。そして、R・メケムのようなロボットは、彼らを真似るのに十分なほど人間的だったのだ。R・メケムは、自らが死に直面した多くの場面でそのまま死ぬことも可能だった。しかしメケムはその可能性を選択しなかった。
 自由な選択は、ロボットにとって可能だったのだろうか? 人間にとっては可能だったのだろうか? 人生は選択肢で出来ている。
 選択することで生き、生きていることで選択する。(P.13、『金星は花に満ちて』)


それと、砂漠の都市でパートタイムの掃除人として働くマリアムの話である『ネオム』も、暮らしに密着した近未来SFで、とても好きな文章でした。サウード王朝のムハンマド王子が建設した近未来都市・ネオム。ものすごく裕福な人と、それなりに裕福な人と、裕福ではない人がいる。マリアムは裕福ではない人の部類で、彼女の雇い主はそれなりに裕福な人の部類に入る。そしてそれ以外に、前述の三種類のどこにも含まれないロボットがいる。
マリアムが黙々と掃除をし、介護施設の母親を見舞い、帰宅して煙草をふかす様子がすごく切なくって良い。この淡々とした語り口がマリアムの感情を際立たせているんだろう。このロボットの立場は、この作品ではロボットという存在として書かれているけど、本当はロボットではない人がその役を担っているということが現実にあるよね、って思うとしんどい。でもこの作品のロボットのような扱いを受けている、ロボットではない人は存在するのだ。彼はかなり自覚的に書いているだろうと思いました。マリアムを語り手に持ってくるところが上手い。


しかし何といっても一番好きなのは『ターミナル』です。遠目には小さな昆虫のように見えるオンボロ船の群れが、地球を捨てて新天地・火星へ向かって旅をする話。

これまで人類は何度同じようなことを繰り返してきたことだろう。船を出して海を渡って、あるいは山を、砂漠を越えて。ここではない新しい土地を自らの故郷とするための旅。必然的に、片道切符だ。
この作品では、その行き先として火星が選ばれている。もう帰ってこれないだろうほどに遠い場所。

「ここにサインをお願いします。ここはイニシャルで結構です。あと、こことここと、ここにも。それとあと――」
 このような事務的な作業で生み出される、決して珍しくもない宇宙飛行士にとって、自分が宇宙飛行士になるというのは、そしてゆくゆくは火星人にさえなるというのは、一体どのような気分なのだろう。(P.72、『ターミナル』)

それぞれ何らかの理由でターミナル行きを決意し、一人用のオンボロ船に命を託した面々は、船同士の音声チャットで会話をすることができる。未知への不安に駆られたハジークという男の「ターミナルってどんなところなんだ?」という必死の叫びに、メイという少女が答えを返す。

「想像してみて。初めてあの赤い砂漠の上に立ってみた時の光景を」
 彼女はハジークに語り掛ける。彼女の声はあのイスラム教徒のように、何かを歌っているように聞こえた。
「赤い砂漠への第一歩。今、美しい砂の上にあなたの足跡が付いた。でもその足跡はいつか消える、分かるでしょう。ここは月の上じゃないから、いつかは火星の風があなたの足跡を消し去ってしまう。それを見た時、あなたは命の儚さを思い出す」(P.81、『ターミナル』)

「空にも月とはまったく別の果物がぶら下がっている。そしてあなたは宇宙服を纏い、船外への一歩を踏み出そうとする。その時、重力があなたの体を打った。あまりの苦しさと痛みに、あなたは体を引きずるようにして船から出る。重力がこんなにも強い力だったとは」(P.81-82、『ターミナル』)

この、メイの語りが実に良いんですよ……訳の言葉もいいんだろうなぁ。ラストまでの流れも素晴らしい。
本当に、これまで人類は何度も未知への領域に飛び出して行って、しっぺ返しくらっては再挑戦して、その影にはたくさんの犠牲もあって、でも進むことをやめなかったんだな、ということが、この短編にぎっしりと詰まっている。そこには理性的な判断などはあまりなくて、虫が光の方向へ進んでしまうように、ハーメルンの笛に呼ばれたように、直感的に「行かなきゃ」って思うものなのかもしれない。それが理論的にはリスキーでも、辛く厳しいものでも。いいか悪いかじゃなくて。
あぁしかしラスト最高でした。素晴らしかった。

ラヴィ・ティドハーすごく良かったです。収録作品を彼自身が選んだというだけあって良い作品ばかりだけど、彼は日本をどんな風に見ているのかな。文化も歴史も彼の出身地とは全く異なる国を。
"Central Station" も読みたいので、どこかの出版社でぜひ出してください、お願いします。

川野芽生『Lilith』を読みました

Lilith

Lilith

  • 作者:川野芽生
  • 発売日: 2020/09/26
  • メディア: 単行本

正直なところ、読みました、というほど読めてはいないだろうと思う。
Lilithリリス)は川野芽生のはじめての歌集で、Twitterで流れて来たためにその存在を知ることができました。
私は日頃から詩や短歌を読む人間ではないので、書店に行ってもこれらの売り場はごく稀にしか立ち寄らないし、まして買うことはほとんどありません。ただこの本は、山尾悠子が帯を書いていること、柳川貴代が装丁を手掛けていることでちょっと気になっていました。そして書店に行って、珍しく歌集の売り場に立ち寄って、ぱらぱらっと見て、はいこれは買うやつ! と思ってレジに持って行きました。これは、手元に置いておきたい本だ。

歌集は3つの章に分けられていて、さらにその中でタイトルごとに複数の短歌が載せられている。歌集の形式とか全然知らないのでどう表現していいかわからないのですが、複数の短歌で一つのタイトル世界を表現している感じ? 本書に挟まれた栞で石川美南が「連作」と書いていたので、きっとそういう言葉で表現できる形式なんだろう。同じく栞に寄せられた佐藤弓生の文章で、3つの章の名をつなげた「anywhere out of the world」はボードレールの詩から取られていると書かれていて、言われて初めて知ることができた。

文語体で詠まれた歌の、凛々しい雰囲気が好きです。射貫くようにまっすぐ発せられる言葉。ちょっと頽廃的な歌でも、最期まで自分の主は自分であるという高貴な印象がある。少女的なんだけど、お姫様ではなく女王様って感じで、すごくいい。
歌や詩は一度にたくさん読むことができないので、タイトルずつ、毎日ちょっとずつ読んでいました。

羅(うすもの)の裾曳きてわが歩みつつ死者ならざればゆきどころなし
   (P.6 「借景園」)

眠りとは夜ごと織りなす繭にして解(ほつ)るるとよもすがら繕ふ
   (P.22 「水の真裏に」)

こころとは巻貝が身に溜めてゆく砂 いかにして海にかえさむ
   (P.66 「アヴァロンへ」)

春は花の磔(はりつけ)にして木蓮は天へましろき杯を捧げつ
   (P.101 「老天使」)

愛は火のやうに降りつつ <Amen.>(まことに)を言へないままに終はる礼拝
   (P.142 「ひらくのを」)

好きな歌を拾い上げていくと、歌集の頭から終わりまで全部書き写さなくてはならなくなる。

けど敢えてどれかというなら、連作として特に好みの第III章冒頭の「Lilith」を紹介したい。第29回歌壇賞を受賞したのがこの「Lilith」だそうです。
世間が暗黙のうちに強要する女性に自らを嵌めこむことに違和感を覚えている女学生を想像させる30首。仲の良かった友人たちはその枠に喜んで身を投げ出すようにも見え、男性に庇護されることを良しとできない心が彷徨っているようだ。

晴らす(harass) この世のあをぞらは汝が領にてわたしは払ひのけらるる雲

うつくしき沓を履く罪 踊り出す脚なら伐れ、と斧を渡さる

木蓮(はくれん)よ夜ごとに布をほどきつつあなたはオデュッセウスをこばむ
   (P.120-130 「Lilith」)

自分がいわゆる女学生だったときのことも思い出したけど、あの時はまだ学校というものに守られていたから、求められる枠組み痛烈に感じたのは大学以降かもしれない。自分が女性であるために、ある振る舞いをしたほうが事が有利に運ぶということを学んだとき。
ただそのことについて善悪を論じる気はない。私にとっての問題は、そんなときに私がどのような態度をとるのかという選択にある。ある意味不当なアドバンテージを、いつ使うか、どう使うか、そもそも使うのか? 女性であるということは、場合によっては賄賂のようなものになりうる。例えば私に対して何かが免除されるとき、それは私にとって正当に受け取って良いものなのかを自らに問わなくてはならない。私にとって利益であるときほど敏感に、不当な対応でないかどうかを考えなくてはならない。相手はだいたい好意でやってくれているんだけど、だからこそ受ける側が正当性を判断しなくてはならない。「不当に扱われる」という言葉には良い対応も悪い対応も含まれていて、自分にとって不利益なことを訴えるためには、自分にとって利益になることを普段から退けておかなくては恰好がつかない。結構しんどい。にっこり笑って受けておくことでうまく回ることは多々あって、それでも別にいいときもあるんだけど、心のしこりは消えない。できるだけフェアでいたいって思っているんだけど、多分見逃してしまったあれこれはたくさんあるだろう。

Lilith」に限らず、この歌集全体にわたって、そんなことを考え続けながら読んでいた。この言葉たちが纏う清廉な心を私も持ちたいと思うけれど、思い返せば小さい頃から既にそんな心だったことなどなかったようだ。一度墨を落とした水はいくら薄めても真水には返らないけど、この心で生きていくしかないという諦めと、まぁそれなら少しでもましな状態を維持したいものだという足掻きがある。

章タイトルのように、この本には他にも、私の知らない世界とのリンクが至る所に貼られているのだろう。知っていればもっと楽しめるのだろうけれど、知らないままでも言葉の重みがズンと来るので、かなりやられました。好きな感じだ。