好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

「2022年の『ユリシーズ』」の読書会(第八回:第八挿話)に参加しました

www.stephens-workshop.com

10/25にzoomにてオンライン開催された「2022年の『ユリシーズ』」の読書会に参加しました。
この読書会は『ユリシーズ』刊行100周年である2022年まで、3年かけて『ユリシーズ』を読んでいこうという壮大な企画で、ジェイムズ・ジョイスの研究者である南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんの3名が主催されているものです。詳細は上記URLをご覧ください。第七回までの読書会で使用された資料なども公開されています。
第八挿話はブルーム氏が考え事をしながら街を彷徨い、街角で知人と立ち話したり、お昼ご飯を食べたりする話でした。スティーヴンにはまだ会わなかった。

開催から記事を書くまでに結構時間が経っちゃったのは、写経が間に合わなかったからです。ガブラー版と呼ばれる原書と柳瀬訳との対訳をWordの校正機能と戦いながら毎回せっせとタイプしているのですが、第八挿話はこれまでで一番分量が多くて、読書会までに間に合いませんでした……。結局当日は日本語訳だけ読んだ状態で(しかも夜勤明けの眠い頭で)参加して、それはそれで面白かったのですが、読書会後に残りの写経を終えてみると、やっぱり写経してない部分はいまいち記憶が薄かったと思う。わかっていたことではあるけれど、できるだけ当日までに写経を終わらせた方が存分に読書会が楽しめそうでした。次は頑張ろう。
そういえば第八挿話の写経をしていて、やたらとperhaps という単語が出てきたのが気になって、数えたら11回も出てきていた。ブルーム回だからかなと思って第四挿話(ブルーム初登場挿話)を振り返ってみたら、こっちは7回でした。ブルーム氏はたぶん、たぶん、といろいろ考えながら歩いているから全体的にperhapsが多い傾向があるのかも。

ユリシーズ読書会ではいつも冒頭の約一時間が主催者トークに当てられていて、その挿話にまつわるアイルランド話などが披露されます。毎回知らないことや気付かなかったことが満載で、読書会の楽しみの一つとなっているのですが、今回は後日希望者に動画の録音を送付してくださいました! ありがたい!! 動画の申し込み期日は既に過ぎていますが、おそらくこれからも継続する試みかと思いますので、気になる方は次回以降ぜひ。読書会の雰囲気を知るのにも良いと思います。
ちなみに第八挿話は食べ物の回ということで、アペタイザーから始まって前菜にジャガイモとスープ、メインには肉と魚、デザートのケーキ、そして食後の紅茶というフルコース構成となっていました。スープとプロテスタントの関係とか、シードケーキに隠されたものとか、当時のリプトンの広告とか、あわせて読むとなお楽しい。動画の配布はなくても、主催者トークで使われた資料は後日HPにアップされると思いますので、詳細は実際の資料をご覧ください。
また読書会の第二部では第八挿話に出てくる「食べ物」を参加者皆で出し合ったのですが、実際に実在する食べ物と、比喩としての食べ物と、そこにないけど思い出す食べ物とがあるので、全部合わせると凄い数だった。それに伴って全体的に匂いも強い挿話ですね。こっちもいずれ資料がHPにアップされると思いますが、ほんとに凄い数だったので多分時間がかかるかと。。

生きるためには食べるという行為が必要で、さらにその背後には性的な含みもあって、亡くした息子の影もちょくちょく現れる。ああしかし、今回の挿話でブルームの事がぐっと好きになった。何かにつけてモリーのことを思い出して、彼女が今日ボイランと会うことを思い出して、考えまいとして。わざとらしく他の事を考えようとするところとか、たまらない。あるよなぁ、そういうこと。

実際のところ1秒間に人がどれだけの思考をするかは、その人その時によるわけだけど、どうだろう、私は言葉で思考しているだろうか。考えるときには言葉で考えているはずなんだけれど、感じるということも同時に行っているように思う。例えば暗い部屋でいきなり照明をつけた時「明るい」なんて言葉でいちいち考えない。たいてい光を感じるだけで、わざわざ言葉にするまでもない。

 学長の邸宅。ドクター・サーモン師、罐詰サーモン。あそこにちんまり罐詰住いか。霊安堂みたいだね。金をもらってもあんなとこには住みたくない。今日はレバーとベーコンがあるといいが。自然は真空を忌むだよ。(P.282)

たとえば上記のように、ブルームが歩きながら学長の邸宅を目にした場面。
冒頭の「学長の邸宅」は単に読者への説明であって、ブルームがわざわざ脳内でナレーションしているのではないだろう。多分ブルームの頭の中はもっとごちゃごちゃしていて、「ドクター・サーモン師、罐詰サーモン」の一文もブルームの連想を読者に説明するための補足で、ブルーム氏の脳内ではすっ飛ばされているのでは。むしろ「金をもらってもあんなとこには住みたくない」と「今日はレバーとベーコンがあるといいが」あたりは同時に考えている可能性もある。小説というのはストリームが一つしかないからどうしても順番に書かざるを得ないので、文に前後ができてしまっているけど、例えば映画にしたとしたら、この辺はブルームの声が重層的に聞こえるような演出になりそうな気がする。というか、私ならそうする。イメージ的にそんな感じだ。ライブ感出すためにジョイスはかなり頑張ってるけど、書くという行為自体の限界ってあるよなぁ。

読んでいるとどんどん意味わからん部分が膨れ上がって行くので、否応なく無視して先に進むことになるのですが、だんだん消化不良感が募ってくる。知らない名前はどんどん膨れ上がるし。これ、最後まで読んだらちゃんと回収できるの? できないのもあるんでしょ? 知ってるんですよ。思わせぶりなこと山ほどやっておきながら読者を置き去りにするんだ。ジョイスめ……。
でも頑なに訳注は読まない派です。一周目は素だけで読みたい。いいんだ、何周でもするさ、人生はまだ続くんだから『ユリシーズ』をもう一度読み返す時間くらいはあるだろう。

ちなみに今回読んでてびっくりだったんですが、デッダラスって15人も子供がいるの? え、そうなの? スティーヴンって何番目なの? 『若い芸術家の肖像』を読んだらわかるんだろうか。註は読まないけど『肖像』は読んでおこうかな。

そして最近の私の興味は柳瀬さんの訳語に向かっていたりします。結構変換しにくい漢字を使ってくるんですよね。「向って」「分る」などの送り仮名の特徴はだいぶ慣れましたが(文字数の節約?)、例えば「ひげ」も「鬚」「髯」「髭」でわざわざ書き分けてるので、写経の折には毎回どれなのか目を凝らすことになる。moustache と beard と whisker で使い分けてるっぽいような、でもたまに混じるし、基準がわからない……。どうしてこの漢字にしたのかとか、いろいろ理由があるんだろうなぁ。


なお第九挿話の読書会は2020/12/6(日) 13:30〜17:30に開催予定。2020/11/14現在、まだ空席があるようで予約受付中となっています。興味のある方はぜひ一緒に読みましょう!

五島一浩「画家の不在」展に行ってきました

www.goshiman.com

日比谷の図書館でポスターを見かけたので、気になって行ってきました。会場は廃校をアートスペースにリノベーションした3331 Arts Chiyodaです。場所はだいたい、湯島駅末広町駅の間らへん。
初めて行きましたが、教室ごとにいろんな展示があって、文化祭ぽくて建物全体がとても面白かった。定期的に通いたい。無料なのもありがたいところ。

www.3331.jp

「画家の不在」展は、カメラの父祖である「カメラ・オブスクラ」を部屋に再現した展示です。

深い森の中にあるアトリエの廃墟。巨大な凸レンズが空中に吊られたまま残され、壁のフレームには誰も見ていない像が結ばれています。この部屋/世界はひとつのカメラ・オブスクラであり、空間に飛び交う無数の情報から、レンズは「意味」を抽出します。そしてアトリエに迷い込んだ私の眼もまた、その像を網膜に投影し、投影と結像は無限に繰返されていきます。…ひょっとして思考しているのは私ではなく、レンズなのかも知れない。(公式HPより)

天井から吊るされたいくつものレンズと、その焦点の先に存在するオブジェと、レンズの近くに頼りなく存在する額縁。額縁のなかの空白にレンズが像を結んで、さかさまのオブジェをぼんやりと映し出す。

この世ならざる感が非常に好みでした。たぶんあの部屋は、人類が滅びた後の風景に似ている。部屋を訪れた私は鑑賞者としてその部屋に存在するはずなのに、オブジェやレンズから疎外されているように感じた。私がいてもいなくてもレンズは勝手に像を結ぶのだ。誰もいない森で倒れる木は、音を立てるのか。

見る/見られるというのはやはり特別な行為だ。そこには「見る主体」が必ず存在する。私が物体Aを見るとき、「物体Bではなく物体Aを見る」「物体AをP地点から見る」など、見る側の意思や事情やらがフィルターになって視界を濁らせる。見る主体が物を見るとき、その時その場所からそれを見る、というユニークさが生れてしまう。その唯一性は一種のノイズだ。

先日そごう美術館に観に行った吉村芳生展の時にも考えたことだけど、限りなく純度の高い「世界そのもの」を視界から取り出すには、観察者の自我を消し去るしかないんだろうな。そしてこの展示の「画家の不在」というロジックは、世界そのものという境地に近づくための方法の一つなのかもしれない。

では監視カメラではダメなのか? 画家の不在を監視カメラに預けて撮らせておけばいいのでは? ……という疑問も生じたけど、やっぱりそれは違うのだ。カメラでは「見る」意思が強すぎる。ピントという概念が存在するのもイマイチなんだけど、それよりも何よりも「見る」に特化した機械であるというのが、くどい感じ。

その点レンズは良い。レンズは「見る」のではなく「反射する」ものなので、見ることに対する意思が薄まる。結局は「見る」システムの一部ではあるんだけど、ただの物理作用なので、そこまで強い目的意識を感じないのがいい。
だから例えば、オブジェの近くに水槽があって、ゆらゆら揺れる水面に映るのを見るのはアリだと思う。水槽の水は眼球の水晶体にも少し似ているし。


……ちなみにこの記事を書いていて初めて気がついたんですが、この「画家の不在」展、ほかの映像作品なんかも展示されているらしい。え、観てないんですけど。「画家の不在」以外の展示はどうやら脇道にそれたところのギャラリーに集められていたらしく、ふらふらと夢うつつで会場を彷徨っていた私は見逃してしまったらしい。え、そんな部屋入ってない。えー!! 見たかった!! もう一回行くか? 展示は11/15(日)まで。行ける日があるか?
これから来場する皆さんはぜひお見逃しのないようご注意ください。

あと残念ながら来場できない皆さんは、せめて予告影像でその雰囲気を楽しんでください。

youtu.be

立原透耶 編『時のきざはし 現代中華SF傑作選』を読みました


7月に出ていた中華SF傑作選をようやく読みました。
いやこれ何が凄いって、全17名・全17編の短編SF小説アンソロジーで、華文からの翻訳本で、四六判単行本で解説含め477ページというボリュームたっぷりの品なのに、たったの2200円なんですよ。いいんですか、こんなに安くて? こんなに面白いのに? 普通に考えたら3000円は下らないだろう。どれだけお買い得なんだ……。
書店で平積みされたこの本のボリュームに怖気づいている人は結構いるように思うのですが(私もそうだった)、せっかくだからもう皆買ってしまえばいいと思います。表紙の鈴木康士さんの挿画も雰囲気とあっていて素敵。

少し前まで現代華文小説はほとんど書店に並んでいなかったのに、最近は韓国も中国も「いま」の作家がたくさん刊行されていて、時代の変化を感じる。私は追いつけていない人なんですが、ずっと気にはなっていました。『三体』も面白いんだけど、もっと他の、いろんな作家の作品が読みたい! という気持ちはずっとあって、それを叶えてくれる一冊がついに登場したのだ。アンソロジーっていいなぁ。

収録作品一覧については新紀元社さんの下記ページからご覧いただけます。私がもともと名前を知っていたのは陸秋槎と陳楸帆くらいで、あとは皆さん初見でした。初めまして、今後ともよろしく。

www.shinkigensha.co.jp


17作品もあれば一編くらいはお気に入りがあるだろうと思って読み始めたのですが、お気に入りは一編どころじゃおさまらない面白さでした。全部書きたいけど収集がつかなくなるので、特にお気に入りのものをいくつか書いておきます。

一番好みだったのは、韓松(ハン・ソン)の『地下鉄の驚くべき変容』。2003年初出の作品、翻訳は上原かおりさんです。本書の巻末には著者紹介を兼ねた詳しい解説がついているのですが、韓松は「中国SF四大天王」と呼ばれるうちの一人なのだとか。格好いい呼称だ。
『地下鉄の驚くべき変容』は、朝の通勤ラッシュでぎゅうぎゅうの地下鉄が暗闇の中をひたすら疾走し続けるという話です。いつもと同じように車両に乗り込んだ人々は、身動きできないほど混みあった車内で電車が一向に停まらないことに気づいて困惑するが……。
巻末の解説で、韓松の作品が「技術時代の『聊斎志異』、電子檻の中のカフカ」(P.466) に例えられると書かれているの、分かる気がする。この不条理感はとてもカフカ的だ。道理で好きなわけだ。短編内の小見出しのユーモラスな雰囲気と、だんだん殺伐としていく本文の様子も良い。結末はウロボロス的なものを想定していたので、ちょっと意外でした。

小見出しといえば黄海(ホアン・ハイ)の『宇宙八景瘋者戯(うちゅうばっけいふうじゃのたわむれ)』も短編の中で小さな章に分けられているのですが、これは邦題が痺れるほど見事。落語の「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」が元ネタなわけだけど、よくこんな邦題思いついたなぁ……。原題は『躁郁宇宙』で、Google先生によれば、躁郁というのはいわゆる躁状態鬱状態を行き来する双極性障害の意味らしい。翻訳は林久之さんです。小見出し冒頭の噺家口調から思いついたのだろうか、翻訳者って凄いな。
ちなみに林久之さんは表題作である榺野(トン・イエ)の『時のきざはし』の翻訳もされています。きざはしっていうチョイスも素敵だ。

あと潘海天(パン・ハイティエン)の『餓塔』も外せない。2003年初出、翻訳は梁淑珉さんです。砂漠に不時着したスペースシャトルの生き残りの一団が、砂漠に潜む猛獣ジンと飢えと戦いながら生き抜こうとする話です。ストーリーはクラシックで、結末もやっぱりそうなるよな! という感じなのですが、お約束の面白さがある。王道は強いな。

チョウチンクラゲに似たエイリアンが出て来る双翅目(シュアンチームー)の『超過出産ゲリラ』(浅田雅美 訳)も好き。架空生物ものは好きなジャンルで、生態とか行動原理とか、生物学的に詳しく説明されればされるほどテンションが上がります。

読んでいてすごくワクワクしたのは王晋康(ワン・ジンカン)の『七重のSHELL(シェル)』(上原徳子 訳)。清華大学の学生が精巧にプログラムされた仮想世界と現実世界を区別するテストに挑む話なのですが、ハリウッドSF映画みたいなスリルがある。ゲームになりそうだ。王晋康は韓松と同じく中国SF四大天王の一人だそうだけど、さすがの上手いなぁ、キャリアを感じる。

昼温(ジョウ・ウェン)の『沈黙の音節』(浅田雅美 訳)も、叔母の死の真相に迫るサスペンス作品で盛り上がりつつ、でも抒情的なしっとりとした雰囲気もあってすごく良かったです。言語学専攻の女性作家で、まだ若い作家さんのようなのでこれから他の作品も読む機会があるといいなぁ。

同じく女性作家の糖匪(タン・フェイ)の『鯨座を見た人』(根岸美聡 訳)も、父と娘のしっとりした良い話でした。ほんとぐっとくる。めちゃくちゃ良い。彼女の代表作とのことですが、すごく完成度が高かったです。良い話なんだけど押しつけがましくないのがいいんだ……他の作品も読んでみたい作家のひとり。


本書はコミカルな話からサスペンスまでいろんなタイプの作品が一通り揃っているところもいいのですが、何より嬉しいのがどれもしっかりと文句なしにSFである点です。別にSF警察するわけではないけど、英語圏のSF賞はSF/Fであるからか、ファンタジー色が強いような印象があってちょっと物足りなかったのでした。でも本書は間違いなく「SF小説」の傑作選になっているというのがすごく嬉しい。そう、こういうのが読みたかったの!!
あと、『聊斎志異』はやっぱ読んでおかないとなと思いました。

中華系作家の方々は発音に馴染みがなくて名前を覚えるのが大変なのですが、もっと身近になってすらっと口から名前が出てくるようになりたいです。
現代日本に立原透耶さんがいてくれてよかった。これからの活躍も頼りにしています。

そごう美術館「超絶技巧を越えて 吉村芳生展」に行ってきました

www.sogo-seibu.jp

アクセスの良さからしばしば足を運ぶ横浜のそごう美術館に、今回も行ってきました。吉村芳生の展覧会です。
実は展覧会に行くまで、吉村芳生のことは知りませんでした。ポスターに出ていた精密な鉛筆画に惹かれて観に行ったのですが、いい意味で思っていたのと違って、いろいろ考えて面白かったです。

彼の特徴は何といっても制作過程なのだというのが良くわかる展示でした。鉛筆での緻密な模写、という一言ではちょっと言い尽くせない。
まず題材となるシーンを撮った写真があります。次にその写真を方眼紙のように升目で区分けします。写真の濃淡に従って升目ごとに数字を割り振ります。升目ごとに割り振られた数字に対応する数の斜線を引きます。最後に版画として印刷して出来上がり……なのですが。
ちょっと言ってる意味わかります? 自分で書きながらこれじゃ伝わんないよなと思う。言葉にすると簡単な「升目ごとに鉛筆で斜線を引く」っていうのが、実物を観ると圧倒されます。「ジーンズ」という作品について、その制作過程含めて展示されていたのに釘付けでした。なんだこれ……! 制作過程の説明展示を入れてくれてありがたかったです。こんなの、説明されないと全然わからない。
ちなみにシルクスクリーンとして刷られる前の、フィルムの状態のものも展示されていたのですが、向う側が透き通ってて好みでした。印刷後よりも、よりストイックな感じ。

写真をもとにしたモノトーンの作品は1970年代~1980年代にかけて制作されているのですが、何かを彷彿とさせると思ったら、ブラウン管テレビだった。
彼の絵は升目で構成されているので、ものすごく乱暴に言えばドット絵の一種になるのかなとも思う。ただドット絵と決定的に違うのは、ひとつのドットのバリエーションが色ではなくて濃度であることだ。吉村芳生は昔、色に対して警戒的だったということがキャプションに書かれていたのも面白い。
しかし考えてみると彼が題材としている構図はもともと「写真」として存在しているものです。「写真」は現実の風景を平面に写した印刷物なので、必然的に画素からは逃れられない運命にある。となると、升目ごとに濃淡を埋めていくという手法は、写真という形態にかなり近いものがあるのか。
ただ「写真の模写、ただし鉛筆で」というのが吉村芳生にとってどういう意味があったのか、展覧会を見た後も私の中で謎のまま残っている。

展示を観ながら、写真と同じくらい精緻な絵というのは芸術として成立するのかどうか、というのを一時期考えていたことがあるのを思い出した。もうだいぶ昔の話です。その時はまさか現実にこんなことしてる人がいるとは思っていなかったのですが。それに当時想定していたのは、元の写真と並べても、どちらが写真でどちらが絵画なのかが判別できないほどの模写が可能であったなら、その絵画から画家の視点のバイアスとか画家の自我を消し去ることは可能かどうかということだった。絵を描くときにはどうしても「何をどのように描くか」という画家の意思があって、それが絵の楽しみの一つでもあります。でも、写真を完全に模写するという方法で絵を描けば、あるいは視界そのものを模写するような形で絵を描けば、そのキャンバスに、物そのものを映し出すようなことはできないか? というのを考えていたのだ。懐かしいなぁ。当時の私は、何にも依存しない物そのものを、ただの物体を、世界や自分の意識から切り離して見てみたかったのだ。とはいえ絵を認識する主体がいる以上それって無理な話だよなというのが今の自分の結論ではあるけれど、自我のない世界は未だにちょっと憧れる。

ちょっと話が逸れました。
今回の展覧会で思ったのは、吉村芳生の制作方法はデジタルで置き換えることが不可能ではないだろうなということでした。彼は写真を升目に区切って、数字を振って、その数字に従って機械的に、敢えて心を殺して機械的に斜線を引いた。私心は交えないというようなことがキャプションに書かれていた。なんで? どういう経緯でそういうスタイルになったの?
彼の制作過程をデジタルに置き換えて印刷したものと、彼自身が斜線を引いた絵とを並べたとしたら、それは片方が偽物で片方が本物と呼ばれるようになるんだろう。しかし吉村自身が斜線を引くのにかけた時間と、その線ひとつひとつの重みというのは、機械的にプログラムされて引かれた線による作品に対してどのように認識されるんだろうか。観る人に区別がつかなかったとしたら、その絵のもつ芸術性というやつは、一種の信仰のようなものになるしかないんだろうか。
本当に、吉村芳生はどうしてこういう制作過程になったんだ? しばらく作品を発表しなくなったスランプ期間がいわゆるIT革命期と被るのは、なにか影響があったのだろうか。

しかし2000年以降、転居した山口で、色鉛筆で花を描くようになってからの作風はまたがらりと変わっていて驚きました。多くの画家は南国で原色の世界を目の当たりにすると色遣いが変わるものだけど、山口の豊かな自然を目の当たりにした吉村芳生にも同じような効果があったのだろうか。展覧会のキャプションでは、コスモスの群生に救われたって書かれていた。「未知なる世界からの視点」というめちゃくちゃ大きな作品が、すごく良かった。パキパキに乾燥した茎と、瑞々しく伸びる茎の描き分けや、水面に映ったススキの茫洋とした感じが好きでした。異界の入口っぽかった。
あと、絶筆となったコスモスの絵の、まだ描かれていない空白にぞっとした。2013年にたった63歳で亡くなったのだ。

展覧会のタイトルに「超絶技巧」とあるのは、ここ最近の超絶技巧ブームの流れだろうか。確かに制作方法は驚愕するし実際の作品は緻密だしその執念どっから来るのって感じでもあるので間違ってはいない。ただ、吉村芳生の作品の凄さって、フィジカルな技法よりももっと概念的なところにあるんじゃないかと思う。単純に私の好みというだけかもしれないけど、展覧会でずっと考えていたのは、芸術性とか本物とかっていったい何なんだろうってことです。人間の手で生み出すことにどこまで意味があるのか? 機械の印刷による絵は芸術ではないのか? 昔は機械の精度がいまいちだったから人の手のほうが正確だったけど、今の時代では精緻なだけでいいなら単純作業は機械の方が得意だ。人間が作品を作るまでに積み上げた時間は可視化されない。同じ出来なら、時間を節約した機械の方が「良い」のか、時間を積み上げた人間の方が「良い」のか。プログラムの書いた小説は小説なのか問題と、同じ性質のものを孕んでいるように思う。
展覧会のキャプションでは、機械に奪われた時間を人間の手に取り戻したいというような吉村芳生の言葉が書かれていた。それってどういう意味なんだろうか。

ミュージアムショップで、写真を鉛筆で模写した作品がポストカードとしてプリントして売られているというのが、なかなかシュールでした。
横浜そごう、2020/12/6まで。

成川美術館に行ってきました

www.narukawamuseum.co.jp

元箱根・芦ノ湖二日目はホテル近くの箱根神社にお参りしてから、芦ノ湖湖畔の高台に位置する現代日本画の美術館・成川美術館に行ってきました。(一日目の記事はこちら
初めて来館しましたが、落ち着いた雰囲気でスタッフの方もみんな感じが良くて、いい美術館でした。これは通いたい。

パンフレットによれば年に三回展示替えをしているそうで、私が行ったときには以下の展示期間中でした。

・前本利彦~麗しき花鳥画の世界~
松本勝~花の生命をいつくしむ~
・並木恒延~うるし七彩~
・収蔵名作展~日本画の煌めき~

これがまた、どれも良くてですね! 現役作家の作品が見られる貴重な場でした。一部、作品を売っているのも良い。
現役作家の作品展だと画廊での開催が多い印象なのですが、画廊ってたいてい入場無料なだけに、買えもしないのに行ってもいいの?? という敷居の高さがどうしても拭えず……。しかし美術館だとお金を払うので、観る側の気持ちとしても楽なんですよね。観に来たんです、という言い訳が立つので。だから院展なんかも好き。
でも画廊とかでやってる作品展ももっといろいろ行きたい気持ちはあります。まぁそれはまた別の話。

今回の展示作品の中で特に嬉しかったのが、ちょうど並木恒延の展示に当たったことです。彼のことはつい先月、トーハクでやってた「工藝2020」展で知り、気になっていたところだったので。こういうタイミングが続くとちょっと嬉しいですね。今回出品された作品も、繊細で美しかった。全体的に金箔を多用していて派手なところもあるんだけど、それでも上品さは失わないところがいい。色味がまとまっているからか、シックでモダンな感じがします。いろんなパターンの作品が観られて嬉しかったです。好き。

松本勝は新たな出会いでした。スタッフの方が「女性の方が好みそうな作風」と言っていたのも、実際に絵を観ると納得。ふんわりとした陰影のある優しい絵で、うっとりと観入ってしまった。美しい!!! 優しいタッチなんだけどぼんやりしているわけではなくて、花の存在感がすごく好きでした。これは、欲しいな……家に飾りたい。私は蓮の花が好きなので、蓮を描いた絵が特に気になった。でも他の絵も良かった。椅子に座ってしばらくぼーっと眺めていました。今後このお名前には気をつけておこう。

前本利彦はこれまでも何度か観た覚えがあるけど、兎とか猫とかの動物っぽさがいいなと思います。なんか、可愛いって感じじゃないんですよね……野生で生きてる動物感がある。飼い猫だったとしても、庭先で虫とか追いかけて遊ぶタイプの猫って雰囲気。獲物を狙う目をしてる。上品な白猫も、ちょっと神社の狛犬のような眷属感があって、威厳を感じる。鼻筋がすっと通っているからだろうか。人に飼われて可愛がられてるだけのタイプじゃなさそうなとこがいいな。


あと美術館のチケット売り場で「当館自慢の」と紹介された展望ラウンジは、湖畔よりも高さがある分、文句なしに富士山鑑賞のベストスポットでした。これは自慢でしょうとも。来館当初はまだちょっと雲が出ていたけど、中で展示を観ているうちにだんだん晴れてきて、冠雪した富士山が姿を現してくれた。
美術館にはティーラウンジもあって軽食もいただけるのですが、ホテルで朝ご飯をたくさん食べた私はパス。器にもこだわっているようなので、次に来たときにはお抹茶セットでまったりしたいです。
その代わり展望ラウンジ脇のドアから出られたお庭を堪能しました! そんなに広いお庭ではないけど、ベンチがあって、花壇があって、彫刻があって、富士山が綺麗に見えて、人も少なく静か。すごく良かった。

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成川美術館庭園からの眺め。

美術館の後はしばらく湖をぼーっと眺めた後、帰宅しました。一泊二日でしたがリフレッシュできたなぁ。元箱根~小田原間のバスだけしんどかったけども。
しかし湖畔のお散歩は楽しいです。やはり水辺は良い。次の機会には、恩師箱根公園の方まで足を伸ばそうと思います。

元箱根・芦ノ湖に行ってきました

久々の旅行記です。
うちの勤め先は夏休みをある程度自由に取れるので、だいたい毎年バカンスと称して有休とくっつけて一週間くらいもぎ取り、海外へ逃亡するのですが……2020年は皆さんご存知のアレの影響で国境を越えられず。
しかしバカンスは一週間必要なんだ! ということで休みは取得し、国内で贅沢することにしました。とはいえあまり遠くに行くのもな、と思って、行き先に選んだのは元箱根。芦ノ湖の東側です。一泊二日のお手軽旅。

箱根にはこれまで何度も行っていたけれど、そういえば芦ノ湖の方まで行ったことはなかった。正直、ちょっと交通の便が悪いんですよね。車で行くなら問題ないんですが、公共交通機関だとバス不可避。
私は小田原駅経由が便利なので、行きも帰りも伊豆箱根鉄道のバスで行きました。フリーパスを売っている小田急バスとは違う会社で、ガラガラだった。
小田原から箱根湯本手前までは特に問題ないのですが、山道は半端なく山道なので、酔いやすい方はご注意ください。私は行きはまだ平気だったけど、帰りは気持ち悪くなった……あとバスは箱根湯本あたりで渋滞に見舞われる影響で普通に遅れるので、時間に余裕をみるのが吉です。急ぐ旅には向きません。基本的に私の旅は常に滞在型で、あまり移動することがないので特に問題なかったですが。

いろいろあってスタートが遅れたため、安くて美味しい小田原駅前のさんせんでお昼ご飯に海鮮丼を食べてから元箱根へ。ホテルに向う道すがら、芦ノ湖周りを散策しました。

基本的に私が旅行に行くのは、旅先で散歩をするためといっても過言ではない。知らない場所をただ歩きたい。
芦ノ湖は遊覧船があるので発着場付近は綺麗な港っぽく舗装されています。でもそうではない部分は人がようやくすれ違える程度の細い散歩道があって、とてもいい感じ。とりあえず通れるようにしときました、程度の舗装具合で、あとは草木や虫が好き勝手やっています。ちっちゃい羽虫が多いけれども。
風が吹くたびに草木がざわざわして、道に落ちている木の葉の影がしゃらしゃら動くのが好き。生い茂った枝葉の隙間から晴れ渡った空や湖が覗くのを見るのも好き。

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芦ノ湖沿いの散歩道
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芦ノ湖沿いの散歩道。基本的に人はいない

今回の旅では宿をちょっと奮発して、いいところにしました。「小田急 山のホテル」、昔は岩崎さんとこの別荘だったところです。
ツツジで有名な広いお庭がついていて、夕食にはフランス料理か懐石料理を食べさせてくれて、温泉もある。ツツジのシーズンではない、紅葉にもまだ早い時期だったのですが、快適でした。調度品も何かにつけてグッとくるし、料理もすごくおいしいし、その上GOTOトラベルでかなりお安くなったし、お釣が来るほどの満足度の高さでした。夕食の前菜に出てきたカリフラワーのブラン・マンジェがうっとりするほど美味しかったです。
スタッフの方々は皆感じが良くて、いいホテルってこういうものだよな、と思った。また行きたいと思わせてくれる。

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小田急 山のホテル。お庭のバラ園は少し咲いていた
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フォントに萌えた案内板。「HOTEL de YAMA」なんですね

客室は西側を向いていて、夕陽が綺麗に見えるのがすごく良かったです。部屋にいながら、だんだん暗くなっていく空を楽しむなどという優雅なことをしてしまった。最高の贅沢。

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部屋からの眺め
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部屋からの眺め。月は三日月。

食事の後にちょっと外に出たら、さすが箱根、星がすごくよく見えました。ただ、ホテルの近くは街灯が多くて観測には向かず、ホテルを離れると木が多くて空が狭くなるという……車があればもうちょっといいところまで行けたかな。久しぶりにたくさんの星を見られて嬉しかった。

食事の後は温泉に入って本を読みつつ就寝。翌日は近くにある箱根神社成川美術館に行きましたが、その話はまた今度。

松本清張『昭和史発掘 8』を読みました

父親のお下がりの文春文庫の古い版で読んでいる『昭和史発掘』も8巻となりました。
ISBNがついていなくて、新版は収録内容が違うのでリンクは無しとなっています。

7巻に続き、8巻も2本立てでした。

二・二六事件 二
「相沢公判」
「北、西田と青年将校運動」

そしてまだ二・二六事件自体にはたどり着かない。

7巻で語られた相沢事件の公判から始まるわけですが、読み進めると、確かにこれは二・二六事件を語るときには外せない事件だなというのが分ってくる。松本清張がこの事件の関連に紙幅を費やしているのも納得だ。
堕落した軍上層部に対して純粋な軍人が立ち上がり、たった一人で巨悪に立ち向かった……というのが、青年将校から見た相沢事件です。そして青年将校たちは、相沢事件の公判を、彼らの思いを世間に訴える場として期待していた。

 相沢公判の六回目までは公開裁判だった。その法廷闘争の任務にあたったのは西田税、渋川善助、村中考次らである。その狙いとする相沢供述を世間に知らせ、「昭和維新の精神」を宣伝する効果は、相沢の法廷での自由な陳述によって十分に果たせられつつあった。各新聞が毎回大きくこれを報道したからである。
 一方、それは、陸軍部内に向っては統制派の「不正」を暴露する戦術となった。これによって、皇道派を有利に導き、再びヘゲモニーを握らせる狙いだった。(中略)
 在京の歩一、歩三などの青年将校は第一回公判から多数つめかけ、相沢被告を無言で奨励すると同時に、その陳述に耳を傾けた。裁判長以下判士たちに対する見えざる圧力であった。(P.71)

思っていたよりも世論というのを気にしているのかな、というのがちょっと意外であった。でもやっぱり、何か事を起こすときには「自分は正しいことをしている」ってお墨付きをくれるものが欲しいものなのかも。
相沢公判を通して彼らの思いを世間に訴えることが叶い、これを皮切りに軍の堕落が是正される……というのはまぁしかしちょっと無理がある。軍の偉いさん方は、いろんな政治的駆け引きとかを潜り抜けた末にその地位にいるのだ。甘い蜜を吸う輩というのは、そう簡単に反省なんかしないよなぁ。
というわけで、裁判は途中で非公開となってしまう。

 しかし、皇道派の公判対策も、橋本証言から林証言となるころ、前途の行詰りを感じてきたのである。その隘路となったのが林の用いた軍法会議法第二三五条である。この条文は、軍事参議官などは、その内容が軍の機密に亙るときは、勅許を得なければ証言できないことを規定している。
 この軍法会議法第二三五条の証言拒否権は林にとって絶好の防塞となったが、相沢裁判対策の本部、つまり法廷闘争によって統制派にゆさぶりをかけようとする西田税、村中考次、渋川善助、それに亀川哲也らの一派は大きな壁にぶっつかったことになった。証人が証言を断ると、法廷で追求ができず、企図した方向に進めなくなったからである。これでは、彼らが折角獲得した「公開裁判」の効果の大部分が失われる。主流派である統制派への攻撃は足踏みとなり、ましてや宇垣の引張り出しなど思いもよらないことになった。(P.136-137)

そういうわけで、相沢中佐が事件を起こした理由の一つである真崎教育総監の罷免についての証言が、軍の機密にかかわると判断され、裁判は非公開に。なるほどね、やるなぁ。そうなると公開裁判を契機として昭和維新を進める作戦は暗礁に乗り上げる。ではどうするか? 残された道は直接行動である。
ここへきて青年将校たちの行動は、のちに二・二六事件と呼ばれる出来事へ向けて一気に加速していく。

それまでにも陸軍では何度も小さなボヤが出ていたので、憲兵が非常に警戒していて、しきりに彼らを尾行して記録をつけていました。その記録を松本清張は度々記載しているのが興味深い。憲兵隊は怪しい情報を随時軍の中央部に伝達するのだけれど、軍上層部はそれを本気にしなかった、というのがまた……太平洋戦争の時もそうだったよね、都合の悪い要素を見なかったことにしたりして。

 統制派も、青年将校らが何を考え、何を相談しているかぐらいは察知していた。しかし、かれらは青年将校らの動きを過小評価していたようである。
 青年将校の密会、画策が慌しく行われ、何か重大事の発生を予感させる各種の情報が憲兵隊に入って中央部に警報が伝達されたが、
「軍当局はそれを一笑に附し『青二才連中に何が出来るか』と云って鼻であしらい、むしろそう云う連中なら、逆にこっちが御して対政治策謀に利用してやろうと云うような気配さえ示した」(福本亀治「秘録二・二六事件真相史」)
 中央部統制派のこの態度は、青年将校に対する彼らの優越意識――軍人の階級意識天保銭意識、軍令・軍政機関の組織的意識――や、憲兵隊上部の情勢判断の甘さなどに原因すると思われる。(P.193)

確かに青二才連中だけならここまでいかなかったかもしれないのだけど、彼らには北一輝がいた。読もう読もうと思ってまだ読んでいない北一輝だけど、この巻の後ろの方に彼の半生が紹介されていて、これがまためちゃくちゃ面白かったです。これは、大風呂敷広げて人をその気にさせるタイプだ……! 中国での革命に一枚噛み、青年将校たちが目の敵にする財閥の番頭さんからお金を貰って情報を渡し、一方で若い軍人たちに革命思想を吹き込む。映画みたいな人生だな。どんなこと考えて過ごしてたんだろうか。やっぱり北一輝の本も読みたいな。

そしておそらくきっと次の巻で、遂に二・二六事件が実行される……のかな? 9巻に続く。