好物日記

本を読んだり美術館に行ったりする人の日記

安芸の宮島に行ってきました

もう一か月以上前になってしまいましたが、2019年の大型連休の頃、宮島に行ってきました。
平家物語を読んで以来、一度は行こうと思っていた場所だったので、やっと!!という感じです。
島に宿をとって、夜のライトアップも堪能して帰ってきましたが、一泊二日だったので観尽くした!というほどではなく、ちょっと物足りなさを感じながら後ろ髪をひかれて帰ってきました。また行くことになるでしょう。

とはいえいろいろ堪能したので記録しておきます。神域でした…

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厳島神社の大鳥居、朝の満潮時。

羽田から飛行機で広島に行き、そこから電車で宮島口へ。フェリーに乗れば宮島に到着です。
島に到着した夕方は干潮で、大鳥居を歩いてくぐれるほどに潮が引いていました。足がすっかり見えた大鳥居というのはちょっとコミカルで、真ん中をちょろちょろと流れるところにヤドカリがいた。潮干狩りしている人もいました。良く採れそう。

日が暮れるにつれだんだんと水位が上がっていったのですが、夕焼けの美しさが見事でした。三日月が大鳥居の上にかかっているのを観てしまって、うっとりしていました。しかし鳥居って、あの形状がシンプルイズベストというか、まさにこれ神域!という感じでとても好きです。なんであんなに美しいんだ。

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夕暮れの大鳥居。劇的な効果はだいたいカメラのおかげ。
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夜の大鳥居。三日月とのツーショット。

今回は時間の都合で山には上らず、大聖院という大きなお寺にも足を踏み入れずじまいでしたが、海沿いをぶらぶらと散歩してあなご飯を食べ、寄せては引く波をぼんやり見つめたり鹿にちょっかいかけたりしていたらあっという間に時間が経ってしまった…
とくに厳島神社の宝物館が非常に見ごたえがあったので皆様におすすめしたい。中は撮影禁止だったので写真はありませんが、一時間くらい楽しんでいました。

宝物館の目録がなかったのでメモを取るしかなかったのですが、特に印象深かったものをいくつかご紹介します。

■平家納経(複製)
複製だからといって侮ってはいけないというか、複製でこれって現物どんなよ、ってくらいの豪華絢爛きらきらぶりでした。権力者というのは後ろ暗いことも一つや二つじゃないでしょうから、心の平静を保つために功徳を積んでおきたいと思うのでしょうが、それにしてもめっちゃ豪華だ。功徳を積むというだけではなくて、権力を誇示するという意味もあったのかな。ケースも豪華だったのですが、写経の紙とか、巻物の中心の、なんていうんだあれ、芯棒?みたいな部分も、なんというか一分の隙も無い感じ。権力者ってすごいなぁ、ここまでやっちゃうのか。これは美術品だわ。かなりじっくり眺めてしまった。字が綺麗でした。
たまに本物を展示することもあるそうです。それはそれで、劣化具合を観てみたい。

■偕老同穴(かいろうどうけつ)
海に棲む生物のミイラみたいなもの。白いレース編みのような形状で、円錐に近い形をしていて、いかにも珍品っぽくつつましく木箱に入れられて綿にくるまれていた。曰く結婚の縁起物の一つらしいんですが、あとで調べたらそれ自体は海綿の一種なのだそうです。展示ケースの中に手書きの毛筆でこまごまと由来が書かれていて、英語の説明ではたった3行でまとめられていて、その温度差に笑ってしまった。河童の手のミイラみたいな扱われ方なのかな?なんとも不思議な展示物でした。触ってみたかった。ぱきっと割ってみたいけど、案外硬いのだろうか、どうなのかな。

常盤御前と今若丸、乙若丸、牛若丸の絵
常盤御前源義朝の側室で、牛若丸はのちの源義経です。母である常盤御前が3人の小さい子供を連れている場面を描いた絵なのですが、問題は彼女が胸に抱いている、まだ乳飲み子の牛若丸。彼の胸元にがっつりと、金属の若干錆びついた錠が刺されているのです。正直めっちゃ怖い。なんでこんな頑丈そうな錠が、よりによってまだ赤ん坊の子供にぶっ刺さってるんだ。
しかしこれにはちゃんと解説がついていました。曰く夜な夜な赤ん坊の泣く声がして夜の当直の人が悩まされていたので、絵の中の牛若丸に錠を刺したところ、泣き声がしなくなったとのこと…なんだその怪談!夜泣きしてるのが牛若丸だって、なんでわかったんだろう。詳しくメモしてこなかったのですが、たしか戦前の昭和か大正か、それくらいのエピソードだったはずです。結構最近だなと思った覚えがあります。板に描いたにしては色がしっかり残っていたので、絵自体は古くても江戸時代の筆じゃないかなぁ。これだけ錠が異彩を放っていて、いらんパワーを感じました。


ほかにも宥座の器という道徳教育器具とか、蘭陵王の絵とか、備前が誇る刀や焼物とか、古いものから新しいものまでいろいろそろってました。展示ケースも立派で、たぶん明治か大正くらいに作られたであろう、いい造りでした。ナンバリングがおしゃれだった。あれも一種の奉納かな。

ほかにも千畳閣で奉納額を眺めたり、珍しい青銅の鳥居を眺めたり、野生の鹿を眺めたりして過ごしました。

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社殿と反橋
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三翁神社の青銅の鳥居
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四宮神社の石が積まれた鳥居
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五重塔、千畳閣へ続く階段

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社殿から眺めた大鳥居

仕事やらなんやらでとても疲れているときだったので、実に癒されました。海はいいな。また行きたいです。

チェット・レイモ『夜の魂――天文学逍遥』を読みました

夜の魂―天文学逍遥 (プラネタリー・クラシクス)

夜の魂―天文学逍遥 (プラネタリー・クラシクス)

古本屋で買いました。工作舎の「プラネタリー・クラシクス」は名作ぞろいであることを知っていて買ったわけですが、正直…正直ここまで素晴らしいとは思ってなかった。もうページをめくるたびにうっとりとしていました。一冊まるごと散文詩のような本だった。

チェット・レイモはアメリカの天文学教授で、本書がアメリカで刊行されたのが1985年、なのでそんなに古い本ではない。もちろん当時に比べれば現代の天文学はさらに進んでいるわけだけど、たった34年くらいでは宇宙の謎は解けない、むしろ増えるくらいだ。

本書は全20章に分かれていて、それぞれに小さなタイトルがつけられています。冒頭は「沈黙」。スケートボードと衝突した子供が宙に浮きあがったその瞬間、世界から音が消えたような状態の描写があるのですが、以下に引用するので、まずはちょっと読んでみてください。

子供が空中にいる間、自転する地球は、彼女を半マイルほど東へ運んでいた。また太陽を巡る地球の運動は、逆に四〇マイル西へ運ぶ。太陽系が天の河の星の間を漂う動きは、子供をゆっくりとヴェガ星の方向に二〇マイル移動させる。天の河銀河の回転する腕は、銀河の軸のまわりに巨大な円を描きながら、三〇〇マイル運ぶ。空間をこれだけ飛行してから、子供は地面にぶつかり、ゴムまりのように跳ね返った。彼女は空中にもちあげられ、銀河系を飛び、舗道上で跳ね返ったのである。(P.13-14)

この文章を最初に目にしたときには、その美しさにぞっとしました。本書が傑作であることを確信した瞬間です。この壮大なブランコのような、視点の遠近感。そしてこの後に続く公園の凍り付いた空気の描写と、そこから再び沈黙の宇宙空間へ一瞬で飛び、回り続ける地球と対比させる手腕が素晴らしいんですが、全部書いてたら一冊まるごと写し取らなくちゃいけなくなる。
この部分に限らず、チェット・レイモの見事なまでのミクロとマクロのバランス感覚が、彼の文章の最大の魅力だと思います。人間世界と宇宙空間の圧倒的なスケールの違い。

きのうボストン共有地公園で、子供がひとり空を跳んだのに、空からは何の抗議の声も挙がらなかった。(P.15)

いいですか、ここまででまだ15ページですよ。全部で306ページあるんです。初っ端から私の心を鷲掴みにしたスケールの魔法が、この後も手を変え品を変え、惜しげもなく披露されていくのですよ。こんな贅沢があるでしょうか。あぁ、めまいがする。

チェット・レイモはしばしばソローやリルケの言葉を引用するのですが、彼自身の言葉も実に詩的です。
「夜は形を持っており、それは円錐形である。(P.227)」「地球は夜を魔法使いの帽子のように被っている。(P.228)」と描写される「夜の形」も好きなので少しだけご紹介したい。

地球は夜の円錐の下で自転している。地球は太陽のまわりを巡っている。そしてその赤ら顔の影の帽子が、そのお供をして、いつまでも無限を指さしている。こうした薄暗い帽子の下で、アナグマが溝を掘り、夜行性の蛞蝓や甲虫がうごめく。蝙蝠は空中をバタバタと飛びながら、子供だけに聴こえる甲高い啼き声を立てる。オークの木の梟は月に向かって吠える。こうした薄暗い帽子の下でオポッサムが、狐が、洗熊が、大きな眼の物の怪が、地蛍が、鬼火や狐火が徘徊する。薄暗い帽子の下で、亡霊や幽鬼が、夢魔(インクブス)や女夢魔(スクブス)が、悪鬼や妖女(バンシー)、そして闇の魔王が跳梁跋扈する。天文学者も背の高い椅子によじ登って、望遠鏡をその長い帽子に向け、存在の連鎖を一段一段、一階一階、一列一列と、幸運の島を越え、理想郷を過ぎて、シオンの向こう、星と銀河が手招きし、クェーサーがセント・エルモの火のように脅かしているあの岸辺なき海まで追い求めていくのだ。(P.229)

そもそも自然科学というのは、それそのものが非常に詩的な学問だと思います。中でも天文学は、美辞麗句を費やずとも、事実を事実として述べるだけでその美しさを誇るに事足りる。

宇宙は膨張している。

このたった一文に凝縮されたロマンよ!

本書のみどころを挙げれば、本当にきりがない。
夜が暗いということの不思議(「夜の生物」)、最も遠いところにあるが故に最も古い光であるクェーサーの輝き(「古代の輝き」)、天の河に潜むブラックホールと小川の主とモビー・ディック(「池の中の怪物」)、星の色とその詩的表現(「色彩の甘言」)、いつか来る、そして誰も目にすることのできない宇宙の終わりの考察(「ゆったりとした暗さ」)などなど。
これでもすべてではない。

各章に添えられた版画もいい味を出しています。傑作でした。

「2022年の『ユリシーズ』」の読書会(第一回:第四挿話)に行ってきました

www.stephens-workshop.com

「2022年の『ユリシーズ』」という読書会の記念すべき第一回に参加してきました。非常に楽しい午後だったので記録しておきます。
ちなみにこの読書会は、『ユリシーズ』刊行100周年である2022年まで、3年かけて『ユリシーズ』を読んでいこうという壮大な企画で、ジェイムズ・ジョイスの研究者である南谷奉良さん、小林広直さん、平繁佳織さんの3名が企画されているものです。

最初にこの読書会のことを目にしたのはTwitterですが、どこから流れてきたのかは忘れてしまいました…。『ユリシーズ』は小説・評論問わずあらゆるところでお目にかかるので、一度読みたいとは思っていました。ただ、言葉遊びが多いから原文で読まないとわからないという思いこみがあって、どうにも手が伸びなかったのです。
しかしまぁみんなで読むならいけるかも、という目論見と、ここで読まなきゃ多分一生読まない!という直感から、思い切って申し込みました。我ながら英断だった。

そんなわけで柳瀬訳の『ユリシーズ』を購入したものの、飾ること一か月。実は一週間くらい前から慌てて読み始めました。
とはいえ全18挿話の中の、今回は第4挿話がテキスト範囲なので、一日1挿話読んで、4日で第4挿話までの一周目を読了。その後第4挿話だけ何度か読み返しました。

ほんとうに、読み始めるまで何も知らないまっさらな状態で(図らずも)読み始めたので、この物語が「6月16日のたった一日の出来事」であることもその後から知りました。ちなみに第一回は6/16だったのですが、この日をブルームズデーと呼ぶことも、今回初めて知りました。
ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』とか、ニコルソン・ベイカーの『中二階』とかを思い出しながら読んでいましたが、やっぱりそういう書き方に影響を与えた人なんですね、ジョイス。『灯台へ』は意識の流れっていうよりも元素の動きを追うレベルのイメージだったけど、たぶん狙っているものは似ていると思う。今このときが永遠になるという感覚。

ユリシーズ』に出てくる店や通りは現在もそのままある!というのがひとつの感激であり醍醐味ということなので、読み終わったらダブリンに行きたいなぁ。お店とか、実際いつまで残っているだろうか。
しかし2019年のダブリンにも作品に出てくるものが残っているという、そのことが永遠なのではなくて、1904年6月16日のダブリンが行間の後ろにそっくりそのまま存在するように読めるということが永遠なのだろうな。『ユリシーズ』の背後には、街が壊れようが地球が滅びようが関係ない、不動のダブリンがある。たまたま2019年にもほとんど残っているけど、たとえ戦争や災害で街が壊滅状態になっていたとしても、『ユリシーズ』のダブリンは無傷で残っていることになるので、現実の街がどうなろうとあまり関係ないのでしょう。それは『ユリシーズ』のダブリンがジョイスにとってのダブリンだからであって、『ユリシーズ』を構成する一語一語が元素のように、ジョイスのダブリンを形作っているのだと思う。
そもそも何かを特別だと感じるということは、そういうことなのだと思います。私はあなたではなく私でしかないということと同様に、『ユリシーズ』のダブリンはジョイスだけのダブリンであって、決して私のダブリンではない。さらに言えば『ユリシーズ』のダブリンは「1904年6月16日にジョイスが体験したダブリンを言葉で再構成したもの」であって、それは1904年6月17日のダブリンでは決してない。厳密にいえば1904年6月16日にジョイスが体験したダブリンとも同じではないんだけど、レプリカとしては最も近いもの、なのでしょう。
とはいえ残っているなら見たいよな!2022年はダブリンに行こう。

アカデミックな文学の読み方というのを学んだことがないので(出身は文学部ではない)、精読の仕方というのが新鮮で面白かったです。そうか、そういうところに着目するのか、という感じ。こことここの単語がつながっているとか、小道具にどんな意味があるとか。猫の鳴き声まで!


そして読書会のかたちとして非常に新鮮だったのが、参加者の意見を吸い上げる際にデジタルなツールを使っていたこと。普段の授業でも使っているそうで、テクノロジーの正しい姿って感じで、とてもうれしい。

主催の方々のやさしさと配慮の滲み出た、とても雰囲気の良い読書会でした。
もう一度第四挿話を読み返したい。そして次回の範囲である第一挿話を読み込みたい。一度通読してから戻ってこようかな。単語の意味も調べたいな。『オデュッセイア』も読みたいよなぁ。
こうしてやりたいことや知りたいことが芋づる式に増えていって、自分で自分の首を絞めている気がしなくもないけど、楽しいので仕方がないですね。
新しい軸足ができたように感じてとても嬉しいです。新しい扉を開いてしまった。

陳浩基『ディオゲネス変奏曲』を読みました

ディオゲネス変奏曲 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

ディオゲネス変奏曲 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

中国、韓国などのアジア圏の文学が、このところ快進撃を続けています。朝鮮現代文学、華文ミステリ、華文SFがどんどん訳されていてうれしい限り。なんていうか、新しい時代の到来を感じられて良いですね。越境してる感を一番感じるのが華文文芸です。水滸伝とかまでさかのぼらなくても、現代の中国を感じられる。ベトナムとかインドとかの文学も読んでみたいですね。広がれアジアの文学。

ということで『13・67』の陳浩基による華文ミステリです。彼は香港の人だけど、台湾でも活動しています。軽く読める本が恋しい頃合いだったので、短編集はうれしい。
ディオゲネス犬儒派の哲学者の名前ですが、シャーロック・ホームズシリーズに「ディオゲネス・クラブ」というのが出てくるとは知りませんでした。自分の思考にひたることで作り出した作品たちということで本書のタイトルに含めたのだとか。
さらに面白いのは、「変奏曲」と題されたこれらにはそれぞれ副題のように音楽用語が付与されていること、そして作品ごとにイメージソング(クラシック曲)が設定されていること。巻末の著者あとがきで丁寧にそれぞれの作品の初出、コメントと共にイメージソングが明かされていて、youtubeで作成されたプレイリストのURLまで載っているのです。今そのプレイリストを聞きながらこの記事を書いています。
※2019/6/22現在、1曲だけ非公開になっているのがありました

短編14編、習作と題された散文が3編、計17編が収められているのですが、SF色の濃いものやサスペンス風のものなど、バラエティ豊かで面白かったです。
冒頭の『藍を見つめる藍』はストーカーの話なんですが、初っ端から引き込まれました。基本的にサスペンス的な緊張感が好きで、たった一言で足元揺さぶられるのも好みでして、ミステリ要素薄めの『霊視』『頭頂』も面白かったです。
でも一番のお気に入りは、日本のヒーローものに影響を受けたという『悪魔団殺(怪)人事件』。ジャガイモ怪人が何者かに殺され、頭部のジャガイモ部分がマッシュポテトにされているという陰惨極まりない事件についての話です。だってもうこの殺害現場を想像しただけで、あまりにコミカルで笑ってしまう。マッシュポテトって!

BGM聞きながら作品を思い返すと、味わい深くて良いです。クラシックは良いものだ。

そして本書の冒頭に掲げられた以下の一文の重み。

本書を謹んで天野健太郎氏に捧ぐ

『13・67』の訳を担当され、2018年に亡くなられた天野さんのことです。台湾の作品を中心に訳されていました。彼のおかげでお目にかかることができるようになった華文文学がどれだけあるか!

そんなに分厚い本ではないにも関わらず、非常に満足度の高い一冊でした。

藤沢周平『麦屋町昼下がり』を読みました

麦屋町昼下がり (文春文庫)

麦屋町昼下がり (文春文庫)

実家の引っ越しのごたごたでいつの間にか我が家に来ていた本。こういうの読むのは、祖母かなぁ。時代小説は自分からはあまり読まないので新鮮でした。
全4編の時代小説短編集です。ミステリっぽい要素もあるけれど、ミステリにカテゴライズするほどミステリでもない。多分ストーリーを引き締めるための謎成分なのでしょう。
ひょんなことから藩内で最も強いといわれる剣の遣い手に目を付けられる表題作「麦屋町昼下がり」、昔は剣の名手で鳴らしたが今は酒浸りの日々を送る男に護衛の仕事が回ってくる「三ノ丸広場下城どき」、切腹した友人の遺書から藩の後ろ暗いあれこれに巻き込まれてゆく「山姥橋夜五ツ」、夫の出世問題で幼馴染と水面下の戦いをする「榎屋敷宵の春月」。
人って弱いものだよなぁ、というところに焦点を当てているので、社会背景の違いはあってもすいすい読めます。

どれか一つ選ぶなら、「三ノ丸広場下城どき」が好きでした。上記の通り主人公・粒来重兵衛は元は名手で鳴らした剣の使い手なのですが、最近はすっかり稽古もさぼっておなかもポッコリしてきている。そんな重兵衛がいつものように町で飲んでいると、すすっと寄り添う男がひとり。

「粒来どのは、無外流の名人であられるそうですな」
 突然に、市之進が重兵衛の耳もとでささやいた。何を大げさなことを言うか、と思ったが、重兵衛は阿るような市之進のささやきが、ひさしく埃をかぶっていたむかしの矜持を気持よく刺戟したのを感じた。
 重兵衛はむかしの光栄を思い出させた男をじっと見た。そしてわざと磊落を装って言った。
「なあに、むかしのことでござる」(P.98)

こういう心の動きの描写がうまいなぁと思います。あるある、わかる、という感じ。
今は太鼓腹の重兵衛に護衛の話が来るのは、何かあっても碌に護衛ができないことがわかっていて「都合のいいいやつ」として名指しされたのだということを、読者はこの短編の冒頭ですでに知っています。そして重兵衛は思惑通り失敗する。
実は重兵衛は何かあっても腕に覚えのある自分ならなんとかできると思っていたのです。しかしできるつもりだったのに、できなかった。できなかった事実を目の前にまざまざと突きつけられたときの絶望と恥と後悔は、知ってる人なら知ってるはずです。あのしんどさ。
失敗はリカバリが本番です。やっちまったことは戻らないので、いかにリカバリするかで真価が問われる。つらいんですけどね。腹を切れば自分だけは現実世界から逃げられるんですけどね。重兵衛はどうするのか。

時代小説とはいえ、人の心は数百年ではたいして変わらないので、舞台が多少変わった世界ってだけで、ある意味一種のファンタジーかもしれない。
良い息抜きになりました。

江川卓『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』を読みました

謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)

謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)

集英社の世界文学全集所収の『カラマーゾフの兄弟』訳者による評論です。最初は図書館で借りて読んだのですが、面白すぎて買っちゃいました。何が面白いって、原文のロシア語だとどういう表現になっているかを含めた考察になっていることです。これは素人には無理だ…

初っ端でそもそもカラマーゾフという姓が固有名詞ではなく形容詞的に使われることから話が展開され、「黒」との関わりの深さが述べられるところから引き込まれました。論拠となる引用もしっかり含まれながらもあまり学術寄りにならずに読み物として楽しめるのは、もともと雑誌『新潮』に連載していたから書き方を工夫したというのもあるのだろうけど、工夫して読みやすくできちゃう江川さんの文章力なんだろうなぁ。

翻訳というのは一種の翻案だと思うのですが、作品における著者の意図を認識していないと訳が死んでしまうことはあると思います。製品マニュアルの翻訳は「正しい操作を行うこと」という本質を有していれば問題ないのですが、文学ではそうもいかない。「あの単語でもその単語でもなく、この単語を使った意味」をひとつひとつ考えていくことが重要なのでしょう。音の響きとか隠喩とか身分による言葉遣いの差異とか。そう思うとほんとうに、当たり前のように本屋に並んでいる翻訳小説たちがまばゆく見える…

そして、そうなるとどうしても言語の違いによる言葉のニュアンスの伝え方が立ちはだかる。『翻訳できない世界のことば』という素敵な本がありますが、言葉というのは文化なので、必ずしも1対1として対になるものではないんですよね。100%重なる訳語など存在しないのが当たり前なくらいだ。たとえば新潮文庫の原訳では「病的な興奮」と訳されていたキーワードがあるのですが、江川さんは「うわずり」と表現している。大審問官のなかでキリストを誘惑する悪魔について、原文では「霊(ドゥーフ)」という言葉が使われていることも指摘しています。翻訳を読んでいるだけでは「訳者による解釈の結果」しか得られないので、こういう微妙な単語チョイスの舞台裏を知ることは難しいんですよね。翻訳を読み比べればどう違うかというのを見ることができることもあるけど、やっぱり原文を読むのとは味わい方が変わってくる。翻訳を読むことの制約のひとつなのですが、だからこそ面白いともいえるのでしょう。訳す人によって言葉が変わると、その作品世界の色合いが変わる。その中のどれが正しいといえないことも多いので、あとは好みの問題でしょう。翻訳は選択肢が多いほど豊かになる。

タイトルに「謎とき」と含まれているのは、上記のような言葉に隠された意味を解き明かすというものを含め内容は多岐にわたるのですが、メインディッシュは当時のロシアで流行していた鞭身派・去勢派との関連性を解き明かす、というものです。
鞭身派は「霊は善、肉体は悪」という立場で性的な交わりに対して否定的だったのですが、だんだん「信徒同士ならアガペーだから大丈夫」みたいな方向に歪められて堕落していったようです。それを、やっぱり肉欲はいかん!と立ち上がってそんな巨悪の根源は取り払ってしまえとなったのが去勢派、だと理解してます。すいませんちゃんとは調べてないです。
そしてカラマーゾフは行間の奥で黒につながっているわけですが、それに対し、白につながる人がいる、というのが面白いところ。白い靴下をちらりと見せて相手をぎょっとさせるあの人が、カラマーゾフの黒に対する白なのではないか、と。ほほーう、と思わずため息が出る。面白いなぁ。

江川さんは『罪と罰』『白痴』についても謎ときシリーズとして出されているので、これらも読むつもりでいます。

山尾悠子『歪み真珠』を読みました

歪み真珠 (ちくま文庫)

歪み真珠 (ちくま文庫)

『飛ぶ孔雀』で魅せられてからのにわか山尾悠子ファンで、読むのは本作が2作目、初の短編です。山尾悠子は文庫よりも単行本が似合う作家だと思っているので、本書が刊行されたのを知ってはいても買うつもりはありませんでした。しかし旅先で読むものがなくなって本屋に寄ったときについ買ってしまった。買ってよかった。珠玉の短編集、という言葉がこれほどまでに似あう短編集はないと思います。どれも良い…

ほんの数ぺージのものから、長くても40ページくらいの全15編の掌編小説を集めた短編集です。ほんの数枚の紙に作品世界がすんなりおさまっているのがすごい。
どれもこれも好きなのですが、特に好きなものについて話をしましょう。

「向日性について」
たった4ページでありながら、ものすごく引き込まれました。

向日性と仮に呼ぶ性質は、かの地のひとびとの生活全般を厳格に支配している。あるいは支配するものと推測される。

そんな書き出しで始まるこの掌編で語られるのは、日向にいる人々は普通に働き生活しているのに対し、日陰にいる人々は横たわり動かない世界。そんな奇妙な土地の記憶。シャッターを切る音が聞こえそうな一瞬の切り取り方が、山尾悠子は非常に巧い。ぱっぱっとスライドのように切り替わっていく街の様子がたまらないです。

「ドロテアの首と銀の皿」

この本の中では一番長い、40ページほどの掌編。歳の離れた夫に先立たれた女性が、夫の親族が屋敷に騒々しく居座る中で、庭に現れる白い娘を横目に婚姻証明書を捜す話、というのがまぁストーリーなのか?私の要約が良くないのだろうけど、一言で説明できないし、説明してしまってもそれはこの小説を表すものにはなりえないと思う。これに限らず、山尾悠子の作品においてストーリーを説明することが果たして必要なのかどうか、むしろそんなこと可能なのかどうか疑問だ。大事なのはきっとそこじゃない。適当な一文を引っ張り出すほうがよほど説得力があるように思って引っ張り出す一文を吟味してみたけど、それでもやはり一文では足りない。自分から潜っていくしかないようです。

「影盗みの話」

影盗み、と呼ばれる人々の説明と、彼らについて書かれた小冊子、通称「赤本」についての話。架空の生物の生態についての話が好きな私にとって、特殊な性質をもつ人々の話を素通りできるわけがなかったです。しかも「影盗み」という存在が「設定の固まり」であるというのがとても良い。
古今東西、不思議な存在には独特のルールがあるというのが暗黙の了解で、そのルールは物理法則のごとく絶対だけど理由はわからん、みたいなのが結構あります(日本の妖怪に出会った時の対処法しかり)。影盗みは人に害を加えはしないけど、設定の固まりだという、その着眼点がすごく好き。ラストも秀逸。たまらなかったです。

ほかにも「美神の通過」「アンヌンツィアツィオーネ」などどれをとっても素晴らしいので、文庫ではなく単行本としても持っておきたい。至福の時間でした。